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2014年3月2日日曜日

3・1 静岡で、そしてマーシャル諸島で核廃絶集会

 ビキニ環礁で焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆して60年目となる3月1日、焼津市静岡市をはじめとする全国各地で、そしてマーシャル諸島の首都マジュロで、3・1核廃絶集会が開かれました。
 マジェロの集会には、米政府高官も出席して挨拶をしましたが、補償や謝罪に言及せずに市民の怒りを買いました。
 
 また静岡県立藤枝北高の生徒たちは昨年から地道な活動を重ねて、この8日、第五福竜丸の元乗組員の証言や、福島第1原発事故の被災地取材をまとめた資料展示会を同市内で開く活動に取り組んでいます。
 「放射能の恐ろしさと向き合わずに未来は語れない」と訴えて・・・
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第五福竜丸被爆から60年 静岡で核廃絶集会
NHK NEWS WEB 2014年3月1日
アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆して1日で60年となります。静岡県では各地で集会が開かれ、参加した人たちが核兵器の廃絶を訴えました。
 
昭和29年3月1日、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」は南太平洋で操業中に、アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験で放射性物質を含んだ「死の灰」を浴び、乗組員23人が被爆しました。
焼津市では1日、静岡県をはじめ全国から集まった人たちが核廃絶を訴えて市内を行進しました。
一行は被爆し、半年後に亡くなった元乗組員、久保山愛吉さんの墓がある市内の寺を訪れ、墓前に花を手向けて反核の思いを新たにしていました。
午後からは焼津市内で集会が開かれ、第五福竜丸の元機関士の池田正穂さん(81)が体験を話しました。
池田さんは「すごい爆発音が聞こえた。急いでエンジンをかけました。そのあと、船上でロープを引いたあとに手の皮が荒れたことを覚えています。当時は放射能の影響とは全く分かりませんでした」などと、集まった人に当時の様子を語りました。
一方、静岡市では市の中心部の公園で集会が開かれ、350人が参加しました。
このなかで、静岡市内の高校に通う2年生の女子生徒は核兵器廃絶の署名を呼びかける横断幕を掲げて、「私が大人になるころには核兵器がなくなるように頑張りましょう」と訴えました。
そして、核兵器や原子力発電所など核の利用に反対する宣言文が拍手で採択されました。
静岡県三島市から参加した30代の男性は、「静岡に暮らしていてもビキニについてよく知らなかった。こうした機会で過去を学び、ニ度と起こらないようにしたい」と話していました。
60年がたって、第五福竜丸の乗組員23人のうち、すでに16人が高齢などで亡くなっていて、今後、ビキニ被爆をどう伝えていくかが課題になっています。
 
 
静岡県立藤枝北高:「放射能の恐ろしさ伝えたい」と展示会
毎日新聞 2014年3月1日
 静岡県藤枝市の県立藤枝北高の生徒らは8日、第五福竜丸の元乗組員の証言や、福島第1原発事故の被災地取材をまとめた資料展示会を同市内で開く。記憶の風化が進む中、生徒らは「放射能の恐ろしさと向き合わずに未来は語れない」と訴えている。
 
 同高教諭の橋本純さん(59)と生徒・卒業生ら11人は第五福竜丸の操舵(そうだ)手だった見崎(みさき)進さん(87)=静岡県島田市=と操機手だった池田正穂さん(81)=焼津市=から「死の灰」を浴びた証言や風評被害に遭った経験を聞いた。
 昨年8月には福島県南相馬市の農家を訪問。同高卒業生の長谷川倖友(こうゆ)さん(19)は「原発事故で普通の生活が一瞬に奪われた。唯一の被爆国である日本で焼津、福島と続いた悲劇は繰り返してはならない」と力を込める。展示会場には福島県を訪れた時の写真や、生徒らの感想文などを展示する。
 
 藤枝市駅前2の市文化センターホールで正午開場。講演会などもあり、前売り券1000円(当日券1200円)、学生200円。問い合わせは橋本教諭(054・644・8611)。【平塚雄太】
 
 
ビキニ水爆実験60年 式典で大石又七さん訴え 
NHK NEWS WEB 2014年3月1日
アメリカが太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被爆してから1日で60年となり、現地で開かれた式典で元乗組員が核兵器の廃絶を訴えました。
 
