2026年7月6日月曜日

06- シリーズ イチからわかる憲法9条 第2部 安保との攻防(1)~(5)

 シリーズ「イチからわかる憲法9条」の第1部 9条の誕生」は前報で終了し、
2部 「安保との攻防」に進みました。その(1)~(5)を紹介します。
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イチからわかる憲法9条 2部 安保との攻防(1)占領継続
日本全土を「基地化」
                       しんぶん赤旗 2026年6月30
 米軍の方針転換は、日本再軍備にとどまりません。無条件降伏にあたり、日本が受諾した対日降伏勧告(ポツダム宣)は、日本が主権を回復すれば占領軍は撤退すると明記していました。ところが、米国は「主権回復」後も米軍駐留を継続し、日本を占頷下に置くため、サンフランシスコ講和条約とセットで日米安保条約締結を要求。狙いは、日本を「反共の防波堤」として、対米従属下に組み込むことにあります。
 1951年9月8日、サ条約締結後、吉田茂首相ただ一人が米サンフランシスコ市内に
ある第6軍司令部集会室に足を運び、安保条約に署名したのです。その内容は、国民にはまったく知らされていませんでした。
 安保条約は、世界に類例のない、日本全国どこにでも基地を置くことができるという「全土基地方式」を採用。基地増強のための土地接収が相次ぎ、各地で土地闘争が勃発しました。さらに、講和条約3条で沖縄、奄美群島、小笠原諸島を日本から切り離し、米軍の全面占頷下におき、憲法のらち外とされました。沖縄の住民は無権利状態に置かれ、「銃剣とブルドーザー」による強権的な土地強奪や、殺人や性的暴行など米兵の凶悪事件が相次ぎました。
 憲法施行の翌年に米軍内で始まっていた日本再軍備と改憲の計画は、日本が安保体制に組み込まれたその時から、より本格化しました。戦争放棄、戦力不保持を定めた9条をなし崩しにする改憲策動です。
 54年にはもっぱら自国防衛″のためという理屈を持ち出し、自衛隊を発足させました。ただ、自衛隊法制定にあたって、国民の再軍備への警戒、反発をうけ参院は「国民の熾烈(しれつ)なる平和愛好精神に照し、(自衛隊の)海外出動はこれを行わない」とする「自衛隊の海外出動を為(な)さざることに関する決議」(同年6月2日)を採択せざるをえませんでした。


イチからわかる憲法9条 2部 安保との攻防明文改憲
挫折を繰打返し断念
                        しんぶん赤旗 2026年
 警察予備隊保安隊自衛隊というなし崩しの再軍備が進行し、憲法9条との矛盾が大きくなるなかで改憲派が台頭しました。しかし9条を改悪するには、まずは衆参両院でそれぞれ総議員数の3分の2以上の賛成で改憲案を発議しなければなりません。その試みは挫折を繰り返しました。
 1954年12月、汚職事件によって倒れた自由党の吉田茂内閣に代わり、民主党の鳩山一郎内閣が誕生。鳩山首相は改憲を主張し、55年2月の衆院選に臨みました
 結果は、民主党が第1党になるものの、左派社会党が躍進し、労農党、日本共産党も議席を獲得。護憲勢力が改憲発議を阻止できる3分のの議席を獲得しました。
 この結果に危機感を抱いた米国と財界の強い要請のもと、55年月、改憲勢力の自由党と民主党が合同して自由民主党(自民党を結成。結党時の「政綱」で憲法改定と再軍備を掲げました
 しかし、自民党として初めて挑んだ国政選挙・56年参院選でも、続く58年衆院選でも、自民党は3分の2の議席を獲得できず、またしても、明文改憲への道は閉ざされました。
 こうした状況のもと、岸信介首相は、日米安保条約の改定を改憲の突破口に位置づけます。安保改定は、日米共同作戦を義務づけ、9条との矛盾を拡大するもの。岸首相の狙いは共同作戦の実行のため改憲を進めることでした。この路線を阻んだのが1960年の安保闘争でした。
 国民は歴史的な抗議運動を繰り広げ、数十万人が連日国会を包囲し、最高時には30万人を超えました。
 岸内閣は安保改定を強行するも総辞職に追い込まれました。引き継いだ池田勇人首相は「自民党が3分の2の多数を取ったからと言って直ち(憲法)改正しない」と表明せざるを得ませんでした。
 こうして自民党は明文改憲をいったん断念。解釈改憲による軍事大国化へと路線を変更したのです。


