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2016年4月1日金曜日

新潟水俣病を伝える碑を建立 歴史と教訓を伝えるために

 30日、公式確認から50年が経過した新潟水俣病の歴史と教訓を伝える碑の除幕式が、新潟市の県立環境と人間のふれあい館で行われ 関係者50人が出席しました。
 碑の建立は公式確認50年事業実行委員会の主要事業の一つで、は「阿賀野川を平和で豊かに」と刻まれました。
 新潟水俣病第一次訴訟を弁護団幹事長として勝利に導き、第二次訴訟では弁護団長を務め、記念碑の建立に関する委員を務めた坂東克彦弁護士が碑文の解説をされました。
  註  ただし二次訴訟が和解の方向に向かった時点で、納得できないとして団長を辞任しました。
    同弁護士には2014年の「湯沢平和の輪新年平和の集い」で記念講演をしていただきました。
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新潟水俣病 50年の歴史刻む
新潟日報 2016年3月31日
 公式確認から50年が経過した新潟水俣病の歴史と教訓を伝える碑の除幕式が30日、新潟市北区の県立環境と人間のふれあい館で行われた。被害者や県、国、阿賀野川流域自治体の関係者ら約50人が出席し、公害という悲劇が繰り返されない未来を願った。
 
 碑の建立は公式確認50年事業実行委員会(会長・泉田裕彦知事)の主要事業の一つ。碑は高さ約1・7メートル、幅2・5メートル、奥行き1・3メートル。阿賀野川流域の旧安田町(現阿賀野市)で採取された石に「阿賀野川を平和で豊かに」と泉田知事が揮毫(きごう)した。総工費は約370万円。
 除幕式で泉田知事は「新潟水俣病は国全体が豊かさを享受する中、一部の方々につらいしわ寄せが起きてしまった、歴史に伝えるべきこと」とあいさつした。
 被害者を代表し、新潟水俣病阿賀野患者会の山崎昭正会長は「碑ができたことは被害者にとっての喜び。今日が水俣病問題の全面解決に向けた決意の日となれば幸い」と語った。
 
 碑文の検討に当たった坂東克彦弁護士は碑文について「被害者の思いに寄り添い、平和への願いを主眼とした」と述べた。
 
被害者や行政関係者らが一堂に会した新潟水俣病の歴史と教訓を伝える碑の除幕式=30日、新潟市北区
被害者や行政関係者らが一堂に会した新潟水俣病の歴史と教訓を伝える碑の除幕式=30日、新潟市北区

2016年2月18日木曜日

水俣病と四日市ぜんそくの語り部が交流 公害の怖さを後世へと

 熊本水俣病が公式確認から六十年を迎えるのを機に、水俣市水俣病資料館語り部の緒方正実さん(58)らが三重県四日市市を訪問し、四大公害病の一つである四日市ぜんそくの語り部、野田之一さん(84)と交流しました。二人は「未来の子どもたちのために公害の恐ろしさを後世に伝えていきたい」と誓い合いました。
 四大公害病1950年代から70年代にかけて日本が高度経済成長を遂げるなかで、企業の排水や排ガスが原因で起きた熊本鹿児島の「水俣病」、四日市市の「四日市ぜんそく」、新潟県の「新潟水俣病」、富山県の「イタイイタイ病」です
 熊本水俣病は、チッソ水俣工場が水俣湾に有機水銀を含む排水を流し、水銀に汚染された魚介類を食べた住民が手足の感覚障害などを発症しました。それから約10年後に同じ悲劇が昭和電工の排水垂れ流しによって新潟県の阿賀野川流域で発生しました。
 が熊本水俣病で認定した患者の数は2280程度に過ぎず、実際の患者数に比べてごく僅かでした。四日市ぜんそくは、石油化学コンビナートの排煙が原因で起きたもので、認定患者は2216人でした
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水俣病と四日市ぜんそくの語り部が交流 公害の怖さをともに後世へ
東京新聞 2016年2月17日
 水俣病が公式確認から六十年を迎えるのを機に、熊本県水俣市立水俣病資料館語り部の緒方正実さん(58)らが三重県四日市市を訪問し、四大公害病の一つである四日市ぜんそくの語り部、野田之一(ゆきかず)さん(84)と交流した。二人は「未来の子どもたちのために公害の恐ろしさを後世に伝えていきたい」と誓い合った。 (石原真樹)
 
