2026年5月7日木曜日

07- 【考える/9条】自民党の改憲運動 源流は米国軍部

  米価の高騰、諸物価の高騰の他、ナフサの不足による医療品や住宅用塗料、梱包用資材の品切れや不足など、数えきれない諸資材の不足(いずれも価格高騰に直結)が起きていますが、高市首相はひたすら「物流の目詰まりなので問題ない」の一点張りで、何の対策も行わずに極右政策・極右法制の成立に関心を向けています。

 戦争の記憶が皆無の人間の恐ろしさと言えるし、戦争を経てきた歴史を学ばない人間の恐ろしさとも言えます。
 しんぶん赤旗に掲題の記事が載りました。
 末尾の年表で明らかなように記述の対象は終戦直後の1947年辺りから1960年前半辺りまでで、まだまだ第二次世界大戦・日米戦争の記憶が広く残っている時代でした。
 当然 国民の間には反戦の思いが強いし、米国の日本再軍備政策に従おうとする自由民主党の政治家たちにも、立場を越えて反戦の思いを理解する素地がありました。
 要するに嘗ては戦争回避の願いだけは共通していました。
 しかし今はどうでしょうか。現実にガザやイランなど中東で悲惨な殺戮・虐殺が行われているにもかかわらず、兵器が海外に売れれば日本の利益につながるからという単純思考が優勢になっているように思われます。もしも軍備を拡大しさえすれば攻撃を受けないとでも思っているのであれば それこそは大変な「お花畑」の思想です。
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【考える/9条自民党の改憲運動 源流は米国軍部
                        しんぶん赤旗 2026年5月6日
「時は来た。『(憲法)改正の発議にめどが立った』といえる状態で来年の党大会を迎えたい」
 4月12日の自民党大会でこう力を込めた高市早苗首相。2月20日の施政方針演説でも「国会における(改憲)発議が早期に実現されることを期待する」と権限を逸脱する発言に踏み込みました。「違憲」の批判を顧みない異常な前のめりです。焦点は9条改憲-自衛隊の憲法明記です。日本維新の会、国民民主党、参政党などが改憲に積極姿勢を取ることも含め、戦後かつてない危険が迫っています。改憲原案の審査権限を持つ衆参の憲法審査会では、改憲案の起草委員会の設置が画策されています。
「時は来た」という言葉に凝縮される執念-。1955年の自民党結党以来の9条改憲策動の源流は、そもそもどこにあるのか
 日本国憲法が施行されたのは1947年5月3日でした。驚くべきことに、翌48年2月には、憲法9条改定の動きが始まっていました。震源地は米国の軍部でした。当時、フォレスタル米国防長官が「日本と西ドイツの再軍備」研究の指示を出したのに対し、同年5月18日付で「日本の限定的再軍備」という覚書が提出されました。
 米国防長官に提出された覚書の中身は、軍事的観点からは日本に軍隊を持たせる必要があるが、それには制定されたばかりの新憲法の改定などが必要で、すぐにはやれない、そこでまず「警察力」の形で軍隊に準ずる組織をつくり、それを米軍の指導・監督のもとに育て、将来本格的軍隊を持たせるのと合わせて改憲の準備をするとの長期方針でした。その後、若干の修正を経て49年2月に米軍の統合参謀本部=軍最高指導部の決定となります。
 50年6月に朝鮮戦争が勃発すると占領軍司令官マッカーサーの命令で警察予備隊がつくられ、52年には保安隊に改組。54年には自衛隊となります。この流れが9条改憲の一貫した原動力となったのです。

再軍備、日米安保と並行
 当時、日本再軍備を急いだ背景には米ソ冷戦がありました。
 世界中に軍事基地網を張り巡らす政策を追求する米国にたいし、大戦終結後、東ヨーロッパにソの影響が広がりました。アジア地域でも民族解放闘争や社会主義を掲げる運動・国づくりが進むと、48年1月、米国のロイヤル陸軍長官が演説で「日本を全体主義の防壁に」と宣言。「全体主義」とは、戦前のファシズムや日本軍国主義だけでなく、ソを中心とした「共産主義」陣営も含む言葉でした。
 米国はポツダム宣言で示された日本の民主化・非軍事化という任務を投げ捨て、日本を東アジアの軍事拠点とする方針へと占領政策の転換を進めます。いわゆる「逆コース」です。
 50年6月、朝鮮戦争の勃発に前後して、連合国軍総司令部(GHQ)は党機関紙「アカハタ」の発刊停止を指令するなど日本共産党を弾圧。朝鮮での戦況が激化し、占領軍として日本に駐留していた米軍部隊が朝鮮半島に派遣される動きの中で警察予備隊の創設(同8月10日)が発令されました。

