2022年4月28日木曜日

28- ウクライナではCIAが住民虐殺作戦(櫻井ジャーナル)

 櫻井ジャーナルが「 ~ ウクライナではCIAが住民虐殺作戦」という記事を出しました。
 ウクライナの現体制は13年11月14年2月にかけて米国のバイデン副大統領(当時)らが実行したクーデターで出現しました。クーデターの主力として使われたのがネオ・ナチの右派セクターで、それを編成したドミトロ・ヤロシュをゼレンスキーは昨年11月、ウクライナ軍最高司令官の顧問に据えまし
 クーデター後、ウクライナ軍と治安機関SBU(ウクライナ保安庁)CIAが掌握したとされています。CIAは米軍と表裏一体の形で、ベトナム戦争などでの残虐行為を行ってきましたが、蛮行の詳細については、一部の例外を除いて同行のメディアも公表しませんでした。
 ウクライナでも昨年11月以降、東部ドンバス地方の住民の虐殺作戦が進められ、今年の3月に実行される運びになっていました。
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米国の国務長官と国防長官が極秘訪問したウクライナではCIAが住民虐殺作戦
                         櫻井ジャーナル 2022.04.26
 アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官とロイド・オースチン国防長官がウクライナのキエフを4月24日に極秘訪問、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領と3時間ほど会談したと伝えられている。その会談でアメリカ側はさらなる軍事面や外交面の支援を約束、キエフのアメリカ大使館を再開する睨み、リビウへ外交官を入れるという。
 アメリカは従属国も利用して兵器を含む軍事物資をウクライナのクーデター体制へ供給しているようだ。その行先がどこか不明だとアメリカ政府は主張しているが、ロシア軍の攻撃で相当量が破壊されているだろう。2011年にリビアを軍事侵攻した際にはベンガジのアメリカ領事館が武器や戦闘員を輸送する拠点として利用されていた。アメリカ大使館をCIAは秘密工作の司令部として利用してきたが、それだけでなく兵器のデポ(⇒預け先)として利用するつもりなのだろう。

 ウクライナの現体制は2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権が実行したクーデターで出現した。その主力として使われたネオ・ナチの右派セクターは2013年11月、ドミトロ・ヤロシュとアンドリー・ビレツキーによって編成されている。
 ヤロシュは2007年にNATOの秘密部隊ネットワークに参加、その年の5月に欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議がウクライナのテルノポリで開かれたが、その議長をヤロシュが務めている。その当時、アメリカのNATO大使を務めていた人物がヌランド。ゼレンスキーは昨年11月2日、ヤロシュをバレリー・ザルジニー ウクライナ軍最高司令官の顧問に据えた。
 ウクライナの治安機関SBU(ウクライナ保安庁)の長官に就任したバレンティン・ナリバイチェンコはクーデターの前からCIAに協力していた人物で、隊員の個人ファイルをCIAに渡していたと言われている。軍と同様、治安機関もCIAが掌握しているわけだ。2018年にロシアへ亡命したSBUの将校、バシリー・プロゾロフもSBUは2014年からCIAからアドバイスを受けていたと語っている。
 クーデターで排除されたビクトル・ヤヌコビッチ大統領は東部と南部を地盤とする政治家。南部のクリミアでは2014年3月16日にロシアへの加盟を問う住民投票が実施、80%を超える住民が投票に参加して95%以上が加盟に賛成しているが、憲法を破壊したクーデターを支持する西側の人びとは民意を否定する。