 四大公害病の資料館としては最後となる「四日市公害と環境未来館」が昨年三月に開館し、水俣病も公式確認から六十年の節目の年を迎えることから、緒方さんら語り部三人と水俣市役所職員ら計八人が初めて訪問した。
 
 十五日にぜんそく患者が多数出た四日市市塩浜地区を歩き、十六日に資料館を見学したり野田さんの講話を聞いたりした。
 野田さんは、一九七二年に患者側が全面勝訴した四日市公害訴訟の原告九人のうち、唯一の存命者で語り部の活動をしている。
 発作で苦しんだ時に看護師が「いつでも面倒見てあげる」と看病してくれた経験や、弁護士に「憲法があるのだから」と励まされ親戚の反対を押し切って裁判を起こした当時を振り返った。「苦しんだが、みんなに助けられてここまで来られた。今の子どもたちに、恩返しするつもりで、生きている限り語り部をしたい」と話した。
 
 緒方さんは「公害は経済政策を優先した国策の失敗だが、それを失敗に終わらせない役割が語り部。歴史を積み上げていかなくては」と応え、水俣湾の埋め立て地に市民が植えたツバキで作ったこけしを資料館に贈呈した。
 祖父や妹を水俣病で亡くし、自らも水俣病患者の緒方さんは、手足のしびれなどを抱えながら、「苦しむ人にすぐ手を差し伸べる大切さを多くの人に考えてほしい」と二〇〇七年九月に語り部となった。一三年四月から資料館の語り部の会会長を務めてきた。
「四日市で野田さんが、どんな思いで生きてこられたのか直接聴けて、財産になった。四日市の思いも込めて、公害の恐ろしさを子どもたちに伝えていきたい」と気持ちを新たにしていた。

2016年2月8日月曜日

市民活動グループ「田中正造大学」開校30周年

 足尾銅山鉱毒事件と戦った田中正造の遺徳を偲ぶ市民グループ「田中正造大学」の開校30周年を祝う集いが6日、佐野市で開かれ、約90人が参加しました
 同組織はこれまでに市内の公民館などで100回以上鉱毒事件の歴史や正造の思想を現代に生かす講座を開き、会報の講読会員は320人にのぼります
 
 1890衆議院議員になった田中正造は、11年に及ぶ議員活動の大半を鉱毒問題に費やし議員を辞職した後も鉱毒被害を訴える活動はやめませんでした。
 1906年に遊水池になるために谷中村が強制廃村となった後も、政府の命令に反し谷中村に住み続け、そこが終の棲家となりました。財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときの全財産は、新約聖書、鼻紙、川海苔、日記3冊、小石3つなど、信玄袋1つ分でした
※ 2013年9月2日 田中正造 没後100年 公害悲劇の連鎖
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田中正造から学び30年 大学開校 佐野で祝う集い【栃木】
東京新聞 2016年2月7日
 足尾銅山鉱毒事件と戦った田中正造を「学長」と仰ぐ市民活動グループ「田中正造大学」(佐野市)の開校30周年を祝う集いが6日、佐野市城北地区公民館で開かれ、市内外から約90人が参加した。
 
 田中正造大学は、鉱毒事件の歴史や正造の思想を現代に生かす講座を開くことを目的に坂原辰男事務局長(63)が開校。これまでに市内の公民館などで100回以上講座を開き、会報の講読会員は320人にのぼる。
 集いでは友好団体の代表らが来賓のあいさつで「素晴らしい講座を毎年開き、会報もきちんと出している」「ぜひキャンパス、校舎を持ってもらい、日常的に学べるようにしてもらいたい」などと述べた。
 坂原事務局長は「30年はあっという間にすぎてしまったように感じる」と振り返り、「3・11以降、正造があらためて注目されるようになった。これからますます正造の精神が求められると思うし、発信していかなければならない」と思いを語った。 (稲垣太郎)

2015年6月4日木曜日

4日、「新潟水俣病の50年」 放映 (NHK 19:30~ )

 新潟県の阿賀野川流域で発生した四大公害病の一つ「新潟水俣病」が5月31日、公式確認から50年を迎えました
 NHKは4日19:30~20:00の“クローズアップ現代”で『新潟水俣病の50年』を取り上げます。
 