1954年3月1日にアメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験では、広い範囲に放射性物質を含んだいわゆる「死の灰」が降り注ぎ、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人や島民も数多く被爆しました。
水爆実験から60年となる1日、マーシャル諸島の首都マジュロでは、被爆した島民などおよそ100人が参加した式典が開かれ、日本からは第五福竜丸の元乗組員、大石又七さん(80)が参加しました。
壇上に立った大石さんが「核兵器を作るために多くのマーシャルの人たちが犠牲になった。指導者たちに猛省を促したい」と述べ、核廃絶と平和への願いを訴えると、会場からは大きな拍手が起こりました。
そしてマーシャル諸島のロヤック大統領が「島の被爆者と第五福竜丸の被爆者は同じ悲劇の経験を共有する仲間だ」と述べ、核兵器の廃絶に向け、日本とマーシャル諸島が連携することの重要性を強調しました。
大石さんの演説を聞いた地元の女性は、「大石さんの演説に感銘を受けました。この問題に対して、日本の多くの方が関わってくれていることに感謝しています」と話していました。
 
広島市の代表や福島の学生も出席
式典には、広島市の代表として広島平和文化センターの小溝泰義理事長が出席しました。
小溝理事長は式典で「私たちは核兵器の非人道性がもたらす、ことばにできないほどの恐怖について、記憶を共有しています。核兵器のない平和な未来の実現に向けた取り組みを続けていきましょう」と呼びかけました。
また、福島県の大学院生と福島市出身の大学生も式典に出席しました。
学生らは放射能の影響で、多くの島民が水爆実験から半世紀以上たった今も、ふるさとを離れ、避難生活を続けている現状などを調べるため現地を訪れています。
このうち福島大学の大学院に通う佐藤甲斐さん(25)は「実験から60年がたっても島民が心を1つにして、この日を迎えていることに驚きました。20年後、40年後の福島で放射能の問題にどう向き合うべきか考えさせられました」と話していました。
 
米政府高官は補償や謝罪に言及せず
式典にはアメリカのゴッテモラー国務次官代行も出席してスピーチを行いましたが、「マーシャル諸島の人々が世界の平和と安定のために果たした歴史的貢献をアメリカは忘れていない」と述べるにとどめ、マーシャル諸島政府が求めている追加補償や住民が求めている謝罪については一切、言及しませんでした。
これに対して、60年前のアメリカによる水爆実験で被爆したマーシャル諸島の女性は、「非常に怒りを感じました。すぐに壇上に上がって反論したい気持ちです」と話していました。
 
 

2014年3月1日土曜日

3・1はビキニデーです

 1954(昭和29)年の3月1日、太平洋のビキニ環礁マーシャル諸島)でアメリカが水爆実験を行いました。
 このとき まぐろ漁船「第五福竜丸」米国が設定した危険水域の外で操業していたのですが、その船上に「死の灰」が降り注ぎ、乗組23とともにそれを浴びた無線長の久保山愛吉さん(40歳)は半年後に亡くなりました。
 
 水爆実験の威力はアメリカが当初想定した規模の2~4倍であったため、当時放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼり、ビキニ環礁から240kmも離れたロンゲラップ環礁の島にも「死の灰」が降り積もりました。
 この水爆実験では2万人以上が被曝し多くの人々がいまだに後遺症に苦しめられています
 
 「原水爆による犠牲者は、私で最後にしてほしい」と述べた久保山の死は内外に大きな衝撃を与えやがてそれは当時の有権者の半数にもあたる3200万人もの署名や第1回原水爆禁止世界大会(55年)の開催へと発展しました。
 同時にその後は「3・1ビキニデー」として、第五福竜丸の母校焼津港のある焼津市や静岡市を中心にして、全国各地で途切れることなく全国で取り組まれてきました。
 今年は、日本の反核・平和団体や広島、福島の学生たち、3・1に合わせてマーシャル諸島を訪れ、元住民を支援したり、世界の核被害地の若者が集うイベントを開きます
 
