2012年7月3日火曜日

【憲法制定のころ 1】憲法はアメリカに押し付けられたものか??

― 「憲法制定のころ」を数回の予定で掲載します ―
 
改憲を主張する人たちは、日本国憲法がアメリカから押し付けられたものであるという言い方をします。確かに1946年2月13日にGHQ憲法草案が渡されて、その約20日後に政府案がまとまったのですが・・・・
 
1945年10月11日、幣原首相が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に新任の挨拶に行った時に、マッカーサーから「憲法の自由主義化」発言があったので、それを受けて政府は、10月25日に松本国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」を設置しました。「憲法の自由主義化」とは聞きなれない言葉ですが、この場合は大日本帝国憲法(以下「明治憲法」)からの自由主義化であり、ポツダム宣言にうたわれた民主憲法の自主制定を意味したものと思われます。
 
国内ではそれと並行して各政党や団体、個人による憲法草案の作成が進められ、翌年2月一杯までに発表された民間の改憲案(注)だけでも10指に余ります。(その他に政府側委員たちが発表した私案も10案以上あります)
それらは1945年の年末から翌年2月にかけて次々と発表されました。その中でも12月26日に発表された「憲法研究会」(高野岩三郎、鈴木安蔵ほか)の「憲法草案要綱」にはGHQが強い関心を示し、発表の3日後には英訳され最終的にGHQのトップにまで提出されたということです。
 
その「憲法草案要綱」にうたわれた「統治権」と「国民の権利と義務」の主な内容は以下のとおりで、現行の憲法と見事に重なるものでした。
統治権
国の統治権は日本国民より発すること(国民主権)、天皇は自ら国政を行わず、国民の委託により専ら国家的儀礼を司ること(象徴天皇制)
国民の権利と義務
国民は法の前に平等で、出生や身分・人種による差別はないこと(14条)、言論・学術・宗教の自由(20、21、23条)、拷問の禁止(36条)、労働の権利と義務(27条)、国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有すること(25条)、8時間労働(27条)、生活保護(25条)、男女の平等(24条) (カッコ内は、対応している現行憲法の条項)
また戦争放棄にはふれていませんが、軍に関する規定はなく軍の保有は想定していませんでした。
GHQのラウエル法規課長がこれを「民主主義的で賛成できるものである」と評価し、この「憲法草案要綱」に欠けていた憲法の最高法規性、違憲立法審査権、最高裁裁判官の選任方法、刑事裁判における人権保障等10項目の原則を追加したものが、後のGHQ憲法草案のベースになりました。
 
一方、GHQからの督促を受けて2月8日に提出された日本政府の「憲法改正要綱」は、「第1章天皇」では、その権能に一部議会の「協賛」や常設委員の「諮詢」を要する、などの若干の制限は付されたものの、基本的に戦前の天皇制を温存するものであり、「第2章臣民権利義務」以下も、明治憲法の条文を一部手直しするにとどめるなど、あくまでも明治憲法を基本とするものでした。
5日後の2月13日にGHQはその「憲法改正要綱」を拒否するとともに、代わりにGHQが作成した憲法草案を政府に手渡しました。それは、2月1日に毎日新聞にスクープされた政府案を見たGHQが、それがあまりにも時代錯誤的なものであったので、もう日本政府の自主作業では埒が明かないと判断して、2月4日に急遽民政局内に作業班を組織して、1週間余りで仕上げた憲法草案でした。
 
GHQの憲法草案が、指針というよりはかなり成文化されたものになっていたのには、次のような事情がありました。
当時、GHQの上位組織としてソ連や中華民国が加わる極東委員会が新たに作られて、2月26日から活動を開始することになっていました。そうなると憲法の制定に当たって、極東委員会から「国体の変更」などの要求が出される可能性があったので、GHQとしてはその前に日本の自主憲法の骨格を固めておきたかったのですが、日本政府の自主作業に任せておいては、たとえ2月一杯を掛けたとしても、とても新時代に適合した民主憲法が作成される見込みはなかったので、所要の期限までに政府案が出来上がるためには、単なる指針ではなくて具体的な案文を例示する必要があると考えたからでした。
 
それを受けていくらかは新時代に相応しい政府案がまとまって、3月4日にGHQに提出されましたが、象徴天皇制や男女同権は日本の歴史や文化に合わないと拒否するなど、まだまだ不十分なところが沢山あったので、夕刻から政府代表とGHQ代表とで逐条の審議を行い、徹夜した揚げ句にそのまま作業を続行して翌5日の夕方に、ようやく満足すべきものがまとまり、直ぐに閣議決定がなされました。
 
その憲法案はアメリカの憲法よりも優れたもので、人権に関しては世界のトップレベルの憲法であるというのが、GHQの草案作成スタッフたちの見解でした。
 
 新憲法制定におけるGHQの立場と、彼らが制定に当たりどのように関与したのかを要約すると、以下のようになります。
 
①GHQには、日本がポツダム宣言(この場合は10条)を実施することを確認する任務があったが、元々、憲法の草案を提示する意志は持っていなかった。
②日本政府は明治憲法を一部改正してそれを新憲法にするという構想だったので、GHQは、日本政府が独力で新時代に即した民主憲法を作るのは困難であると判断した。
③このままでは新憲法の骨格が何も固まらないうちにGHQの上部組織である極東委員会が機能し出し、そこから国体の変革などの要求が日本の自主憲法の制定に対して出されることが予想された。
④GHQは、日本政府が2月一杯で新憲法の骨格を固めるためには、具体的な憲法草案を提示する必要があると考えて、急遽GHQ内に憲法草案の作成チームを組織して、1週間あまりで草案を作った。
⑤GHQ憲法草案の骨子となったものは、日本の民間団体「憲法研究会」による「憲法草案要綱」であった。
⑥GHQ憲法草案は、母国アメリカの憲法よりも優れたものであった。
 
 従って「憲法はアメリカから押し付けられたもの」というのは正しくありません。
 
(注) 憲法草案を作成した政党・団体・個人名と改正案の名称は下記のとおりです。(政府関係者の私案は除く)
【政党】
日本共産党:「新憲法の骨子」、自由党:「憲法改正要綱」、日本進歩党:「憲法改正要綱」、日本社会党:「憲法改正要綱」
 
【団体・個人】清瀬一郎(弁護士):「憲法改正条項私見」、布施辰治(弁護士):「憲法改正私案」、憲法研究会:「憲法草案要綱」、大日本弁護士会連合会:「憲法改正案」、稲田正次(憲法学者):「憲法改正案」、里見岸雄(思想家):「大日本帝国憲法改正案私擬」、高野岩三郎(東大教授):「改正憲法私案要綱」
 
※この記事は、「日本国憲法の誕生(国会図書館ホームページ)」
を参照しました。
上記ホームページ(「資料と解説」)には、当時発表されたすべての憲法草案が載っています。