 昨年の「湯沢平和の輪」の新年会で記念講演をしていただいた坂東克彦弁護士は、第一次新潟水俣病訴訟で弁護団幹事長として勝利に導きましたが、その後も新潟水俣病地域福祉推進条例の制定にかかわり、去年から疫学検討委員も務め、新潟で始まった独自の認定審査にも取り組んでおられます。 
  4日の“クローズアップ現代”にビデオ出演されます。
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6月4日 NHKクローズアップ現代 19:30~20:00
“病の姿”が見えない ~新潟水俣病の50年~
 
新潟県の阿賀野川流域で発生した四大公害病の一つ「新潟水俣病」が5月31日、公式確認から50年を迎える。しかし、半世紀の時を経ても新潟水俣病の被害を訴える人はあとを絶たず、現在は100人以上が患者の認定審査への申請を行っている。
 
こうした中、新潟県では去年から全国で唯一、認定審査会に「参考人」と呼ばれる疫学の専門家を置くシステムを導入した。これまで立証が難しかった症状と水銀曝露の関係を異なる視点で丁寧に見直そうというのである。
 
さらに水俣病被害の全容解明に向け関係者の模索も続いている。番組では、新潟で始まった独自の認定審査の取り組みから、求められる救済措置は何か改めて考えるとともに、新潟水俣病が現代に照射する教訓をくみ取っていく。
 

      書類を見ながら説明する坂東弁護士

2015年6月1日月曜日

新潟水俣病 公式確認50年で初の式典

 新潟水俣病の発生が公式に確認されてから50年目の31日、新潟市では県などによる初めての式典が開かれ、被害者や望月環境大臣、加害企業の昭和電工の関係者などおよそ300人が出席しました。そして公害を二度と繰り返さないという誓いが立てられました。
 
 式典では、被害者を代表して語り部の活動をしている78歳の小武節子さんの訴えの後、望月環境大臣が「熊本に続き、新潟で第2の水俣病の発生を防ぐことができなかった歴史的事実を、環境大臣として重く受け止めている。今なお苦しみにある方がいる現実に向き合い、環境行政に全力で取り組みたい」と述べました。
 しかし、国や企業のこれまでのあり方は決してそんなきれいごとで済まされるようなものではありませんでした。
 
 水俣病は、アセトアルデヒドの製造過程で生成するメチル水銀(有機水銀)原因物質で、それに汚染された魚介類を人間が食べることで発症します。最初水俣で発生したとき、九州大学がメチル水銀が原因であることをいち早く突き止めましたが、政府とチッソ(株)は重化学工業の発展に欠かすことの出来ない基材であるアセトアルデヒドの生産を優先させて、工場排水原因説を否定しました。
 そのため熊本で10万人以上といわれる水俣病患者を生み出し、9年後には新潟でも第二の水俣病を発生させました。
 
 国は水俣病の原因を長期にわたって隠蔽しただけでなく、水俣病認定患者が増えると1977年に認定基準を改悪して、手足の感覚障害のほかに、運動失調、視野狭窄などの症状があることを条件に加えて、感覚障害のみではほとんど認定されないようにしました(77年基準)。
 こうした中ようやく2013年4月になって、最高裁感覚障害だけでも水俣病と認める判決を出し、従来の国の基準を事実上否定しました。
 しかしその判決を受けて環境省が14年3月に出した新しい通知では、感覚障害だけでも患者と認める一方で、魚介類を食べた時期や入手経路などを患者自らが客観的な資料で証明しなければならないとしました。半世紀も前のそうした資料がある筈もなく、患者側にとって「かえって認定のハードルが高く」なりました。
 
 それはつい1年前のことです。国の、これ以上認定患者を増やさないようにするという意思は少しも変わっていません。
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新潟水俣病 公式確認50年で初の式典 
NHK NEWS WEB 2015年5月31日
4大公害病の1つ、新潟水俣病の発生が公式に確認されてから31日で50年です。新潟市では、被害者や国、それに原因企業などが参加した初めての式典が開かれ、公害を二度と繰り返さないという誓いがたてられました。
 