 いま、広島・長崎の被爆から70年に開かれる来年2015年の核不拡散条約(NPT)再検討会議に向け核兵器廃絶の運動が盛り上がっています。
 その一方で、「いかなる状況」でも核兵器を使用すべきでないというのこそ被爆国としての立場であるべきなのに安倍政権はアメリカの核戦略につき従って核兵器廃絶の流れに背を向け続けています。
  
 そうした状況のなかでは、一層 3・1ビキニデー集会の成功は重要です
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社説 ビキニ被災60年 終わり見えぬ核の被害
中国新聞 2014年2月28日
 核実験がもたらした甚大な被害から何を学ぶべきだろうか。中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が行った水爆実験によってマグロ漁船第五福竜丸が被災してから、あすで60年を迎える。 
 乗組員23人は大量の放射性降下物、「死の灰」を浴びた。無線長の久保山愛吉さんが半年後に亡くなり、ほかの乗組員もさまざまな病気に苦しんだ。 
 現地住民も多数が被曝(ひばく)し、島を追われた。一部で除染作業が進んでも、多くは帰還しようとしない。残留放射能の恐怖は容易になくなるものではない。 
 福島第1原発事故からもうすぐ3年。ビキニとフクシマを地続きに捉える動きが高まっている。古里から離れ、避難生活を強いられている人たちの将来と重なるからだろう。 
 
地域と生活奪う
 放射能が奪うのは、人々の健康だけではない。日常の暮らしや地域社会の営みも一変させる。しかも終わりが見えない。 
 米国の統治下、ビキニ環礁から約150キロ離れたロンゲラップ島の住民は避難勧告もないまま被曝した。実験直後の移住と帰島を経て、1985年に無人島への自主的な再移住を余儀なくされた。がんや甲状腺の異常が多発したからである。 
 46~58年に米国がマーシャル諸島で行った核実験は70回近くに達した。第五福竜丸と同じ時期に、延べ千隻の日本の漁船が操業していたことも分かっている。水揚げされたマグロの放射能汚染が発覚し、日本全体がパニックに陥った。核実験反対のうねりが原水爆禁止運動に発展していった。 
 だが日米両政府は、第五福竜丸が被災した翌年に米国が慰謝料を支払うことで幕引きした格好である。「原子力平和利用」に対する国民の反発を恐れ、実態にふたをしたに等しかった。 
 
軍拡競争の産物
 マーシャル諸島の苦難は、米国と旧ソ連が核兵器の破壊力を際限なく競い合った冷戦の産物にほかならない。 
 第五福竜丸を襲った水爆の威力は、広島型原爆の千倍に達した。広島と長崎は核時代の序章だった。いまや地球全体が滅亡の危機にある―。当時、誰しもおののいた。 
 冷戦が過去のものとなった現在も、世界に約1万7千発の核兵器が存在する。偶発的な限定核戦争や核ミサイルの誤射は、現実のリスクであり続ける。 
 それでも核保有国は、非人道的な兵器に相変わらず固執する。敵に攻撃を思いとどまらせる「抑止力」だと強弁する。 
 
 本当にそうなのか。今は独立したマーシャル諸島共和国のロヤック大統領は先日、広島を訪れ、「核兵器を持ち続ける国はいずれ使うことが念頭にある。二度と被害者を出してはならない」と語った。何より説得力のある言葉だ。 
 核兵器の開発は一切禁止する。決して使われないためには廃絶を急ぐ。それしかない。 
 
CTBT発効を
 だが、歩みは遅々として進まない。大気圏内や宇宙空間、水中での核実験を禁止する条約は63年にできた。今度は包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効が待たれるが、米国や中国、北朝鮮など、肝心の核保有国の一部は批准しようとしない。被爆国の日本を先頭に、圧力をさらに強めるべきである。 
 
 日本の反核・平和団体や広島、福島の学生らがあすに合わせてマーシャル諸島を訪れ、元住民を支援したり、世界の核被害地の若者が集うイベントを開く。被害の実態を学び、しっかり日本で伝えてほしい。 
 ここ数年、核兵器を「非人道性」の観点から問題視する動きが国際的に高まっている。実際に起こり、今も続く被害の数々を知ることは、廃絶への機運にも当然つながる。 
 旧ソ連の実験場があったカザフスタンのセミパラチンスク、米ネバダ州、フランスの旧植民地アルジェリアでの核実験なども深刻な被害をもたらしている。被爆地から、どれだけ世界のヒバクシャの現状に関心を寄せてきたか。この節目に思いを新たにしなければなるまい。
 

