2014年4月30日水曜日

御用メディアに操られてはいけない

 
 オバマ大統領が来日して日米共同声明に「尖閣は安保適用範囲」の文言が盛り込まれました。安倍首相は、「画期的な声明」と「自画自賛」し、マスコミも「満額回答」大成果であると報道しました。中には、「だからTPPでは日本はアメリカにはもっと譲歩しなければならない」とコメンテーターに言わせた売国的メディアもありました。
 
 それではアメリカは尖閣諸島は日本の領土であると認め、その領有権が侵されたら日米安保協定に基いて侵略国に対して全力で戦うとでも約束してくれたのでしょうか。
 そのようなことはありません。オバマ氏自身が共同記者会見で述べたことは、次のようなことでした。
 (尖閣諸島の)領有権に関しての決定的な立場は示さない。けれども、現に日本の施政下にある島の領有権について一方的な変更がされるべきではないと思っている。これはこれまで一貫して述べてきたことだ」
 要するに「日米安保条約第5条は、日本の施政下にある地域を適用範囲としており、尖閣は日本施政下にあるから、条文解釈上、尖閣は安保適用範囲に含まれる」という、ごく当然のことを述べただけであって、それ以上でもそれ以下でもありません
 
 日本の後 韓国を訪問したオバマ米大統領朴大統領と共同記者会見で、日韓関係をめぐり「従軍慰安婦問題はおぞましくひどい人権侵害だ。元慰安婦たちの声を聞き、尊重しなければならない。何が起きたのか明確な説明も必要だと述べたことで、日本側には掌を返したかのように受け取った人たちもいたようですが、オバマ氏としては何もぶれてはいなかったのでした。
 
 オバマ氏訪日のお祭り騒ぎが一段落したいま、日本のメディアのあり方について常に批判的な植草一秀が、「堕落御用メディア報道に頼ると馬鹿になる」というやや刺激的なタイトルで、大統領の真意と日本のメディア報道の体たらくについて冷静に分析しています。
 
 オバマ大統領明治神宮訪問に当たって、安倍首相の同行った記事も併せて紹介します。
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堕落御用メディア報道に頼ると馬鹿になる
植草一秀の『知られざる真実』 2014年4月29日
2013年7月の参院選に際してマスメディアは、参院選最大の焦点が「ねじれの解消」であると報道した。そして、参院選最大の争点は「アベノミクスの是非」であるとも報道した。安倍政権発足当初の半年で株価が8割上昇した。米国金利上昇に伴う円安・ドル高が日本株価上昇を誘発したためであった。また、野田政権の増税まっしぐらの経済政策が日本株価を下振れさせていた、その反動が生じたためでもあった。
しかし、理由はどうあれ、株価が急上昇した局面で経済政策の是非を問えば、肯定的な回答が返ってくるのは当たり前のことである。
つまり、マスメディアは、報道を通じて参院選での安倍政権を全面支援したのである。
 
「ねじれの解消」で言えば、2010年にまったく同じ状況があった。2010年7月参院選で民主党が勝利していれば、衆参ねじれは解消したのである。「ねじれの解消」が大事なら、このときもマスメディアは「ねじれの解消が最大の焦点」であると主張すべきであっただろう。しかし、そのような声を聞くことはなかった。
メディアは、「普天間問題で日米関係を悪化させた民主党政権」の大合唱に明け暮れたのである。
つまり、日本のマスメディアは腐っているのである。「権力迎合」、「御用」、「偏向」これが日本のマスメディアの現実である
 
中日新聞=東京新聞、琉球新報、沖縄タイムズ、北海道新聞、日刊ゲンダイなど、ごくわずかなメディアが、ジャーナリズム精神を失わず、社会の木鐸としての役割を果たそうとしているが、大半のマスメディアは堕落し切ってしまっている。
情報空間が汚染されているなかで、市民が真実を見抜き、正しい判断を下すことは容易でない。しかし、それを実現しなければ、日本社会の刷新、是正、改新は実現しない。
 