大公害病の1つ、新潟水俣病は、阿賀野川沿いにあった昭和電工の工場排水に含まれていた有機水銀が原因で起きた公害で、熊本県で水俣病が確認されてから9年後の昭和40年5月31日、新潟県内での発生が公式に確認されました。
この公式確認から50年となる31日、新潟市では県などによる初めての式典が開かれ、被害者や望月環境大臣、昭和電工の関係者などおよそ300人が出席しました。はじめに、出席者全員で新潟水俣病で亡くなった人たちに1分間の黙とうがささげられました。そして、被害者を代表して語り部の活動をしている78歳の小武節子さんが「今も差別や偏見を恐れ、病気を言い出せない人が多くいる。当時、阿賀野川流域に住んでいた人たちの健康調査を実施して被害の全容を明らかにしないと、新潟水俣病は終わらない」と訴えました。
 
続いて、望月環境大臣が「熊本に続き、新潟で第2の水俣病の発生を防ぐことができなかった歴史的事実を、環境大臣として重く受け止めている。今なお苦しみにある方がいる現実に向き合い、環境行政に全力で取り組みたい」と述べました。
また、新潟県の泉田知事は「ふるさとの環境づくり宣言2015」を発表し、すべての被害者が救済を受けることができる恒久的な制度の確立や、新潟水俣病を風化させず次世代に伝えていくことなどに県として積極的に取り組んでいくと宣言しました。 
 
日本の4大公害病の1つ
新潟水俣病は高度経済成長期の昭和40年に公式に確認された、日本の4大公害病の1つです。原因は阿賀野川沿いにあった昭和電工の工場排水に含まれていた有機水銀でした。流域の住民たちはこの有機水銀に汚染された魚介類を食べ、手足の感覚のマヒや全身のけいれん、それに、歩くことができなくなるなどの症状に苦しむことになりました。
新潟大学の教授が水銀中毒の発生を県に報告した昭和40年5月31日が「公式確認の日」とされ、熊本県での水俣病の確認から9年たっていたため「第2の水俣病」とも呼ばれています。
国の基準で新潟水俣病と認定されたのは先月末の時点で702人で、このうち531人がすでに亡くなっています。一方、医師には水俣病と診断されながらも国の基準で認められなかった人たちに対して、国は平成7年と平成22年の2度にわたって一時金を支払うことなどを柱とした「政治解決」をはかってきました。新潟水俣病でこの2度にわたる国の救済策を受け入れた人たちは、およそ2700人となっています。
 
水俣病救済の現状
水俣病と認定された患者は、昭和48年に原因企業と患者団体の間で結ばれた補償協定を基に、慰謝料や医療費などが支払われるようになりました。環境省によりますと、認定患者は先月末の時点で、▽熊本県で1785人、▽鹿児島県で492人、▽新潟県で702人の合わせて2979人です。
一方、国の基準で水俣病と認められない「未認定患者」の救済策は、これまで、国などを相手取った訴訟の増加や、裁判所の判断をきっかけに段階的に打ち出されてきました。このうち、平成7年には、当時の村山内閣が「最終的かつ全面的な解決」を図るとして、国などへの訴えを取り下げることを条件に、原因企業が1人260万円の一時金を支払うことなどを柱とする、いわゆる「政治解決」を決め、1万1000人余りが救済を受けました。
一方、この救済を受け入れなかった人たちが続けてきた裁判で、平成16年に最高裁判所が国の基準より広い範囲で水俣病を認め、再び裁判などで救済を求める人が急増したのをきっかけに、平成22年には、問題の最終解決を図るとして、原因企業が1人210万円の一時金を支払うことなどを柱とする救済策が閣議決定され、3万2000人余りが支払いの対象となりました。
一方、この救済の対象とならなかった人などが国などを相手取って慰謝料などを求める訴えが相次いでいるほか、今も、患者としての認定を申請して審査を待つ人が1750人に上り、課題が残されています。
 

2015年4月27日月曜日

田中正造を語り継ぐ団体 先導役が相次ぎ他界

 田中正造は、日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家で、没後100年となる2013年に栃木県佐野市で、遺徳をしのぶ人たちで盛大な100年祭が営まれました。
 
 足尾銅山は明治期東アジア一の産出量を誇り、生産された銅が主要な輸出品となるために国策でその増産が進められました。そのため19世紀後半以降に栃木県日光市足尾地区と群馬県の渡良瀬川周辺、銅の採掘と精錬に伴う排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質しく汚染されました
 1890年、衆議院議員になった田中正造は、11年に及ぶ議員活動の大半を鉱毒問題に費やし1901年に衆議院議員を辞職した後も鉱毒被害を訴える活動はやめませんでした。1903年に栃木県谷中村が遊水池になる案が浮上すると、翌年から実質的に谷中村に住んで農民たちのために反対運動の先頭に立ち、1913年(大正2年)そこで72歳の生涯を閉じました
※ 2013年9月2日 田中正造 没後100年 公害悲劇の連鎖
 