【社説】ビキニ60年 「死の灰」は今も、の怖さ
東京新聞 2014年3月1日
 米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で日本の漁船が「死の灰」を浴びた惨禍から六十年。被ばくした元乗組員や周辺の島民らの苦悩は今も続く。核は許されない、その思いを新たにしたい。
 東京・井の頭線渋谷駅の連絡通路に巨大壁画がある。岡本太郎さんの「明日の神話」。水爆さく裂の瞬間がマグロ漁船「第五福竜丸」とともに描かれた代表作だ。
 
 「福竜丸」は一九五四年三月一日、中部太平洋のマーシャル諸島で行われた米国の水爆実験で、放射能を含む「死の灰」を浴びた。威力は広島に投下された原爆の約千倍。二十三人の乗組員は全員急性放射線障害を発症し、四十歳だった無線長の久保山愛吉さんが半年後、入院先の東大病院で亡くなった。生き残った多くの人もその後肝臓がんなどで亡くなり、生存する七人も病魔と闘っている。
 
 水爆実験で被災した日本漁船は福竜丸だけではない。米ソ冷戦下、四八年から五八年まで行われた実験は六十七回に及び、日本政府の調査では少なくとも八百五十六隻の被ばくが判明している。福竜丸の被ばく後も実験を知らない漁船が海域で操業していた。
 しかし、福竜丸が強調される一方で、他の被災漁船の乗組員の被ばくは軽視され、事件は矮小(わいしょう)化された。五五年に米政府が日本政府に支払った慰謝料は、汚染魚の買いとりや廃船費などに充てられたが、乗組員の健康について追跡調査などは行われなかった。
 
 ビキニ事件は広島、長崎の原爆投下に続く核被害として、核廃絶運動の原点となりながら実態は明らかにされず、九五年に施行された被爆者援護法の対象にもならなかった。一部の被災漁船の乗組員の調査ではがんによる死亡が多発し、内部被ばくによる晩発性の障害に苦しんでいた。
 何の補償も、救済もない。差別や偏見を恐れ、被ばくの事実を語れずに生きてきた。仲間を失い、高齢になって健康調査に協力を申し出た人も出ている。時間との闘いだ。ビキニの被害は今も続く。忘却してはならない。
 死の灰で苦しむのは実験地にされた太平洋の島民も同じだ。米国の進める帰還政策に従う間に甲状腺異常や白血病などが広がった。福島原発事故の被害も過小評価し、同じ轍(てつ)を踏んではならない。
 大切なふるさとを奪い、健康や生活を壊す。生きる権利を蝕(むしば)む核-。この問題とどう向き合うのか。静かに考えてみたい。
 
 

2014年2月28日金曜日

マーシャル諸島で長岡市を舞台にした映画の上映会

 1946~58年 米国の核実験が繰り返されたマーシャル諸島で、終戦間際に「模擬原爆」が投下された新潟県長岡市を舞台にした映画の上映会開催に奔走する日本人女性がいるということです
 
 その女性は神奈川県出身の大川さんで、高校3年の時には「高校生平和大使」の1人に選ばれて、国連欧州本部などを訪ねスピーチました
 大学では被曝の島:マーシャル諸島を研究し、3年前からは現地の建設資材会社で働きながら、歴史を中心に聞き取り活動などをしています。
 
 新潟市は原爆投下の候補地の一つでしたが、終戦の年の8月初めに大空襲を受けた長岡市は、7月にも「模擬原爆」(パンプキン爆弾)が投下されていたのでした。
 
 朝日新聞の記事を紹介します。
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(ビキニ60年) 平和願う映画、マーシャルで
朝日新聞 2014年2月27日
 米国の核実験が繰り返されたマーシャル諸島で、終戦間際に「模擬原爆」が投下された新潟県長岡市を舞台にした映画の上映会開催に奔走する日本人女性がいる。核なき世界の実現へ、共に歩めれば――。平和への思いを込め、4千キロ離れた二つの国をつなごうとしている。
 
