草案第18条は現憲法の第24条の中に活かされていますが、第19条は残念ながら活かされませんでした。もしもこれが制定されて関連の法令も整備されていたなら、その後の多くの母子家庭や婚外子(「私生児」)の悲劇はなくなっていたことでしょう。
これらの案文を辿ると、日本の女性と児童に世界で最高度の権利と福祉を確立しようと奮闘した、一人のうら若き女性の意気込みが伝わって来ます。
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第18条 家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統はよきにつけ悪しきにつけ、国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは法の保護を受ける。婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然である。このような考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意にもとづき、かつ男性の支配ではなく両性の協力にもとづくべきことをここに定める。
これらの原理に反する法律は廃止され、それにかわって配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。
(⇒ 現24条)
注. カッコ内は日本国憲法に反映された条項を示します。以下同。
第19条 妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は、既婚未婚を問わず、国から援助を受けられる。
非嫡出子は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ。
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彼女はさらに次のような草案も書きました。それは今から約70年も前のことで、アメリカの憲法には女性の権利などはうたわれていない時代のことです。(アメリカ憲法ではいまもうたわれていないということです)
彼女が如何に女性と児童の人権を守ろうとしているかが汲み取れるもので、才媛であったとはいえ普通の大卒者に過ぎない彼女が、突如与えられた専門外の仕事で、しかも僅か1週間で仕上げた条文が、世界の最先端を行くものであったことには驚きを禁じ得ません。
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第20条 養子にする場合には、その夫と妻の合意なしで家族にすることはできない。養子になった子どもによって、家族の他の者たちが不利な立場になるような特別扱いをしてはならない。長子の権利は廃止する。
第21条 すべての子供は、生まれた環境にかかわらず均等に機会が与えられる。そのために、無料で万人共通の義務教育を、八年制の公立小学校を通じて与えられる。中級、それ以上の教育は、資格に合格した生徒は無料で受けることができる。学用品は無料である。国は才能ある生徒に対して援助することができる。
(⇒ 現26条)
第24条 公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けられる。成長のために休暇と娯楽および適当な運動の機会が与えられる。
第25条 学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低賃金を満たさなければならない。
(⇒ 現27条)
第26条 すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。
女性はどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。
同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。
(⇒ 現25条、27条)
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また、現憲法第14条:「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」も、彼女が執筆しました。
彼女は全米トップレベルの4年制女子大ミルズ・カレッジを首席で卒業したのち、日本に住む両親に会うためにGHQの民生局に就職しました。日本での彼女の任務は女性団体やミニ政党、女性運動家などを調査する仕事でした。そして1946年2月に急遽GHQで憲法草案をまとめることになったとき、彼女は人権の部分を担当しました。
彼女は、少女時代を日本で過ごしたので、日本が男性中心の社会であることを知っていました。また日本語には曖昧さがあるので、憲法で明確に規定しておかない限り、役人の作る法規(民法)に女性や児童の権利がうたわれないことも分かっていました。
それで女性と児童の権利を可能な限り具体的に憲法に盛り込んでおきたかったのでしたが、草案作成チームの責任者であったケーディス大佐(弁護士)によって、「民法の領域だから」という理由で草案の多くの部分が削除されました。彼女は泣いて抗議したそうですが、実際に今日に至ってもそれらの条項が民法に含まれていない現実を見ると、彼女が慧眼であったことが分かります。
ベアテは、ウクライナ系ユダヤ人の両親がオーストリアに避難中の1923年10月にウィーンで生まれました。1929年の春に、リストの再来と言われた世界的なピアニストである父が、芸大の前身・東京音楽学校の教授に就任したのに伴い、五歳半で来日しました。
1939年の秋に、15歳でアメリカのミルズ・カレッジに留学しましたが、米人と接してみると「自分が半分以上日本人」となっていることに気づきました。
日米戦争の勃発(1941年12月)により、留学の途中で日本からの学資の送金が途絶えると、日本の短波放送の内容を英語に翻訳するアルバイトをし、その仕事の中で日本語の文語体と敬語を学びました。またそのときに米国で入手した露日辞典を用いて、英語をロシア語に訳してそれから日本語に翻訳する手法で、日本の軍事用語なども習得しました。その結果、当時日系2世でも聞きとれないような特殊な日本語も正確に聞きとれたので、上司から信頼されました。
彼女は渡米前の少女時代に、英語やフランス語の家庭教師につくなどして、既に日本語・英語・フランス語・ロシア語・ドイツ語が出来ましたが、大学では更に仏語会話サークルに所属し、スペイン語を履修したので、6ヶ国語に堪能になりました。
1943年大学卒業後、タイム誌などを経たのち、GHQの民政局に就職しました。6ヶ国語の言語能力とタイム誌での調査能力が高く評価されて採用されると、1945年12月24日に空路日本に赴任しました。
憲法草案の作成では3名で構成された人権小委員会に属して、社会保障と女性の権利についての条項を担当しました。そして「女性の権利」について、当時の世界の憲法において最先端といえる人権保護規定を作りました。
草案の作成に当たり、ベアテ・シロタが都内の図書館から借り出して参考にした憲法は、下記の通りです。
1. ワイマール憲法(ドイツ語)
・第109条(法律の前の平等)、第119条(婚姻、家庭、母性の保護)、第122条(児童の保護)
2. アメリカ合衆国憲法(英語)
・第1修正(信教、言論、出版、集会の自由、請願権)、第19修正(婦人参政権)
3. フィンランド憲法(養子縁組法)(フィンランド語)
4. ソビエト社会主義共和国連邦憲法(ロシア語)
第10章・第122条(男女平等、女性と母性の保護)
1946年3月4日、GHQの憲法草案に基づいて作成された日本政府案が、日本文のままでGHQに届けられました。それを手分けしてまず夕方までに英文に直すと、かなり保守的な内容であることが分かったので、引き続き徹夜で民政局の運営委員会と日本政府代表とで逐条の審議をしたのですが、その通訳をベアテが務めました。日本語の文語体や敬語が理解できないと、そうした緻密な作業は務まらなかったからでした。
審議では、日本側が象徴天皇は日本の歴史や文化に合わないので受け入れられないと主張して第1章から大いにもめましたが、彼女は日本の実情をよく理解して正確な通訳に徹したので、日本側は彼女を信頼しました。
第24条(注1)でも、やはりそれは日本の風土に合わないからと日本側は大反対をしましたが、ケーディス代表が「それはミス・ベアテが確固たる信念で書いたものなので、このまま通しませんか」と言ったところ、日本側は彼女が起草者とは知らなかったので大変ビックリし、急遽受け入れることになったということです。日本側が彼女に寄せた信頼を逆手にとったケーディスの作戦勝ちでした。
(注1) 要旨 : 婚姻は、両性の合意のみに基く。夫婦は同等の権利を有する。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻等に関する法律は、個人の尊厳と両性の平等に立脚して制定されなければならない。
1993年頃に彼女のそうした活躍が明らかにされてからは、何回にもわたって日本に招待され全国で講演活動を行いました。行った講演は全国200ヶ所以上で、聴衆の数はのべ8万人に及んだということです。
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この記事は主として下記を参考にしました。
ベアテ ・ シロタ ・ ゴードン (ウィキペディア)
参議院第147回国会
憲法調査会議事録 第7号 2000年05月02日