オバマ大統領が来日して、読売新聞は日米共同声明に「尖閣は安保適用範囲」の文言が盛り込まれることをスクープ報道した。まるで、このことが日米首脳会談の大成果であるかのように報道した。
呼応するかのように、安倍首相は、「画期的な声明」と「自画自賛」し、政府関係者も「満額回答」とのコメントを発表した。まさに大本営そのものである。
読売と言えば、戦犯容疑者でありながら釈放され、その後、CIAのコードネームPODAMを付されていた正力松太郎氏が実質的に創設した日本の民間マスメディア企業である。
米国の大衆情報戦略の主軸には3Sが置かれた。スクリーン、スポーツ、セックスで市民の娯楽欲求を満たし、政治的欲求が高揚することを防止するという戦略である。この3S戦略を日本で実践してきたのが読売グループであると見ることもできる。
 
しかし、「尖閣は安保適用範囲」などという米国政府の見解は、言い古されたものである。こんな代物を一面トップで扱うことが、まさに「大本営発表」なのである。
これはNHKにも完全にあてはまることだ。
オバマ氏自身が共同記者会見で次のように述べている。「私たちの立場は新しいものではない。ヘーゲル米国防長官が日本を訪れたときも、ケリー米国務長官が訪れたときも、両方ともわれわれは一貫してこの立場を取っている。領有権に関しての決定的な立場はお示ししません。けれども、一方的な変更をすべきではないと思っている
これまでも一貫して述べてきたのは、日米同盟が、つまり日米安保条約は日本の施政下にある全ての領域に当てはまるということであって、これは何も新しい立場ではない。これまで一貫して述べてきたことだ」
 
日米安保条約第5条は、「日本の施政下にある地域」を適用範囲としており、尖閣は日本施政下にあるから、条文解釈上、「尖閣は安保適用範囲」に含まれる。それだけのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。このことは、本ブログ。メルマガでも繰り返し指摘してきた。
 
重要な事実は、オバマ大統領が共同会見を通じて、このことではない部分を激しい表現で強調したことだ。それは、安倍氏に対して、「日中間の緊張をいたずらに高めるな」ということだった。
オバマ大統領が共同会見で提示したのは、安倍首相に対する箴言(しんげん=戒めの言葉)だったのだ。これを日本のメディアは一切報道しなかった。
(以下は有料ブログのため非公開)
 
 
オバマ米大統領:明治神宮訪問、米側が安倍首相の同行断る
毎日新聞 2014年04月29日
 オバマ米大統領が24日に明治神宮を訪問した際、日本側が安倍晋三首相の同行を打診したところ、米側が日程上の都合などを理由に難色を示していたことが分かった。翌日からのオバマ氏の訪韓を前に、歴史認識問題に敏感な韓国を刺激しないよう配慮したとみられる。日米外交筋が28日、明らかにした。
 明治神宮訪問は米側の希望で実現し、オバマ氏は当日、境内で流鏑馬(やぶさめ)も鑑賞した。2002年に来日したブッシュ大統領(当時)も流鏑馬を鑑賞したが、このときは小泉純一郎首相(同)が一緒だった。
 首相は28日、妻の昭恵さんと明治神宮を参拝した。 【福岡静哉】
 
 

春の平和キャンペーンを行いました

 29日、ソメイヨシノが満開の中央公園で行われた「桜祭り」は大変な盛況でした。
 その中で「湯の町湯沢平和の輪」も恒例の「春の平和キャンペーン」を行いました。今年はいつもの場所2箇所の他に、高速道路の下をくぐって中央公園に入るところにも立ちました。
 
 内容はいつものとおり、グリーンリーフ(平和メッセージ)の配布、子供たちへの風ぐるまの手渡し、それにシールアンケート(シール投票)や募金などでした。
 募金していただいた方にはお礼に手作りのお手玉など平和グッズをお渡ししました
 
 今年のシールアンケートのテーマは、集団的自衛権の行使を憲法を変更しないで、閣議決定だけで行うことに対して「賛成」か「反対」かを問うものでした。
 
 シール貼り付け投票の結果は、「賛成」が2票に対して「反対」が43票で、圧倒的に多数の方が反対を表明されました。
 
 シールアンケートや募金にご協力いただきまして本当にありがとうございました。
 
追記) 同じ29日に、千葉市でも集団的自衛権の行使への賛否や憲法9条を守るか変えるかを尋ねる街頭投票が行われましたので、併せてその記事を紹介します。
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「集団的自衛権」賛否問う 千葉市で街頭投票
 東京新聞 2014年4月30日
 集団的自衛権の行使への賛否や、憲法9条を守るか変えるかを尋ねる街頭投票が29日、千葉都市モノレール動物公園駅前であった。
 