 対応が遅れたオデッサでは反クーデター派の住民が虐殺され、ドンバス(ドネツクやルガンスク)では戦闘が始まる。その際、ウクライナの軍、SBU、ベルクト(警官隊)の少なからぬメンバーが反クーデター軍へ参加、戦闘はドンバス軍が優勢だった。
 そこでオバマ政権はテコ入れのためにCIAやFBIの専門家数十名を顧問として送り込み​、​傭兵会社「アカデミー(旧社名はブラックウォーター)」の戦闘員約400名をウクライナ東部の制圧作戦に参加させたとも伝えられている。また​CIAは2015年からウクライナの特殊部隊員をアメリカ南部で訓練しているという。
 ル・フィガロ紙の特派員、ジョージ・マルブルノはウクライナでの取材を終えて帰国した後、アメリカ陸軍のデルタ・フォース(第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊)やイギリス陸軍のSAS(特殊空挺部隊)が戦闘に参加している事実を伝えている。
 クーデター当時、ヤヌコビッチ大統領派の議員だったオレグ・ツァロフは2月19日に​「大虐殺が準備されている」という緊急アピールを発表した。ゼレンスキー大統領がごく近い将来、ドンバスで軍事作戦を開始するという情報をキエフから得たとしている。
 その作戦ではドンバスを制圧してからキエフ体制に従わない住民(ロシア語系住民)を「浄化」、つまり皆殺しにすることになっていて、西側からの承認を得ているともしていた。SBUはネオ・ナチと共同で「親ロシア派」の粛清を実行することにもなっていたともいう。住民虐殺の責任を西側の政府や有力メディアはロシアに押し付けるつもりだったのだろう。
プロゾロフによるとSBUの「死の部隊」は暗殺、誘拐、拷問を実行、そのターゲットのひとりはルガンスクのクーデター政権が支配している地域の市長で、ロシアと問題を話し合いでの解決しようとしていたボロディミル・ストルク。3月1日に誘拐され、拷問された上で胸を撃たれて死亡した。
 また、3月5日にはロシアと交渉しているチームのひとり、デニス・キリーエフがキエフの路上で治安機関SBUの隊員に射殺され、3月7日には殺されたゴストメルのユーリ・プライリプコ市長の死体が発見されている。4月25日現在、ウクライナでは11名の市長が行方不明だともいう。
 ゼレンスキー政権は3月後半、ロシア語系住民を支持基盤とする11の政党を禁止している。そうした政党のひとつを率いるビクトル・メドヴェドチュクは昨年から軟禁状態だったが、今年4月に逮捕され、手錠をかけた姿を撮影した写真が公開された。ウクライナ側はメドヴェドチュクとウクライナ兵との交換を求めている。
 SBUや親衛隊(ネオ・ナチ)はCIAの指揮下にあるが、現在、ウクライナで行われている「親ロシア派狩り」はベトナム戦争の際にCIAと特殊部隊が行った住民皆殺し作戦「フェニックス・プログラム」、あるいはラテン・アメリカでCIAが現地の軍人で編成した「死の部隊」に酷似しているとも指摘されている。
 フェニックス・プログラムは1967年6月、MACV(ベトナム軍事支援司令部)とCIAが共同で実行した「ICEX(情報の調整と利用)」として始まった。その名称はすぐに「フェニックス・プログラム」へ変更される。殺人担当チームは軍の特殊部隊から引き抜いて編成されたが、命令はCIAから出ていた。

 そうした秘密工作の実働チームとして動いていたのは、1967年7月に組織されたPRU(地域偵察部隊)という傭兵部隊。この部隊を構成していたのは殺人やレイプ、窃盗、暴行などで投獄されていた囚人たちが中心で、「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画されたプログラム」だ。
 CIA長官としてウィリアム・コルビーはフランク・チャーチ上院議員が委員長を務める特別委員会で証言、その中で「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」と語っている。
 コルビーはアレン・ダレスの側近のひとりで、1959年から62年までCIAサイゴン支局長、62年から67年までは極東局長、そして68年から71年まではフェニックス・プログラムを指揮していた。
 1968年3月にソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で農民が虐殺されているが、これもフェニックス・プログラムの一環だったと見られている。この事件はアメリカ陸軍の第23歩兵師団第11軽歩兵旅団バーカー機動部隊第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊に所属するウィリアム・カリー大尉の率いる第1小隊によって実行された。犠牲者の数はアメリカ軍によるとミ・ライ地区だけで347人、ベトナム側の主張ではミ・ライ地区とミ・ケ地区を合わせて504人だという。
 1968年、コリン・パウエルは第23歩兵師団の将校として南ベトナムに入っている。2004年5月にCNNのラリー・キング・ライブに出演した際、その師団がソンミ村で住民を虐殺、後で自分も現場へ入ったと語っている。パウエルは上官が聞きたくない情報をもみ消すことに長けていたとも言われている。

 この虐殺は従軍記者や従軍カメラマンも知っていたのだが、報道していない。事件が広く知られるようになったのは、兵士の告発を知り、取材したシーモア・ハーシュの書いた記事をAPが配信してからだ。

 アメリカ軍の従軍記者や従軍カメラマンはアメリカにとって不都合な事実は伝えないウクライナでもアメリカの政府や有力メディアはベトナム戦争の時と同じことをしている。いや、当時より言論統制は厳しくなっている