占領軍」が変貌
 日本再軍備の動きは日米安保条約の締結と同時並行でした。
 51年9月8日、サンフランシスコ講和会議で対日平和条約が調印された5時間後、同じサンフラシシスコの米陸軍第6軍司令部で日米安保条(旧安保)がひそかに調印されました。国民が条約の内容を知ったのは調印後でした。

改憲の動きを食い止めた国民運動
 旧安保条約の第1条は「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与」すると明記していました。「講和」によって占領軍は撤退するはずでした。その「占領軍」が一夜にして「在日米軍」に変貌し、基地とともに居座り続けるというマジックが強行されました。しかも、講和条約第3条で、沖縄と小笠原を米国の全面占頷下に置きました。沖縄の軍事的利用価値を重視したためです。
 こうして日本全土を「全体主義の防壁」として丸ごと占領・半占領状態に置き、「極東における前線基地」としたのが安保条約だったのです。
 この過程で「日本の再軍備」要求も強まりました。
 51年1月末から2月にかけて来日した米国の対日講和問題責任者ダレスと日本政府の交渉のなかで「(ダレスは)日本の独立回復後における米軍の駐留継続を示唆すると同時に、日本再軍備案として32万5000人を提示した」(西原正・元防衛大学校校長ら編『日米同盟Q&A 100』)といいます。「日本側が再軍備計画を提示しない限り、交渉が進展しないことは明らかであった。そこで外務省事務当局は、警察予備隊と海上保安庁とは別個に五万人からなる保安隊を新設するとの漸増計画案を提出した。米国側がひとまずこれを了承した」
 これを受けて52年に保安隊が創設されました。53年には吉田茂首相の特使として米国に派遣された自由党の池田勇人政調会長がロバートソン米国務次官補と会談。米側が35万の地上兵力を要求するなどして激しい議論となり、54年に保安隊が自衛隊に発展しました。

市民社会の岩盤
 なし崩しの再軍備・改憲の動きの中で同年には政治の場でも明文改憲の動きが台頭。当時の自由党、改進党、民主党などが明文改憲の動きを強め、55年には自由党と民主党が合同して自由民主党が結党します(保守合同)。自民党の政綱には「独立体制の整備」として「現行憲法の自主的改正」と書き込まれました。
 しかし、戦後民主主義の運動の高揚は明文改憲に厳しく対抗し、同年の総選挙でも、翌年の参院選でも改憲反対勢力が3分のを超えました明文改憲の試みは挫折に追い込まれたのです。
 57年に成立した岸信介内閣は安保条約の改定を先行させ、日米共同作戦体制から改憲につなげる戦略を描きましたが、60年安保改定反対闘争の空前の高揚により、安保条約改定(批准)強行と引き換えに退陣に追い込まれました。後継の池田勇人首相は、明文改憲断念を表明するに至ります。
 自衛隊という軍事組織を正面から承認する明文改憲はいったん挫折し、米国の圧力を背景に、解釈によってその活動範囲を広げる方向に進みます。しかし、そこにも9条とこれを守る国民の運動が立ちはだかりました。
 中曽根康弘元首相は後年、この当時を回顧し「どうして国民はわかってくれないのか」と思ったとして次のように語っています。
「じっくり反省してみて、これは人間の壁というか、市民社会の岩盤ができたということなんだと」「(私はずっと)治める側にいたわけですが、治められる国民の側にたってみると、戦前戦中にわたりいろんな統制があって、官憲に威張られたり、非常に苦労してようやく自由と平和が得られたわけで、この自由と平和は絶対手放さないという意思が戦後の日本人の中にあった」(『天地有情』1996年)


         改憲の源流とその流れ
1947年5月    日本国憲法施行
  48年 1月    ロイヤル陸軍長官「日本を全体主義の防壁に」、逆コースヘ
     5月   「日本の限定的再軍備」覚書
  49年       下山、三鷹、松川事件、共産党パジの動き強まる
  50年  6月   共産党員の公職追放令(レッドパージ)、アカハタ発刊停止
          朝鮮戦争勃発。
      8月   警察予備隊創設
  51年  9月   サンフランシスコ講和条約十日米安保条約(国民には秘密)
  52年 10月   保安隊創設
  54年  7月    自衛隊創設
  55年 10月   保守合同・自由民主党結党、「現行憲法の自主的改正」  尚
  57年      岸信介内閣成立
  60年      安保改定強行、日米共同作戦
          岸内閣退陣
  62~63年     池田勇人首相「在任中改憲しない」