 地元の「若葉九条の会」が5月3日の憲法記念日に合わせて、毎年開催。安倍内閣が集団的自衛権の行使を憲法解釈によって認めようとする動きを受け、ことしから新たに集団的自衛権の行使の是非を質問に加えた。
 1時間半の投票で、集団的自衛権の行使は「賛成」2票、「反対」78票、「分からない」14票となった。憲法9条については「守る」84票、「変える」1票、「分からない」7票だった。
 同会の代表世話人の木村忠彦さん(70)は「実際に投票することで、自分で考えてもらうことにつながれば」と話した。大学教授や弁護士らが呼び掛け人となっている全国投票の一環で、結果は全国会議員に伝えられる。 (柚木まり)
 
集団的自衛権行使について投票する参加者ら=千葉市若葉区で
写真

 

 
 
 

集団的自衛権 憲法解釈の変更案に「集団的」を明記せず

 政府・自民党は、集団的自衛権の行使容認に向け、憲法解釈変更に関する政府方針に「自衛権」とのみ記述する案を検討しているということです。集団的という言葉を使わないことで、安全保障政策の大幅な転換につながる印象を和らげ、行使容認に慎重な公明党に歩み寄りを促す狙いがあります。
 
 このことは4月28日の「“安保法制懇の結論が出次第 5法案を改正 公明党の合意が条件」( http://yuzawaheiwa.blogspot.jp/2014/04/blog-post_28.html )でもお伝えしましたが、毎日新聞の記事はより詳細に報じています。
 
 歴代の政府はこれまで、個別的自衛権の行使のみを認め、集団的自衛権は憲法上、行使できないとの立場をとってきました
 それを安倍政権は「日本の存立に必要な措置を講じる権利を「自衛権」とひとくくりにして、「攻撃を受けたのが自国か他国かにかかわらず、自衛権を行使できる」と解釈し、「日本が直接攻撃を受けた場合」に加えて放置すれば日本も攻撃を受ける場合にも行使できるとして、結局集団的自衛権を行使しようとするものです。
 
 これは先に内閣法制局が苦肉の策の素案として示した、「ある国が日本の近隣国を攻撃、占領しようとしており、放置すれば日本も侵攻されることが明白な場合などに限定して集団的自衛権の行使が認められる」とする見解に一見似てはいますが、「日本の近隣国」という条件を除外している点で全く別物です。
 
        ※ 4月14日内閣法制局が行使容認へ転換
 似て非なるものとはまことに姑息な手段というしかありません。
 しかしこのようにして、次から次へと理屈の通らない策動を試みる執念深さには恐るべきものがあります。
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集団的自衛権 憲法解釈の変更案「集団的」を表記せず 
毎日新聞 2014年04月29日
 政府・自民党が集団的自衛権の行使容認に向け、憲法解釈変更に関する政府方針に「自衛権」とのみ記述する案を検討していることが分かった。「個別的」か「集団的」かを問わず、自衛権を日本の存立のために必要な措置を講じる権利と位置付け、集団的自衛権行使に道を開く。集団的という言葉を使わないことで、安全保障政策の大幅な転換につながる印象を和らげ、行使容認に慎重な公明党に歩み寄りを促す狙いもある。
 
 安倍晋三首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が来月中旬にも報告書を提出するのを受け、政府は集団的自衛権の行使を禁じた憲法解釈を変更する政府方針をまとめ、与党との協議を経て閣議決定する。政府関係者によると、首相も「集団的」を使わない案に理解を示しており、政府方針に反映される可能性が高まっている。
 
 自衛権は国際法上、自国が攻撃を受けた際に武力で阻止する個別的自衛権と、他国が攻撃を受けた際に反撃する集団的自衛権に分かれている。政府はこれまで、個別的自衛権の行使のみを認め、集団的自衛権は憲法上、行使できないとの立場をとってきた。
 
 これに対し、政府・自民内で検討されている案は、日本の存立に必要な措置を講じる権利を「自衛権」とひとくくりにするもの。「攻撃を受けたのが自国か他国かにかかわらず、自衛権を行使できる」と解釈し、実際に行使するのは「日本が直接攻撃を受けた場合」か「放置すれば日本も攻撃を受ける場合」に限定することを想定している。
 