 女性は神奈川県出身の大川史織さん(25)。戦時中に10代前半だった祖父の体験を聞いて育ち、戦争や平和に強い関心を持つようになった。
 
 都立国際高校3年の時、「高校生平和大使」の1人として国連欧州本部などを訪ね、「世界の国々の不安や恐怖心が軍事力を高めてしまっている」とスピーチした。大学へ進んだ後、1946~58年に米国による核実験が続いたマーシャル諸島を研究。3年前からは現地の建設資材会社で働きながら、歴史を中心に聞き取り活動をしてきた。
 
 2年前。大川さんはマーシャル諸島の首都マジュロの銀行で、手続きの合間に手にしたスマートフォンの画面を見た。「花火も爆弾も作れるけど、花火の方がいいよね、っていう人間の正気を伝えていくのが、芸術の仕事」。映画監督の大林宣彦さんが語ったインタビュー記事だった。
 
 《爆弾じゃなくて、きれいな花火ばっかりつくっていたら、きっと戦争なんか起きなかった》。大林監督は2011年、画家・山下清の言葉をモチーフにした映画「この空の花―長岡花火物語」を手がけていた。広島と長崎に原爆が投下される直前の45年7月、米軍が模擬原爆(パンプキン爆弾)を落とした新潟県長岡市が舞台だった。
    
 

2014年2月9日日曜日

白井市から広島へ 今月末まで千羽鶴募集中

 千葉県白井市は平和事業の一環として、5年前から毎年に広島に千羽鶴を送っていて、昨年は千羽が集まったということです。
 今年も、今月末までの予定で広島市の平和記念公園に送る千羽鶴を募集していますが、今回は、初めて友好都市のオーストラリア・キャンパスピ市の子どもたちが折った鶴も一緒に送ることにしています
 
 市は、千羽鶴を折ることで「多くの人に平和と核兵器廃絶について考えるきっかけにしてもらいたい」としています
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白井から広島へ 平和の願い込め 今月末まで千羽鶴募集中 / 千葉
東京新聞 2014年2月9日
 平和と核兵器廃絶の願いを込めた千羽鶴を広島に-。(千葉県)白井市は今月末まで、広島市の平和記念公園に送る千羽鶴を募集している。今回初めて友好都市のオーストラリア・キャンパスピ市の子どもたちが折った鶴も一緒に送る。
 
 市の平和事業の一環として五年前から毎年三月に千羽鶴を送っている。昨年は五万六千羽が集まった。この時期に募集する自治体が珍しいためか市外からも問い合わせがあるという。
 キャ市の子どもが折った鶴は、昨年八月に白井市内の中学生が海外派遣事業で訪れた際、一緒に折った二百五十羽。同行した市職員によると、キャ市では広島の原爆投下を知らない生徒も多く、折り鶴に込められた平和の願いを説明すると真剣に耳を傾けていたという。
 千羽鶴を折ることで「多くの人に平和と核兵器廃絶について考えるきっかけにしてもらいたい」としている。折り鶴の素材、色、大きさは自由。市役所一階で受け付ける。千羽鶴にまとめるボランティアも募集している。
 問い合わせは、白井市企画政策課=電047(492)1111=へ。 (三輪喜人)
 
 

2013年11月6日水曜日

第5回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ が閉幕

 「核兵器のない世界」の実現を目指す国際会議「第5回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」は日~4日3日間、長崎市の長崎原爆資料館など開かれました。
 
 市民や国内外の非政府組織(NGO)関係者たち、3日間で延べ3280人集まり熱心な討議が行われました。
 最終日の4日、「核兵器の非人道性」を世界に伝えるよう日本政府に求める「長崎アピール2013」を採択し、3日間の日程を終えました。
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地球市民集会ナガサキ閉幕
長崎新聞 2013年11月5日
 「核兵器のない世界」の実現を目指す市民や国内外の非政府組織(NGO)関係者らが集う国際会議「第5回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」は4日、長崎市平野町の長崎原爆資料館で全体会議と閉会集会を開き、「核兵器の非人道性」を世界に伝えるよう日本政府に求める「長崎アピール2013」を採択。3日間の日程を終えた。
 
