2022年4月13日水曜日

「戦争プロパガンダ10の法則」 サンデーモーニング出演者の欺瞞と変節と厚顔(世に倦む日々)

 世に倦む日々氏が、「『戦争プロパガンダ10の法則』 サンデーモーニング出演者の欺瞞と変節と厚顔」とする記事を出しました。

 「戦争プロパガンダ10の法則」は具体的には下記であり、著者アンヌ・モレリが同書の1章~10章に付した各タイトルがそのまま10の法則になっています。

戦争プロパガンダ10の法則」  アンヌ・モレリ
われわれは戦争をしたくない
しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
敵の指導者は悪魔のような人間だ
われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う
われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる
敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
芸術家や知識人もの戦いを支持している
われわれの大義は神聖なものである
10この戦いに疑問を投げかける者は裏切り者である

 いうまでもなく戦争プロパガンダは戦争の当事者双方が行うものであり、それを一方の主張にだけに押し付けて解釈しようというのは間違いなのですが、西側では、なぜかロシアの主張がプロパガンダであり、ウクライナの主張は真実であるということになっています。
 世に倦む日々氏は、ブチャの惨劇がどちら側によって行われたかの極めつけがそのよい例だとしています。
 記事ではサンデーモーニング出演者がやり玉に挙がっていますが、その認識はもはや西側一般のものになっています。しかしこういう重大事態の中でこそ、アンヌ・モレリの冷徹な指摘は共有されるべきです
 世に倦む日々氏はまた、似たように扱われる言葉に「イデオロギー」があり、本来は左右の別なく使われる筈なのに、25年前くらいから、イデオロギー」が左側の政治思想と主義理論の意味に特定されて使われるようになってきたとしています。
 こちらについてはもはや生々しさがなくなったので客観的に判断しやすいと言えます。
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「戦争プロパガンダ10の法則」- サンデーモーニング出演者の欺瞞と変節と厚顔
                             世に倦む日々 2022-04-12
先週(4/3-4/9)はブチャ虐殺でさわめき立った一週間だった。先々週(3/27-4/2)はアゾフ連隊のクレンジング(政治漂白)の一週間だった。戦争プロパガンダの毒気の濃度がますます高まって、人の大脳神経を侵し狂わせている。今週(4/10-4/16)は、マリウポリの陥落に合わせて「ロシア軍が化学兵器を使用した」という告発と喧噪の一週間になりそうで、その前奏曲として、ロシア軍新司令官に任命されたドボルニコフが「シリアの虐殺者」だったというプロパガンダが周到にシャワーされている。

先週より、日本のマスコミ報道は、ブチャ事件をロシアの仕業と断定し、その上で、ロシア軍による虐殺や非道な戦争犯罪の「諸事実」を報道で積み重ね、既成事実化し、それを前提にした認識と議論をローラーしてきた。検証はない。ロシア側からの反論はまともに掬い上げられず、最初からウソだと決めつけられていて、ロシア発の情報は悉くプロパガンダの扱いで処理され、頭から排斥されている。ロシア側の言い分も一応は聞いて吟味検討してみようかという姿勢は微塵もない。 

国際社会の反応を見ると、4月8日に行われたロシアの人権理事国資格停止をめぐる国連総会の票決では、賛成93か国、反対・棄権82か国と、ほぼ半々の拮抗した結果になっている。この決議案の政治は、ブチャ虐殺についてロシアを糾弾し村八分にする目的の外交戦略で、英米が主導して素早くキャリーした作戦だった。その意味から鑑みれば、国際社会の半分は西側に与せず、冷静で慎重な立場で事件に臨んだことになる。戦争犯罪の刑事事件なのだから、まずは国連の調査団が入って確認と検証するのが手続き的に筋だった。

ロシアは安保理開催を求め、これはウクライナ側が仕掛けた罠だと抗議して、中立的な第三者の調査と報告という方向に持って行こうとしたが、英米が却下して、いきなり国連総会での採決に持ち込んだ。この拙速な進行と手法が、却ってブチャの事件像を怪しくさせているように思われてならない。ロシア軍の犯行だと断定する主張に自信があるのなら、なぜ国連調査団を現地に入れないのか。私自身は、時間が経過すると共に、虐殺はアゾフ連隊の仕業 - ロシア軍協力者の掃討 - ではないかという心証を強めている。