 ただ、実質的に集団的自衛権の行使を認める方針には変わりがなく、慎重姿勢を崩していない公明党の理解を得られる見通しは立っていない。同党の山口那津男代表は27日、衆院鹿児島2区補選の勝利を受けて、「国民生活にかかわりの深いところを優先的にやってほしい。そうした政権の姿勢が評価されている」と記者団に語り、首相が集団的自衛権の結論を急がないようクギを刺した。
 
 一方、国連憲章51条は個別的自衛権と集団的自衛権を明記している。日本が両方を区別しないまま、集団的自衛権の行使に該当する行動をとった場合、国内向けの説明と国際社会への説明にずれが生じる恐れもある。【青木純】
 
 

2014年4月29日火曜日

恒例の「平和キャンペーン」を行います


「桜祭り(29日)」で恒例の「平和キャンペーン」を行います
 
 今年も会場入口のメイン道路脇などで恒例の平和キャンペーンを行います。
 内容は、シールアンケートグリーンリーフの配布、子供たちへの風ぐるまの手渡し、募金などです。
 
 風車は200本を準備しました。
 募金していただいた方にはお礼にいつものように手作りの平和グッズをお渡ししま
 
 参加される会員の皆さんは10時半に笛木さん宅前にお集まりください。
 
 

集団的自衛権の行使事例にはどんなものがあったか

 「明日の自由を守る若手弁護士の会」のホームページ(http://www.asuno-jiyuu.com/)26日、28日号に「集団的自衛権の実例~うわ、結局戦争じゃん~1、」が掲載されました。
 そこで2009年1月に発表された「集団的自衛権の法的性質とその発達 ―国際法上の議論― 松葉 真美)」の論文に掲載された、これまで国連憲章第51条に従って安保理に集団的自衛権の行使として報告された主な事例、の概要が紹介されています。
 
 具体的には下記の11の事例で、殆どは大国による内戦への介入や懲罰的?意図に基く侵略です。 戦争そのものに他なりません。
 
 1 ソ連/ハンガリー(1956年)
 2 米国/レバノン(1958年)
 3 英国/ヨルダン(1958年)
 4 米国/ベトナム(1965‒75年)
 5 ソ連/チェコスロヴァキア(1968年)
 6 ソ連/アフガニスタン(1979年)
 7 米国/ニカラグア(1981年)
 8 リビア/チャド(1981年)、フランス/チャド(1983年、1986年)
 9 イラクによるクウェート侵攻(1990年)
10 ロシア/タジキスタン(1993年)
11 米国/アフガニスタン(2001年)
 
 以下に「事例の概要」に関する部分を紹介します。
(ホームページにはまだ「7 米国/ニカラグア(1981年)」までしか紹介されていませんので、8~11と「おわりに」は下掲の同論文から直接引用しました)
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集団的自衛権の法的性質とその発達 ―国際法上の議論―  
松葉 真美         
 
Ⅵ 集団的自衛権の行使事例
 Ⅱ章で述べたように集団的自衛権は、冷戦下の国際社会において、武力攻撃が起きたにも関わらず、大国の拒否権によって安保理が機能せずに犠牲国が放置されるという事態を避けるために規定された。そして今日までに、集団的自衛権の行使を約した集団防衛条約が二国間、多国間を問わず数多く締結されてきた。しかし、これまでに実際に集団的自衛権が行使された事例を振り返ってみると、その数はさほど多くない。以下、これまでに集団的自衛権の行使が国連憲章第51条に従って安保理に報告された主な事例を紹介する。
 
1 ソ連/ハンガリー(1956年)
 1956年10月、ハンガリーにナジ政権の復帰を求める反政府デモが起きると、ソ連の軍隊がハンガリー領域に進入し大規模な戦闘が行われた。ソ連は、安保理において、ハンガリー政府の要請に基づき、ワルシャワ条約に従ってハンガリーを防衛するために行動したと説明した。しかしこの要請は、既に首相に復帰していたナジではなく、ゲレー第一書記が行ったものであり、正当政府による支援要請といえるかは疑わしい
 その後ナジ首相は、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立的地位を宣言し、連立政府を組織したが、ソ連軍はハンガリーの抵抗を打破し首都を占領した。国連では、ソ連の撤退を要請する安保理決議案がソ連の拒否権行使により否決されたため、米国の要請により緊急特別総会が開催された。緊急特別総会でもソ連は、ハンガリー正当政府の要請に基づき、ワルシャワ条約に従って軍隊を展開したと主張した。総会は、ハンガリーへの干渉の中止とソ連軍の撤退を要請する決議を採択した。
 
