しんぶん赤旗日曜版7月6日号に掲題の記事が載りました。
今年は日本の敗戦から80年になります。
日本は日米戦争(第二次世界大戦)では東南のアジア各国に侵攻し、特に朝鮮と中国にはそれ以前から過激な加害を行いました。
朝鮮に対しては1875年の「江華島事件」に始まる「激烈な侵略と虐殺」を行い、1910年には「日韓併合」の名の下に韓国を植民地にしました。
敗戦から80年が経過しましたが、日本はそうした過去の国家犯罪に対し責任を果たしたのでしょうか。しんぶん赤旗(日曜版)が加藤圭木・ー橋大学教授(朝鮮近現代史)と川上詩朗弁護士(日本弁護士連合会人権擁護委員会委員)に聞きました。
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朝鮮侵略と植民地支配反省を 日韓条約60年 残された人権回復
しんぶん赤旗日曜版 2025年7月6日号
今年は日本と韓匡】が国交を正常化する基本条約を調印(1965年6月22日)して60年、日本の敗戦(45年8月15日)から80年です。日本の朝鮮侵略と植民地支配は何を引き起こし、その責任は果たされているのか-。加藤圭木・ー橋大学教授(朝鮮近現代史)と川上詩朗弁護士(日本弁護士連合会人権擁護委員会委員)に聞きました。 本吉真希記者
日本の朝鮮侵略と主な虐殺・収奪 |
・朝鮮半島・同周辺地図 ↓
https://drive.google.com/file/d/1UIm5zozY0flQ-YIkZslud6xO-Med-WyZ/view?usp=sharing
始まりは150年前の江華島事件
ー橋大学教授(朝鮮近現代史)加藤圭木 さん
日本社会で語られている“80年前の戦争″とは何でしょうか。その多くは1941~45年のアジア太平洋戦争や37年の日中全面戦争、広くとっても31年の「満州事変」以降の15年戦争だと思います。
しかし朝鮮半島の側から見ると、今年は朝鮮侵略150年といえる年です。とくに日清戦争(1894~95年)・日露戦争(1904~05年)を通じて、日本の強圧的な侵略で甚大な被害を受け、完全に植民地にされた歴史があります。侵略と植民地支配の過酷さと暴力性を知るには、歴史の現場から考えることが大事です。
日清・日露へ至る第一歩
ソウルに行く日本の観光客の大多数は、仁川(じんせん)国際空港のある永宗島(えいそうとう)に降り立ちます。この島は近代における日本の朝鮮侵略の第一歩の現場です。
1875年、朝鮮を開港させるため、日本の軍艦は江華島(こうかとう)の砲台を砲撃して焼き払い、数km離れた永宗島の砲台も砲撃して占領しました。日本車が武力行使した江華島事件です。76年に不平等条約である日朝修好条規の調印へとつながりました。
江華島事件では抵抗した朝鮮人兵士35人が殺害されました。永宗島の東端に追慕碑があります。
日本側の当時の報告書は逃走する兵士の様子を「恰(あたか)モ豚児ノ群り広野ヲ飢走スル如(ごと)ク、或(あるい)ハ蹟(つまづ)キ或ハ転倒シ、其(そ)の有様実二抱腹ノ至リナリ」と侮蔑的に記しています。
政府指導者には、朝鮮を対外戦争の軍事拠点として確保したいという発想がありました。具体的には、1890年の第1回帝国議会での山県有朋首相の施政方針演説です。ロシア脅威論を背景に、「主権線」=国境線の防衛のためには「利益線」を確保する必要があるという戦略発想でした。その下で、利益線の焦点になった朝鮮への膨張政策が進められました。その最たるものが日清・日露戦争だったのです。
家屋奪い軍用地を設置
朝鮮半島南部に巨済島(きょさいとう)という島があります。日本は日露戦争当初から軍用地として接収し、砲台や営舎のような建物を設置しました。住民が慟哭(どうこく)しながら一斉に被害を訴えたものの、日本軍は家屋などを奪っていったといいます。
巨済島では民衆とともに地方官が強力に抵抗しました。日本側は、抵抗を続けるのであれば銃殺すると地方官を脅迫し、強権的に軍用地収用を進めました。日本海海戦(1905年)では巨済島の周辺一帯が出撃拠点として利用され、その後も続いた軍事占領は人々の生活を一方的に破壊する形で強行されました。
日本は日露戦争を通じて朝鮮を軍事占領し、戦後直後には「保護国」化=事実上の植民地化 を断行。「韓国併合」(10年)で民族自決権を徹底的に否定しました。
朝鮮と国境を接する満州の間島(かんとう=現中国延辺)には多くの朝鮮人が移り住み、抗日運動の拠点になっていました。19年の三・一独立運動ではその勢力が朝鮮に入り込み、運動を活性化させました。日本は20年、独立運動を弾圧する目的で間島に軍を派遣し、多数の朝鮮人を虐殺しました。