 下野新聞が、足尾鉱毒事件や田中正造を語り継ぐ市民団体が高齢化して、長年、中心的役割を長年担ってきた人たちがここ数年で相次いで亡くなっていることを報じています。
 田中正造研究の草分け的存在の布川了さん2013.11.17没)、「渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会」会長板橋明治さん2014.12.24没)に続き、この3月25日には正造研究の第一人者とされる熊本大文学部長の小松裕教授急逝し、正造研究者に衝撃が広がりました
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「田中正造」語り継ぐ団体に世代交代の波 高齢化 先導役が相次ぎ他界
下野新聞 2015年4月26日
 足尾鉱毒事件や田中正造を語り継ぐ市民団体に、世代交代の波が押し寄せている。長年、中心的役割を長年担ってきた先導役がここ数年で相次いで亡くなり、3月には正造研究の第一人者とされる大学教授も急逝した。没後百年に伴う顕彰で飛躍的に注目度が高まった正造。後継体制を構築した団体もある一方、多くの団体で活動の求心力維持や継承への取り組みが急務となっている。
 
 3月25日、熊本大文学部長の小松裕教授の訃報を受け、正造研究者に衝撃が広がった。まだ60歳だった。没後百年の2013年には生誕地佐野市で2度にわたって講演し、メディアでも「正造」を発信していた。
 
 交流が深かった同市の田中正造大学の坂原辰男事務局長(62)は「正造研究にとって、あまりに大きな痛手。ここまで訃報が続くとは…」と声を詰まらせた。
 
 正造研究の草分け的存在の布川了さんが亡くなった。「渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会」は、会長だった板橋明治さんが死去し、新体制に移行したが、上層部は依然として80歳前後で活動の停滞が懸念されている。
 


2015年3月25日水曜日

新潟水俣病 国は積極救済に踏み出せ

 新潟水俣病3次訴の訟判決に対して、新潟日報が「国は積極救済に踏み出せ」とする社説を掲げました。
 
 今年公式確認から50年を迎え、新潟水俣病に関する国の関与や原因究明の妨害などがこれまで色々と報じられてきたのにもかかわらず、いまだに国の責任を認めない判決は意外でした。
 原発の運転差し止めなどの裁判がそうであるように、国と対立する問題ではほとんど国側の立場に立ってきた裁判のあり方が、ここでも繰り返されました。
 
 判決には一部前進面も見られましたが、認定の仕方を含めてまだまだ患者の救済には程遠いものであり、救済を急ぐべきであるとしています。
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社説 新潟水俣病判決 国は積極救済に踏み出せ
新潟日報 2015年3月24日
 被害の発生、拡大をなぜ防げなかったのか。これが大きな争点だった。司法は行政の責任を認めなかったのだ。
 高度成長の負の遺産として、新潟水俣病が公式確認されてから半世紀がたつ。その節目に言い渡された判決は、原告側にとって厳しい内容になったといえよう。
 新潟水俣病の未認定患者ら11人が国と県、原因企業の昭和電工(東京)に損害賠償などを求めた第3次訴訟の判決で、新潟地裁は国と県に対する請求を棄却した。
 1992年の第2次訴訟1陣判決以来、新潟水俣病では23年ぶり3度目の司法判断である。
 審理の中で原告側は、65年の新潟水俣病の公式確認以前でも、国や県は工場排水を規制し、汚染された魚を捕食しないよう行政指導すべきだったなどと主張した
 これに対し、判決は「それまでに国や県は患者の発生を認識していなかった」などと述べ、違法性は問えないと判断した。
 行政側の責任を認定した熊本水俣病の2004年最高裁判決とは結論が分かれた。「第2の水俣病」を招いた責任を問う難しさがあらためて示された。
 
 ただし今回の判決は、昭和電工について、水俣病の発生源となったチッソ水俣工場と同種工場であるとの認識を、国は1959年に持っていたと認めてもいる
 本紙の情報公開請求では、公式確認以前に国が6社6工場を調べ、水銀を検出していたとする文書の存在が明らかになった
 さらに新潟地裁で係争中の第5次訴訟でも、同じような文書が原告の求めに応じて、国側から証拠として提出されている。
 国が第2の水俣病発生を予見できたことを裏付ける資料だと言えるのではないか。
 こうした証拠が加わり、評価されていれば、今回の判決で違う判断もあった可能性はあるだろう。
 