2 米国/レバノン(1958年)
 諸宗教・宗派のモザイク国家であるレバノンでは、イスラム教シーア派その他の貧困層の人口増加に伴い、支配階級にあるキリスト教マロン派に対する不満が高まりつつあった。1958年5月に内乱が発生すると、レバノン政府は、アラブ連合共和国がレバノンの内政事項に干渉していると国連安保理に報告した。安保理はレバノンに国連監視団(United Nations ObservationGroup In Lebanon: UNOGIL)を派遣することを決定した。しかし7月にUNOGILは、アラブ連合共和国からの干渉の証拠を見出せないとの報告を安保理に提出した。これに不満を持ち、また同時期に起きたイラクのクーデターの影響が自国に及ぶことを懸念したレバノン政府は、米国に対し軍事介入を要請した。これを受けて米国はレバノンに派兵し、安保理において、自国の行動は国連憲章第51条による集団的自衛権に基づいた行動であると説明した。
 
3 英国/ヨルダン(1958年)
 ヨルダンはアラブの中でも最も親西欧的な国であったが、1950年代初めから国民によるアラブ民族主義運動が高まっていた。ヨルダン王室は、1958年2月に、同じく王制を敷くイラクとアラブ連邦を結成し、王制を守ろうとした。しかしその5か月後、イラクではクーデターにより王制が倒れ、共和国が誕生した。そこでヨルダンは、アラブ連合共和国による脅威からヨルダンの独立を守るべく、国連憲章第51条に基づき英国に軍事援助を求めた。英国は、直接又は間接侵略に対抗するための支援要請を受けた国はそれに応える権利を有すると強調し、ヨルダンの要請を受け、その領土の保全と政治的独立を守る目的のため派兵したと安保理で説明した。
 
4 米国/ベトナム(1965‒75年)
 ベトナムでは第二次世界大戦直後から独立戦争が続いていたが、1960年代前半までは米国の介入は本格化していなかった。しかし、1964年8月に起きたトンキン湾事件(米艦と北ベトナム艇の交戦)の後、米国連邦議会は、国連憲章及び東南アジア集団防衛条約に基づく義務に従い、兵力の使用を含む必要なあらゆる手段をとる旨決議した。翌年2月、米国はこの決議に基づき北爆を開始し、以後漸増的に地上戦闘部隊を派遣した。米国務省は、北ベトナムに対する軍事行動の根拠として、南ベトナム政府からの要請があったこと、及び国連憲章第51条に基づく集団的自衛権と東南アジア集団防衛条約に基づく防衛義務を挙げた。
 なお、南ベトナムがこうした要請を行いうる国家といえるのか、そもそもベトナム戦争は内戦であって外部からの干渉は違法ではないのか、また仮にベトナム戦争が国際紛争であるとしても集団的自衛権の行使要件である武力攻撃は発生していたのか、といった論点をめぐって議論がある。
 
5 ソ連/チェコスロヴァキア(1968年)
 チェコスロヴァキアでは、1968年1月に改革派のドゥプチェクが第一書記に就任すると社会主義体制の改革運動(「プラハの春」)が始まった。共産党による一元的支配を弱め、検閲を廃止し、言論の自由を認めるなど「人間の顔をした社会主義」を目指す改革は、次第に国民的運動へと発展した。こうした自由化の影響が自国に及ぶことを恐れたソ連や東欧諸国は、8月にワルシャワ条約機構軍を編成してチェコスロヴァキアに軍事介入し、改革運動を鎮圧した。
 ソ連は、安保理において、軍事介入はチェコスロヴァキア政府の要請に基づくものであり、国連憲章及びワルシャワ条約に規定された集団的自衛権に完全に合致すると説明した。ただし、この説明はチェコスロヴァキア政府によって否定された。
 このようなソ連の説明は、社会主義に敵対的な内外の勢力により一国内で反社会主義化が進められる場合、これを社会主義体制全体の利益に対する脅威として、武力介入が正当化されるというブレジネフ主義(「制限主権論」ともいわれる)を生み出した。
 