間島への出兵は31年の「満州事変」の伏線ともいえます。満州侵略の要因はいろいろありますが、その一つは、朝鮮支配の安定のために朝鮮の外で展開された独立運動を抑えつけることでした。そのためには満州の安定的な支配が必要でした。
このように朝鮮侵略・植民地支配と満州侵略は地続きです。植民地支配はまさに戦争を遂行するための体制で、これに抵抗した朝鮮の人々は容赦なく弾圧されたのです。
さらに朝鮮侵略と植民地支配は、性暴力を伴っていたことを認識する必要があります。日本の公娼(こうしょう)制度が朝鮮に導入され、性搾取の対象に朝鮮人女性も組み込まれていきました。日本軍は植民地朝鮮で公娼制度と密接な関係にありました。日本軍「慰安婦」制度はかかる歴史の積み重ねの上につくりあげられたのです。15年戦争期だけの問題ではありません。
日本は朝鮮の人たちに日本語の使用や「日の丸」の国旗掲揚、創氏改名などを強制し「同化」を求めながら、民族差別を貫徹しました。具体的な加害事実を踏まえ、朝鮮植民地支配は「人道に対する罪」で、不法であったと捉えるべきです。
65年の国交正常化は、日本政府が植民地支配の責任を認めない欺隔(ぎまん)的なものでした。過去の歴史をきちんと見ない選択をしたのです。60年前の選択で良かったのか、考える年にしなければいけません。
個人の賠償請求権は消滅していない
弁護士 川上詩朗朗 さん
ー 戦後80年の節目をどのように見ていますか。
戦後は本来、国家などが戦前の事実に向き合い、自らの責任を認めて謝罪し、侵された人権の回復をめざして始まりました。
人権とは、ー人ひとりの人間の尊厳確保のため必要とされる生命・自由・幸福追求など生来的な権利です。いかなる時代でも、国家は人権を尊重し、擁護・確保しなければなりません。それは ▽自ら人権を侵害しない ▽第三者による侵害を防止する ▽侵害された人を救済するーという義務を負うことです。
国連が2011年に「ビジネスと人権に関する指導原則」で示したとおり、企業も人権尊重の責任を負います。
それを日本国憲法や世界人権宣言が求めていますが、戦後80年を迎えても戦前の人権侵害が十分回復されていません。
国企業の責任は未解決
- 韓国の元徴用工などの補償問題について、日本政府は1965年の日韓請求権協定で「解決済み」と主張しています。どう見たらいいですか。
日韓基本条約と同時に結んだ日韓請求権協定2条は、個人の財産や請求権問題は「完全かつ最終的に解決された」と定めました。この条文をめぐる徴用工の裁判で韓国大法院は2018年、日韓請求権協定により「個人の請求権は消滅していない」と判決を出し、日本企業に対し被害者への賠償を命じました。
日本の最高裁も、07年裁判で国家間の日中共同声明で中国人被害者個人の賠償請求権は消滅しないと判断しています。ところが、強制連行・強制労働(徴用工)や日本軍「慰安婦」など、戦後補償問題に関する国家や企業の責任は未解決です。
戦前生じた人権侵害が未解決である根底には、日本政府が植民地支配の不法性を認めていないという問題があります。
1951年から始まる日韓会談で日本は植民地支配を正当化し、韓国側が求める植民地支配の清算に応じませんでした。
65年の日韓基本条約2条は、10年の「韓国併合に関する条約」を「もはや無効」と確認しました。韓国はこの意味を植民地支配自体が「不法」「無効」であると解釈しましたが、日本は「合法」「有効」であると主張し、今も固執しています。人権侵害をくり返さないために、戦前の植民地主義への総括が行われるべきでしたが、それが行われず今に至っています。
- 人権問題を考えるときの出発点は事実と向き合うことだと言います。
人々がどのような国をつくり、どんな生活を営むのかは本来、そこで暮らす人々が自ら決めることです。植民地化はこの自決権を奪うことです。
植民地とされた朝鮮では日本の専制政治の下、朝鮮の人々の土地や生産物が奪われ、あらゆる分野で差別されました。侵略戦争に「帝国臣民」として動員もされました。
日本は今もこれら植民地支配の不法を明確に認めず、根本的な反省や謝罪もなく、戦前の差別意識が払拭(ふっしょく)されていません。これが新たな差別を生む背景にあります。
日韓基本条約は、韓国政府を「唯一の合法政府」とし、南北分断に加担しました。日本はその後、朝鮮民主主義人民共和国と国交も結んでいません。
戦後80年を迎え、過去に誠実に向き合い、未来のため課題を克服することが求められているのではないでしょうか。