 一方で、判決は、審理中に水俣病と認定された1人を除く原告10人のうち7人を患者と認めた。
 昭和電工に対して、原告1人当たり330万円、または440万円(総額2420万円)の支払いを命じている。
 原告は県内の40~80代の男女で、祖父母や父母に認定患者がいる人が中心だ。全員が水俣病の典型的な症状である手足の感覚障害を訴えている。
 
 被告側は「別の病気の可能性がある」と主張したが、判決は過去の最高裁判決に沿って「生活歴など疫学的な知見を総合的に考慮し、判断すべきだ」と判断した。
 水銀摂取から40年以上たった後に症状が出る遅発性水俣病の存在を認め、汚染魚などを食べた母親の胎内での影響も考慮した。
 これらは、これまでの新潟水俣病訴訟の判決であまり言及されてこなかったが、それでも弁護団が不満とする点もある。
 原告が患者であるか否かの判断について、原告の同居家族に認定患者がいるかどうかに寄り掛かりすぎているとの指摘だ。
 被害者の苦しみは続いている。より広い認定の枠組みを考えて、救済を急がねばならない。
 

2015年3月24日火曜日

新潟水俣病3次訴訟 国と県の責任は認めず

 水俣病と診断されながら国の基準では認定されなかった新潟市などの男女1(11人中1人は裁判期間中に認定されたため原告から離脱)が国と新潟県、加害企業の昭和電工に対して1人当たり1200万円の損害賠償を求めた新潟水俣病3次訴訟で、新潟地裁23日、原告7人を患者と認定し、昭電に1人当たり330~440万円の支払いを命じました
 しかし工場排水の規制をしなかった国の賠償責任は認めませんでした
 
 新潟水俣病に10年先立って確認された熊本水俣病では、九州大学が直ぐにチッソの排水中の有機水銀(メチル水銀)が原因物質であることを突き止めました。しかし国は学者たちを動員してそれを否定させて、当時隆盛にあった重化学工業の基材であるアセトアルデヒドの生産を続行させたために、熊本では10万人を超える水俣病患者を発生させました。
 そして9年後には、同じ生産設備を稼動させた昭和電工の排水によって新潟でも水俣病を発生させることになりました。
 
 従って原因を隠した国は、国民を水俣病に罹らせた罪から免れることは出来ませんが、当時新潟県にはそこまでの認識はなかった可能性があります。少なくとも新潟水俣病公式発表後の県衛生部の対応は極めて迅速で的確であったため、患者数を熊本の100分の1程度に抑えることが出来ました。
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新潟水俣病:国と県の責任は認めず…3次訴訟判決
毎日新聞 2015年03月23日   
 水俣病と診断されながら国の基準では認定されなかった新潟市などの男女11人が国と新潟県、原因企業の昭和電工に1人当たり1200万円の損害賠償などを求めた新潟水俣病3次訴訟で、新潟地裁(大竹優子裁判長)は23日、原告7人を患者と認定し、昭電に総額2420万円の支払いを命じた。一方、工場排水の規制をしなかった国と県の賠償責任は認めなかった。原告は控訴する方針。
 水俣病の行政責任を巡っては、熊本の水俣病関西訴訟で最高裁が2004年、国と熊本県にはメチル水銀に汚染されたチッソ水俣工場の排水を規制する義務があったとの初判断を示した。これを受け、原告が07年4月に提訴した。
 
 行政責任について、原告側は、新潟県の昭電工場がチッソ水俣工場と同種だったことから、「1956年に熊本の水俣病が確認されて以降は被害を予見でき、排水を規制する義務があった」と訴えた。これに対し、国と県は「65年の新潟水俣病の公式確認以前は対策を取れなかった」と述べていた。
 
 また、原告が患者と認定できるかどうかも争点になり、原告側は「メチル水銀に汚染された魚介類をたくさん食べ、四肢の末端に感覚障害があるため、水俣病といえる」と主張。国や県側は、水銀をどの程度摂取したか不明などの理由で「別の病気の可能性がある」と反論していた。
 