6 ソ連/アフガニスタン(1979年)
 1978年4月、軍事クーデターにより親ソ政権が誕生したアフガニスタンでは、土地改革を基本とする社会主義革命が進められ、ソ連との間では友好協力善隣条約が締結された(113)。しかし、革命路線に反発した地主やイスラム指導者らによる反乱が各地で発生した。1979年12月、ソ連はアフガニスタンに軍事介入した。
 ソ連は、安保理において、この軍事介入は、アフガニスタン政府の要請に基づくものであり、二国間の友好協力善隣条約及び集団的自衛権を規定した国連憲章に一致した行動であると説明した。ソ連の介入を非難する安保理決議案はソ連の拒否権行使により否決されたため、緊急特別総会が開催された。総会は、外国軍隊の即時、無条件の全面撤退を要請する決議を採択した。しかしその後も、国境地帯に集結していた兵力がアフガニスタン国内に展開されるなど、アフガニスタン駐留のソ連軍は増強された。ソ連軍の撤退が完了したのは1989年であった。
 
7 米国/ニカラグア(1981年)
 Ⅴ章参照。原文
  米国は、コントラ(ニカラグアの親米反政府民兵)への軍事援助、資金供与を行うだけではなく、ニカラグアの港湾に機雷を敷設し、空港、石油貯蔵施設などを攻撃した。そのためニカラグアは、米国の行為を国際法違反であるとしてICJに提訴した。これに対し米国は、自国の行為を、ニカラグアによるエルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカへの武力攻撃に対する集団的自衛権の行使であると主張した。後に国際司法裁判所(ICJ)で
紛争になり,ICJはニカラグアに対する行動を集団的自衛権の行使とする米国の主張を退けた
 
8 リビア/チャド(1981年)、フランス/チャド(1983年、1986年)
 1960年にフランスから独立したチャドでは、北部のアラブ系イスラム文化圏と南部のバンツー系文化圏の対立により、1966年以来内戦が続いていた。しかし、この内戦は次第に南北対立から北部勢力(チャド民族解放戦線:FROLINAT)内部の対立となっていった。1979年に南北の和解により、FROLINAT指導者のグクーニを大統領とする統一暫定政権が成立したものの、1980年には国防相ハブレによる首都制圧の試みにより政権は崩壊した。
 1980年12月、グクーニ政権の要請に基づきリビアが軍事介入した。リビアは、自国の介入はチャド政府の要請と1980年6月に締結されたチャド・リビア友好同盟条約に基づくものであり、リビア軍のチャド駐留はあくまでも一時的なものであることを強調した。そして1981年11月、リビアはチャド政府の要請に従って撤退した。
 しかし1982年、スーダンに逃れ、エジプト、スーダンから軍事援助を受けていたハブレが再び首都を制圧し、大統領に就任した。さらに1983年6月には、リビアの支援を受けたグクーニが反撃を開始したため、内戦が再び激化した。そこでハブレ政権は、フランス軍の介入を要請した。フランスは、1976年の軍事協力協定に基づくものとして自国の行動の正当性を主張した。1984年9月、フランスとリビアは、チャドからの同時完全撤退に合意したが、最終的にリビアは撤退しなかった。
 1986年2月、チャドでは再び内戦が激化し、政府軍が仏空軍の支援を受けてグクーニ派反政府軍の攻撃に反撃する事件も起きた。この時もハブレ政権は、国連憲章第51条に基づいてフランスに軍事介入を求めていた。フランスは、安保理において、軍事介入はチャド政府の要請に基づき、国連憲章第51条に従った行動であると説明した。
 