  被爆者が長年訴えてきた「核兵器の非人道性」への注目が国際的に高まりつつある中、核兵器禁止条約に関する分科会などを開催。朝長万左男実行委員長は閉会後の会見で「今後に向けた展望が開ける議論となった」と総括した。
  長崎アピールは朝長委員長ら11人で作成。今回、世界に向けたメッセージと区別して、米国の核兵器に依存し続ける日本政府に対する提案を掲げたのが特徴。唯一の被爆国としての自覚を促し、▽「核の傘」依存からの脱却▽北東アジア非核兵器地帯の創設に向けた韓国政府との協議開始▽福島第1原発事故の対応で独立した国際的な専門家への協力要請-など4項目を盛り込んだ。国際社会に対しては、核兵器全面禁止と廃絶に向かう交渉開始など8項目を要望。
  アピールは国連や外務省、約150カ国の在日大使館に送付し、実行委のホームページにも掲載する。
 
  閉会後、約120人が核廃絶を訴える横断幕を掲げ爆心地公園までパレード。3日間の参加者は延べ3280人(主催者発表)で、10年2月の前回より約550人減少した。
 
 
地球市民集会ナガサキ:原発事故「風化させないで」 核廃絶「国際世論の支持」
毎日新聞 長崎 2013年11月04日
 長崎市の原爆資料館などで開かれている「核兵器廃絶−地球市民集会ナガサキ」は3日、原発事故の被災地・福島や、核兵器禁止の法的枠組みなどに関する四つの分科会があった。最終日の4日に「長崎アピール」を採択する。【小畑英介、樋口岳大】
 
◇福島原発事故
 福島第1原発事故がテーマの分科会では、福島県浪江町から南相馬市に避難している同県立小高工高3年の吉田有沙さん(18)がパネリストとして出席し「忘れないでください。教訓にしてください。いらぬ差別を受け、未来に不安を抱えて暮らす人をもう一人として出さないでほしい」と訴えた。
 吉田さんは原発事故直後、放射線量の高い浪江町津島地区に避難させられ、「正しい情報があればする必要のなかったはずの被ばくの事実を知った時、未来への不安が一層強くなった」と語った。
 事故後、避難所など8回の転居を余儀なくされ、現在も原発から約10キロの自宅には帰れない。「大人には二度と同じことを繰り返さないための正しい選択をしてもらいたい。福島の現状を正しく理解し、風化させないでほしい」と訴えた。
 東大大学院の高橋哲哉教授は、過酷事故がもたらす犠牲の大きさや被ばく労働などの問題点を指摘。「原発は、ある人々の利益が別の人々の犠牲にのみ成り立つような『犠牲のシステム』。できる限り速やかにやめるしかない」と述べた。
 
◇核兵器禁止
 核兵器のない世界実現に向けた国際的な法整備について話し合う分科会「核兵器禁止の法的枠組みをめざして」では、国際法の専門家やNGO代表ら5人が意見を交わした。
 NGO「核戦争防止国際医師会議」のティルマン・ラフ共同代表は「核兵器廃絶のリーダーシップを核保有国には期待できない」とし、同盟関係にある非保有国が、廃絶へ向けた機運を高めることの必要性を述べた。
 軍縮国際法などが専門の黒沢満・大阪女学院大教授は「国際世論の支持を受け、核兵器を持つ正当性をなくすことが法整備に必要」と指摘。核抑止論の有用性を低下させる議論づくりや、常任理事国を核保有国が占める国連安保理の改革など、多角的なアプローチを提案した。
 日本反核法律家協会事務局長の大久保賢一弁護士は、法整備に政府が積極的に取り組むには、国会議員の多くが政策に掲げる必要に触れ、「市民が候補者らに何を働きかけるかが問われる」とした。〔長崎版〕

2013年10月28日月曜日

長崎で被爆者たちが3000人大行進 

 世界軍縮週間(24日~30日)に入った26日(土)、今年も長崎市の平和公園に被爆者や小中学生たち3000人が集まり、核兵器の廃絶を訴え、世界平和を祈る大行進が行われました。
 この3000人規模の大行進は、長崎市や長崎商工会議所など108団体でつくる実行委員会が毎年行っているもので、昭和47年(1972年)から続けられています。
 今年は、2年後の2015年NPT再検討会議に向けて、核兵器廃絶を求める共同行動発展を目指して取り組まれました。
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世界平和へ3000人大行進 長崎で被爆者ら
読売新聞2013年10月27日
 国連の軍縮週間(24~30日)に合わせ、長崎市の平和公園周辺で26日、原爆犠牲者を慰霊し、世界平和を祈る市民大行進が行われた。被爆者や小中学生ら約3000人が参加し、核兵器の廃絶などを訴えた。