 新潟水俣病を巡っては、国と昭電を相手取り損害賠償を求めた5次訴訟など2件が係争中。【真野敏幸】
 

2015年2月10日火曜日

「鉱毒悲歌」(足尾鉱毒事件) 28日から上映

 足尾鉱毒事件で廃村に追い込まれた谷中村を舞台にした映画「鉱毒悲歌」が28日から、宇都宮市で上映されます
 映画は、宇都宮市職員だった立松和平さんや、宇都宮大生らが40年近く前に撮影したものを編集して昨年6月に完成させたものです(上映時間1時間43)。これまで宇都宮市や佐野市で上映されましたが、ロードショーは今回が初めてです
 
 明治期東アジア一の産出量を誇った足尾銅山は日本の公害の原点でした。
 銅の精錬過程で出される煙害で足尾町周辺の村はいくつも廃村になりました。また鉱毒を含む排水渡良瀬川に流され、その河川水を農業用水として使った流域を始め、広い範囲に立ち枯れ病などの稲作被害が発生させました
 しかし主要な輸出品であったために国策でその増産が進められました。
 
 渡良瀬川流域の栃木県谷中村は、稲作被害に苦しめられた挙句に明治39年に洪水防止用の遊水地にするために、強制的に廃村にさせられ住民は退去させられました。
 衆議院議員の田中正造は11年の議員生活の大半を足尾鉱毒問題に費やし、遊水地問題が浮上すると谷中村に住んで、農民の反対運動の先頭に立ちその地で無一文の状態で生涯を終えました。
 
 足尾鉱毒事件も、さらに多数の被害者を生み出した水俣病事件も、国策の生産活動に由来した大公害でした。福島原発の大惨事本質において共通しています。
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よみがえる足尾の叫び 「鉱毒悲歌」28日から上映
東京新聞 2015年2月8日
 足尾鉱毒事件で廃村に追い込まれた谷中村(現栃木市)を舞台にした映画「鉱毒悲歌(こうどくひか)」が28日から、宇都宮市江野町の「宇都宮ヒカリ座」で上映される。初日には、映画の製作委員会委員長の谷博之・元参院議員の司会で「田中正造大学」の坂原辰男事務局長と出演している作家の故立松和平さんの長男・横松心平さんのトークショーを開催。東京電力福島第一原発事故を例に、市民が犠牲になる公害との共通性などを語る。 (後藤慎一)
 
 昨年六月に完成した映画は、宇都宮市職員だった立松さんや、宇都宮大生らが四十年近く前に撮影。長く「お蔵入り」になっていたフィルムを編集して一時間四十三分にまとめ、宇都宮市や佐野市で上映された。一定期間のロードショーは今回が初めて。
 
 モノクロの映像は、人の背丈以上もあるヨシ原をかき分け、谷中村があった墓地にたどり着く場面から始まり、足尾銅山の煙害で壊滅した地域の姿などを細かく記録。足尾鉱毒事件と深く関わった田中正造を知る男性や、谷中村から北海道佐呂間(さろま)町に移り住んだ元村民らの貴重な証言が残されている。
 
 坂原さんは「映画の製作背景や、出演者の解説をしたい。原発事故では、住民が(地域から)追い出されるという、谷中村と同じことが起きている。足尾鉱毒事件も終わっていない」などと指摘。横松さんも「父が作品を書くずっと前から足尾の活動に取り組んでいたんだなあ、としみじみ感じる」と話しており、同じ作家として仕事の軌跡を振り返る。
 
 トークショーは二十八日午後二時五十分から。映画の上映期間は三月十三日までの予定。料金は大人千円、高校生以下八百円。
 
写真
  映画の「鉱毒悲歌」の冒頭シーンに出てくる谷中村の墓地

2015年1月6日火曜日

新潟水俣病公式確認から50年

 今年は、新潟水俣病公式確認から50年目の年に当たります。
  
 水俣病は、アセトアルデヒドの製造過程で生成する有機水銀が排水中に含まれて環境中に流出し、それを摂取した魚介類を人間が食べることで発症します。アセトアルデヒドは合成樹脂やその可塑剤等の原材料となるもので、重化学工業全盛時代には欠かすことの出来ない基材でした。
 
 熊本水俣病は、まずチッソ水俣工場の工場排水によって引き起され昭和31年(1956年)に水俣病と確認されました。新潟水俣病は阿賀野川流域の昭和電工の工場排水によって熊本水俣病確認の9年後昭和40年=1965年5月31日に発生が公式に確認されました
 