9 イラクによるクウェート侵攻(1990年)
 1990年8月、イラクがクウェートに侵攻し、併合を宣言した。直後に開催された安保理は、イラクによる国際の平和と安全の破壊を認定し、イラク軍の即時、無条件撤退を要求する決議第660号を採択した。安保理は続いて、国連憲章第41条に基づき対イラク経済制裁を課すことを決定した決議第661号を採択した。この決議第661号は前文で、イラクによるクウェートに対する武力攻撃に反撃するための国連憲章第51条に基づく個別的又は集団的自衛権を確認(affirm)している。米国、西欧諸国、アラブ諸国は、クウェート及びサウジアラビア政府の要請を受け、個別的及び集団的自衛権を行使し、決議第661号に違反する船舶の通航を阻止すると安保理に報告した。その後、安保理は決議第665号を採択し、加盟国が決議第661号の措置を実施するために必要な措置をとることを認め、さらに11月には決議第678号を採択し、加盟国に対し国際の平和と安全を回復するため必要なあらゆる手段をとる権限を与えた。
 しかし決議第661号が採択された段階から、ペルシャ湾付近の公海を航行中の第三国船舶に対する干渉根拠や、安保理による強制措置である経済制裁の決定と自衛権の行使が同一決議文に書かれていることの整合性をめぐり議論が生じていた。また、これらの海上阻止行動が自衛権によって正当化されるとしても、決議第665号や第678号の採択後には、安保理が軍事力の使用を含む措置を容認したと解釈しうることから、「安全保障理事会が……必要な措置をとるまでの間」という自衛権の時間的要件との関係が問題となった。さらに、国連憲章第7章に言及しているものの特定の条文を引用しなかった決議第678号の国連憲章上の位置付けをめぐっても議論がある。
 
10 ロシア/タジキスタン(1993年)
 1991年、ソ連の崩壊によって独立したタジキスタンでは、政府(共産党勢力)と、野党(イスラム勢力と手を組んだ民主化勢力)が対立していた。1992年3月に首都で始まった市街戦は各地に飛火し、タジキスタンは本格的な内戦に突入した。この内戦は、単なるイデオロギー対立ではなく、タジキスタンに深く根づく地縁主義によるものだといわれる。結局連立政権の試みも失敗し、1992年11月に、ロシア、ウズベキスタンの軍事支援を受けた共産党勢力「人民戦線」が政権を掌握した。しかし反政府勢力はアフガニスタンへ逃れ、タジキスタン・アフガニスタン間の国境を越えて繰り返し政府軍への攻撃を行った。
 こうした国境地帯での紛争に対し、1993年7月、ロシアは、二国間友好協力条約に基づき、国連憲章第51条に規定された集団的自衛権を行使し、軍事援助を含む支援をタジキスタンに行う準備があると表明した。そして8月、ロシア、カザフスタン、キルギスタン及びウズベキスタンは、アフガニスタンの支援を受けた反政府勢力の攻撃をロシア国境警備隊とタジキスタンに対する侵略とみなし、CIS集団安全保障条約と国連憲章第51条に基づいて集団的自衛権を行使し、タジキスタンに軍事援助を含む緊急支援を行ったと安保理に報告した。
 
11 米国/アフガニスタン(2001年)
 2001年9月11日に米国で発生した同時多発テロに対し、国連総会、安保理はテロ攻撃を非難する決議を相次いで採択した。安保理決議第1368号は、あらゆる国際テロ行為を国際の平和と安全に対する脅威であると認定し、それらに対処するために必要なあらゆる措置をとる準備があることを表明した。続く決議第1373号は、国連憲章第7章に基づく強制措置としてテロ行為への資金提供の禁止などを決定した。いずれの決議も、その前文で個別的又は集団的自衛権を確認(recognize) している。また、NATO(North Atlantic Treaty Organization:北大西洋条約機構)やOAS(Organization of American States:米州機構)もテロ行為に対する個別的又は集団的自衛権を行使する準備があることを表明した。これらを受けて米国は、10月7日にテロ組織及び同組織を援助するアフガニスタンのタリバン政権に対し軍事行動を開始した。米国は、安保理に対し、9月11日に自国に対して武力攻撃が行われたことから、他国と共に個別的又は集団的自衛権を行使したと説明した。