 長崎市や長崎商工会議所など108団体でつくる実行委員会が毎年行っている。
 平和公園で出発式があり、田上富久市長が「一緒に平和と核兵器のない世界を願って行進しましょう」とあいさつ。参加者は「忘れない忘れさせない長崎原爆」などと書かれたゼッケンをつけ、爆心地公園までの約1・5キロを行進した。
 
 

2013年10月11日金曜日

政府、核不使用声明に初めて署名へ

 政府は10日、核兵器の非人道性と不使用を訴えるため、有志国が国連の場で調整を進めている共同声明に賛同して署名する方針を固めました。

 田上長崎市長は8月の長崎平和宣言で、次のように世界に訴えて波紋を呼びました。
 「日本が、核不拡散条約(NPT)再検討準備委提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に署名しなかったのは、核兵器の使用を状況によっては認めるということに他ならない。それは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反する(要旨)」

 日本は、昨年のNPT再検討会議第1回準備委で初めて提案され核兵器の「非人道性」を訴える共同声明検討時間が足りないという理由で賛同しませんでした。今年4月の回準備委でも、事前にスイスなどから賛同を求められましたが、やはり米国の「核の傘」に依存する日本の安全保障政策と相いれないとして賛同しませんでした。
 それとは別に、1995年以降、核兵器禁止条約の交渉開始を求める国連決議が採択されていますが、日本は一貫して棄権してきました

 今回賛同に転じたのは「声明に拘束力はない」からという、極めて後退的な理由からですが、それでも一歩は前進したといえます。
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政府、核不使用声明に初署名へ 従来方針を転換
東京新聞 2013年10月11日 
 政府は10日、核兵器の非人道性と不使用を訴えるため、有志国が国連の場で調整を進めている共同声明に賛同して署名する方針を固めた。同趣旨の声明はこれまで3度まとめられているが、日本が同調するのは初めて。米国の「核の傘」に依存する日本の安全保障政策と相いれないとして署名を拒んできたが、声明に拘束力はないと解釈することで有志国側との調整にめどが立ったことから方針転換した。政府筋が明らかにした。

 被爆地・広島出身の岸田外相は核軍縮推進へ強い意欲を表明している。14年には広島で関連の国際会議が予定されていることも踏まえ、反対姿勢を続けるのは望ましくないと判断した。(共同)


核不使用声明 日本賛同せず 「なぜだ」鬼気迫る市長
東京新聞 2013年8月10日
 (前 略)
■納得できない
 「なぜ賛同できないのか。その理由をお聞かせいただきたい」
 四月二十四日、スイス・ジュネーブ。国連欧州本部の応接スペースで田上市長は天野万利(まり)・軍縮会議政府代表部大使に詰め寄った。この日、核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会は共同声明を七十カ国超の賛同で採択したが、日本は賛同せず。田上市長と松井一実(かずみ)・広島市長を前に、大使はこう釈明した。
 
 「『いかなる状況下でも核兵器を使用してはならない』という部分が、日本の安全保障政策と合致しない。全ての賛同国に理解を得るには時間切れだった」
 「それは違う。いかなる状況でも核兵器を使用しないことが人類の利益であることは、被爆地としては当然だ。説明は納得できない」。即座に切り返した田上市長は、その後も三十分以上、政府の姿勢を問いただす。同席した市幹部は、普段は冷静でにこやかな市長の鬼気迫る表情に驚いた。
 田上市長はこの二日前、大使に声明への賛同の可能性を尋ねていた。昨年も同様の声明が提案されたが、日本政府には直前まで声がかからず「検討する時間がなかった」として賛同を見送ったためだ。今年は事前に説明を受けている。大使はこの時「まだ最終結論に至っていない」と述べたが、市長は「今回こそは」と期待していた。それだけに不賛同を知り「がっかりした。と同時に、問いたださなくてはと思った」と振り返る。
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