ロシア側の立場に立ってブチャ事件を分析し、反論を試みた日本語の考察として、4月8日に田中宇が上げた『市民虐殺の濡れ衣をかけられるロシア』の論説がある。この認識内容に全面的に賛同するわけではないが、説得力があり、一読の価値がある点は否めない。整然とした論理で事実関係を整理し、判断の根拠を説明していて、ジャーナリズムの筆力の何たるかが表出された言論だ。この田中宇の文章を読むと、山添博史とか、高橋杉雄とか、防衛研からテレビに出張っている「解説者」の浅薄さが比較対照でよく伝わる。

知性と胆力のレベルが根本的に違うことが分かる。本来は、一方の側の言い分として田中宇の意見がマスコミで紹介されなくてはならず、公共の電波を使った報道の公平が担保されなくてはならない。放送法の原則がコンプリート(⇒貫徹)されなくてはならず、放送法が事業者に課している義務が正しく履行されなくてはいけない。田中宇の問題提起は力業の労作で、勇気を伴う知力の発現だと正直思う。発表すれば石礫が飛んでくる。世間から袋叩きされ、物書きとして命取りとなるリスクもある。

先週(4/3-4/9)は、ブチャ虐殺問題で明け暮れて、マスコミ空間はロシア憎悪の叫喚と爆轟で埋まったが、ツイッターのタイムラインを見ると、じわじわと、そのプロパガンダの洪水に抵抗する声も増えている。マスコミの現状があまりに一方的な大本営報道の便槽であるため、うんざりして別の新鮮な言論を探し、プロパガンダ中毒を中和しようとする者が出始めている。バランス感覚を取り戻す効能の薬剤として、田中宇的な視角と立論への需要が起こっている。おそらく、人の精神の本能的で生理的な反応として。

その発現作用の一つなのか、先週(4/3-4/9)、「戦争プロパガンダ10の法則」が話題になり、ツイッターで関心が集まる現象が見られた。英国のポンソンビー卿が第一次大戦後の1928年に指摘し、それをベルギーの歴史学者アンヌ・モレリが理論化して有名になった学説である。日本で巷間に広まったのは、米原万里が生前の著書の中で言及し、さらにそれをサンデーモーニングの「風をよむ」が取り上げた影響による。番組の当該回の放送は、橋谷能理子の声の響きと共に記憶に残っている。

米原万里。生きていれば71歳、この侵攻の感想をどう述べただろう。瀬戸内寂聴が元気だったら何と言っただろう。関口宏と橋谷能理子は、「戦争プロパガンダ10の法則」を番組で説教した経緯を覚えているはずで、青木理も松原耕二も寺島実郎も田中優子も浜田敬子も同じだろう。「10の法則」が現在の報道環境とあまりに符合し一致するので、人々が衝撃を受けている。モレリの警告と啓発は、客観的で批判的なセオリーであると同時に、戦争プロパガンダを作出して発信する側にとってはマニュアルなのだ。

プロパガンダを軍事作戦でハンドリングする主体にとって教材なのである。そのことは、4月8日にプライムニュースに出演した薗浦健太郎が、「10の法則」には触れずに婉曲的に話していた。「10の法則」を提示し、英米ウの発表および西側マスコミの報道と突き合わせれば、連日の情報の内容が戦争プロパガンダであることは一目瞭然となる。大衆がそれに操作され扇動されている事実は明白だろう。だが、「10の法則」を伝えて視聴者に覚醒を促し、戦争プロパガンダに感化され翻弄されないよう呼びかけたはずのサンデーモーニングの面々が、実際には、戦争プロパガンダの散布者になっている。