おわりに
 もともと集団的自衛権は、大国の意向ひとつで機能が麻痺してしまう可能性を秘めた国連の集団安全保障体制を補完するために、また自らの力では攻撃に対抗できない中小国を共同で防衛するために、国連憲章第51条に規定された。そしてこの規定に基づき、これまでに二国間又は多国間において数多くの集団防衛条約が締結されてきた。これらは潜在的な敵に対する抑止となり、ひいては中小国の保護という一定の効果をもたらしたことが認められる。
 しかし、集団的自衛権の法的性質そのものについては現在も学説の一致を見ていない。また、加盟国が個々の判断で武力行使に踏み切ることを認める自衛権は、厳密には個別的安全保障として作用し、集団安全保障体制とは矛盾するとともに、常に濫用の危険をはらんでいることも否めない。それゆえに国連憲章は、「武力攻撃」の発生という厳しい行使要件と、「安全保障理事会が……必要な措置をとるまでの間」という時間的要件を付した。そしてICJも、ニカラグア事件判決において、集団的自衛権を行使するためには被攻撃国による攻撃事実の宣言及び援助要請が必要だとした。
 だが、これまでの実際の集団的自衛権の行使事例を概観すると、集団的自衛権がしばしば濫用されてきたことがわかる。そこで論点となってきたのは、武力攻撃の発生の有無及び援助要請の正当性だった。冷戦後の地域紛争の増加や9.11テロのような事件の再発の可能性から、外部からの武力攻撃の存否や正当政府による援助要請の有無をめぐる議論は今後も提起されると思われる。したがって、これらを正しく見極めた上での集団的自衛権の行使が国際秩序の維持のために必要であろう。
 このように、集団的自衛権は国連憲章に規定された、すべての加盟国が有する国際法上の権利であるが、その法的性質や実際の行使をめぐっては国際法上も議論がある。確かに日本における議論がこの国際法上の議論とは乖離していることは否めない。しかし、持てる権利を行使するか否かは各国家の自由である。日本政府の集団的自衛権の解釈をめぐる議論においても、政府解釈を一方的に否定するのではなく、国連の集団安全保障の例外措置である集団的自衛権の行使が必ずしもすべての国家に肯定的に受け入れられるとは限らず、むしろ濫用の危険性から平和への脅威となりうるとの指摘もあることをふまえ、集団安全保障体制との整合性を意識して今後の議論を進めていくことが望まれる。 (まつば まみ)
 
 

2014年4月28日月曜日

英国も日本の尖閣領有権に疑問


 尖閣諸島に対して中国が台湾とともに領有権を主張し始めた1971年(沖縄返還は1972年5月)に、英外務省は日本、中国のいずれにも領有権を証明する歴史的証拠はないと判断し、どちらも支持しない立場を決めていたことが27日、英公文書で分かりました。
 
 英国の「不関与政策」は現在も引き継がれています。
 今度のオバマ氏の訪日でアメリカの大統領として初めて、沖縄県の尖閣諸島に日米安全保障条約が適用されるという考えを示しましたが、アメリカも尖閣諸島が日本の領土であるという明確な表現はしていません。また中国の名前が出る度に大いに評価をして、常に好意的にフォローすることを怠りませんでした。
 
 主要友好国でさえ、「尖閣は固有の領土」、「領土問題は存在しない」という日本の主張とは一線を画しているわけです。この事実を、まずは安倍首相が冷静に認識する必要があります。
 
 そして注目すべきは、1978年4月に、機銃で武装した100隻以上の中国漁船が領海侵犯を繰り返しましたが、福田赳夫内閣の抗議に対して中国は偶発的な事件だと答え、同年8月に日中平和友好条約を結んでいることです。
 
 東京新聞【私説・論説室から】のコラムが指摘したように、安倍首相は、7年前の第1次安倍政権時にも「わが国を取り巻く安全保障環境はむしろ格段に厳しさを増している」と訴え、それから7年が経った現在も瓜二つの言い方で、「わが国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増している」と繰り返しています。
 安倍首相には、そんな風にして自らが先頭に立って情勢の切迫を煽り、集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとするのではなく、そうした先人の知恵を学んで欲しいものです。
 
   2014年4月25日集団自衛権行使容認には憲法改正が必要 憲法審査会 
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英、日本の尖閣領有権に疑問 「固有の領土」支持せず
東京新聞 2014年4月27日
 【ロンドン共同】尖閣諸島に対する中国の領有権主張が注目を集めた1970年末、在日英国大使館が本国に「日本の領有権主張には疑問が残る」と報告、英外務省は翌71年に日本、中国のいずれにも領有権を証明する歴史的証拠はないと判断、どちらも支持しない立場を決めていたことが27日、英公文書で分かった。
 
 英の「不関与政策」は現在も引き継がれており、主要友好国でさえ、「尖閣は固有の領土」という日本の主張への立場表明を回避してきた実態が明らかになった。