 公害病が発生すれば、当然、早急に原因を追及して被害の拡大を防止しなければならないのですが、九州大学が水俣病の原因が有機水銀であることをいち早く突き止めたにもかかわらず、当時、政府、業界、学会が一丸となってそれを否定・隠蔽して9年間も放置しておくなかで、熊本水俣病患者は10万人を超える規模にまで達し、遠く離れた新潟の地でも全く同じ公害病を発生させました。
 
 新潟水俣病訴訟によって水俣病の原因が明らかにされた後は、水俣病患者と認定される人々が増え続けました。しかしその数が増えていくと、政府は今度は認定基準を厳しくして、極力患者であるとの認定をしないようにしました。
 1977年に改悪された認定基準(77年基準)がそれで、手足の感覚障害のほかに、運動失調、視野狭窄などの症状があることを原則としており、感覚障害のみではほとんど認定されなくなりました。
 認定基準に関する訴訟において、最高裁はその基準が厳しすぎて不当であるという判断を下しています。直近では2013年4月にも、「複数の症状がなくても個別に検討して認定する余地がある”」との判断を示しました。
 
 それに対して環境省は2014年3月、認定基準に関する新たな通知を出しましたが、その内容は有機水銀の暴露を受けたとする客観的資料(数十年前の魚介類の喫食状況を示すもの、毛髪や尿中の水銀濃度、同一家族内の認定患者の存在など)が示されれば認めるという内容で、50年以上も前の資料を出せというおよそ現実性のないものでした。
 結局「77年基準」はそのまま無傷で現在も生きています。
 被害者たちは「環境省の新通知は、現行の認定基準(77年基準)よりも認定しにくくするもので、高裁判決を全く無視したもの」と憤っています。
 
 新潟県では泉田知事が立ち上げた諮問委員会の答申に基いて、県独自の取り組みとして「新潟水俣病地域福祉推進条例」を制定し、県として出来る範囲で新潟水俣病患者に新潟水俣病福祉手当支給し、療養や健康管理等に係る経済的負担の軽減を図っています。
 条例では新潟水俣病患者を、「阿賀野川の汚染された魚を食べたことにより一定以上の症状が出た方を新潟水俣病患者と定義」するとして手当てを支給する対象者を広げ、「ニセ患者」などの誤解や偏見を生む考え方をなくしていこうとする努力が払われています。
 
 NHKの記事:「新潟水俣病公式確認から50年」を紹介します。
 
 註.当時、水俣病の原因を隠蔽し続けた政府・業界・学会の態度は、現在の福島原発事故における放射能被害に関する情報を隠蔽し、あるいは放射能を安全だと偽装し続ける態度と共通しています。
     (関連記事)
        2013年2月27日 政府・環境省がまたしても水俣病で偽証工作
        2013年1月2日 田中正造没後100年 足尾鉱毒事件と原発事故
        2012年10月21日 放射能汚染と水俣病・・・その酷似性 
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新潟水俣病公式確認から50年  
NHK NEWS WEB 2015年1月5日
(新潟)県内で水俣病の発生が公式に確認されてからことし5月で50年を迎えます。
 一方、救済を求める裁判は現在も続き、被害者団体が集めた署名は12万人余りに上るなど、水俣病を巡り半世紀にわたって続く問題は今も解決に向けて道半ばの状態となっています。
 
新潟水俣病は阿賀野川流域の昭和電工の工場排水に含まれていた有機水銀が原因で起きた公害で、水俣病が熊本県で確認されてから9年後の昭和40年5月31日に県内での発生が公式に確認されました
この公式確認からことしで50年を迎えますが、水俣病を巡っては、多くの被害者が救済を求めて国や昭和電工に対して損害賠償を求めたり、新潟市に対して認定を求めたりする裁判が続いています。
また、被害者団体などでは差別や偏見を恐れ、これまで症状を訴え出ていない隠れた被害者が多く残されていると指摘し、先月、新潟市で行われた検診では新たに9人に水俣病とみられる症状が確認されました。
 
こうしたことなどから、被害者団体などではすべての被害者の救済を求めて12万人余りに上る署名を環境省に提出するなど、水俣病を巡り半世紀にわたって続く問題は今も解決に向けて道半ばの状態となっています。