これを欺瞞と呼ばずして何と呼べばいいのだろうか。変節と呼ばずして、厚顔と呼ばずして何と呼べばいいのだろうか。西側の軍事権力機関で工作・演出された戦争プロパガンダを、放送で躊躇なく肯定して連発し、日本の視聴者を戦争に駆り立てているのは、サンモニの高額ギャラの出演者たちではないか。一般には平和志向の左翼リベラルと認定され、戦争プロパガンダとは無縁で対峙する位置にあるとされる彼らが、その世間評価を逆利用して、過激な戦争プロパガンダを吐きまくり、ロシアとプーチンへの憎悪と戦意を煽っている

本来、平和主義が伝統の日本の左派であるなら、戦争そのものを絶対悪とする9条原理主義の態度を貫き、紛争状態に入った関係国には中立で臨み、すなわち、今般国連総会で棄権に回った慎重派の諸国と立場を同じうするべきでないのか。何より、戦争プロパガンダの一方的で作為的な発出と横行に対して、それを理性の力で批判して押し返す反戦の陣地に立たなくてはいけないのではないのか。そうした知性の証と言論の業こそが、リベラルを代表して番組に出演する者に期待されてきた能力と任務の核心ではなかったのか。

而して、今、プロパガンダの意味が変わった事実に気づく。プロパガンダの語の意味が、国語辞典に記載されているプレーンな概念ではなくなった。辞書には、「ある政治的意図のもとに主義や思想を強調する宣伝」と一般論的な定義が説かれている。通常(平時)はこのとおりだ。だが、準戦時となった現在はそうではない。マスコミ論者が「プロパガンダ」と言うときは、専らロシア側から発信された情報や言説の意味に固定づけられていて、西側からの情報や言説は「プロパガンダ」ではないのだ。この言葉から一般名詞のニュアンスが取れた。

プロパガンダという言葉には、「嘘偽り」「政治目的の情報操作」の意味がある。戦争や政治闘争する者が、故意に嘘の情報を信じ込ませる工作というネガティブな語義がある。政治は陰謀であり謀略の過程と集積である。政治(戦争)で闘い合う二者は、敵の側にプロパガンダの語を押しつけるのであり、敵陣営が発信した情報はプロパガンダ(虚偽)で、自陣営が発信した情報は真実だと必ず言うのである。双方が、相手側の情報と主張をプロパガンダだと決めつけ、罵り貶めつつ、互いが虚実織り交ぜたプロパガンダを並べる。自己正当化の詭弁競争を演じて第三者の支持を奪い合う。

今回の言論風景と思想状況を見ながら、直観するのは、ちょうど25年前くらいから、イデオロギーという言葉がそうした変容の運命を辿った事実である。イデオロギーという用語も、本来は辞書的な一般論の意味があり、その意味で世間で使われていた。だが、世相が変わり、政治が変わって、イデオロギーの語は、ある特定の政治思想と主義理論の意味に固定づけられて行く。社会主義・共産主義・マルクス主義のカテゴリーが、イデオロギーの語義のバスケットに押し込められ、イデオロギーの語は一般性を失って行った。抽象的ではなく具体的意味に化けた。

他方、靖国神社や日本会議の思想は、イデオロギーとして拒絶的に指定されなくなり、逆に、保守という、現代日本では政治的に正統と標準を意味する範疇で解釈されるようになった。彼らの嘗ての悪魔性と禁忌性が消された。プロパガンダと同じくイデオロギーという用語も、やはり - 虚偽を隠蔽する理屈とか欺瞞を正義化する教義とかの - ネガティブなニュアンスを帯びたタームであり、マイナスシンボルの政治言語である。敵に押しつけて攻撃する嫌悪ワードであって、自らはその語を引き受けない。プロパガンダと同じ性格と効果の言葉だ。政治の汚さや穢らわしさを漂わせた不吉な言葉だ。

今、プロパガンダという言葉は一般性を失い、ロシア(と中国)という具体性に括り付けられて語られ、意味が新しく定着(変容)しつつある。そのことは、英米発の情報はすべて真実として疑わず鵜呑みにするという態度に動員されることを意味する。われわれは、そうした胡乱な言論状況だからこそ、「10の法則」をあらためて復習し、プロパガンダの概念を正しく学び直す必要がある。戦争プロパガンダに誘導されない、惑溺されない知性と理性と勇気を持つ市民にならなければならない