イチからわかる憲法9条 2部 安保との攻防3砂川事件判決
米政府と民衆の闘い
                        しんぶん赤旗 2026年3
 日米安保条約に基づく米軍駐留は憲法9条に反するものではないかということが裁判で正面から争われたのが砂川事件です。
 1955年、東京の立川米軍基地の拡張計画が浮上。米軍がジェット機を採用したことにより、滑走路の拡張が必要となったためです。政府は、周辺の砂川町の農地を土地収用米軍特別措置法の発動で強制的に取り上げ、拡張工事を進めようとしました。
 これに対し砂川の農民と町議会が抵抗し、労働組合や学生がごれを支援して激しいたたかいに。57年、土地測量強行に抗議した学生らが土地内に数m立ち入ったとして、国は米軍基地を守るための特別の重罰法規=安保条約刑事特別法を適用し7人を起訴。裁判では、刑事特別法の基礎にある日米安保条約の合憲性が問われたのです。
 東京地裁は59年3月、政府が米軍駐留を許しているのは、憲法9条2項が禁ずる「戦力の保持に該当するといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるもの」と断じ、それに基づく刑事特別法による刑は憲法31条に反しており、無罪としたのです。伊達秋雄裁判長の名をとって伊達判決と呼ばれます。
 岸信介内閣が安保改定を目指すなか「米軍駐留は違憲」との判決は内外に衝撃を広げました。安保改定反対闘争は盛り上が、日米政府は動転します。
 マッカーサー駐日米大使は藤山愛一郎外相を呼び出し、最裁への「跳躍上告」を勧めます。これが決まると田中耕太郎景局裁長官とも極秘に会談して圧力を加え、翌60年の安保改定に最判決で一審判決を覆す策略を相談しました。この事実は、解禁された米国公文書の調査(2008年)で明らかにされました。
 このもとで最高裁は1959年12月の判決で「(9条2項が)禁止する戦力とは、我が国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使しうる戦力をいう」として、駐留米軍は9条が禁止する「戦力」にあたらないと断定。一方で、安保条約は「我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を有する高度の政治性を有する」とし、「一見極めて明白に違憲」でない限り、「司法審査権の範囲外」だとしたのです。「統治行為論」と呼ばれ、安保条約は司法権の及ばない存在だとする口実に使われました。
 砂川闘争は、日米政府と民衆とのたたかいが憲法9条と日米安保体制をめぐるたたかいであることを多くの人に知らせました。


イチからわかる憲法9条 2部 安保との攻防恵庭、長沼裁判
平和的生存権を求めて
                       しんぶん赤旗 2026年7月4日
 自民党政府は9条明文改憲が挫折したもとで自衛隊の拡充を追求しました。これに対し、安保闘争の高揚をうけ、国民のたたかいが立ちはだかります。その一つが1960年代からの憲法裁判でした。
 62年12月、自衛隊演習で深刻な爆音被害を受けていた北海道恵庭市の酪農家が、抗議のために自衛隊の通信線を切断。自衛隊法違反で刑事告発、起訴されます。被告の酪農家は自衛隊法が9条に反すると主張、憲法裁判になりました。
 弁護団は、自衛隊統合幕僚会議が秘密裏に行った朝鮮半島有事の日本への影響や自衛隊の対処をシミュレーションした「三矢(みつや)研究」が65年2月に暴露されたのをうけ、その資料を示し、自衛隊の違憲性を主張しました。
 違憲判決が出るとの予想もありましたが、札幌地裁は67年3月、通信線は防衛器物にあたらないとして、自衛隊法の憲法判断を回避。被告の酪農家を無罪としました。「肩透かし判決」と呼ばれました。
 73年には、札幌地裁が裁判史上初めて「自衛隊は憲法違反との判決を出します。北海道長沼町の地対空ミサイル・ナイキ基地建設をめぐる長沼事件です。69年に国が地対空ミサイル基地建設のため同町の保安林指定を解除。住民が自衛隊は違憲として処分取り消しを求めました。
 一審の札幌地裁(福島重雄裁判長)は73年9月、有事の際には「第一に攻撃目標に」なるため、憲法前文が規定する「平和的生存権」が侵害されるおそれがあると指摘。自衛隊の組織、編成、装備、演習、訓練の実態を詳しく認定し「自衛隊は明らかに『外敵に対する実力的な戦闘行動を目的とする人的・物的手段としての組織体』と認められる」とし、9条2項が保持を禁ずる「戦力」にあたるとしました。自衛隊が違憲であると判示し、処分を取り消します。
 二審は76年8月、一審判決を破棄し、高度に政治的な国家行為は憲法判断をさけるという「統治行為論」で憲法判断を避けました


イチからわかる憲法9条 第2部 安保との攻防(5)沖縄返還
平和求める県民の希望
                       しんぶん赤旗 2026年7月5日
「沖縄が本土復帰をしたいと思ったのは、日本に平和憲法と9条があったから」。1972年の沖縄本土復帰当時からの県民の共通の思いです。
 沖縄戦で甚大な被害を受けた沖縄は、その傷も癒えないまま本土から切り離され、無権利状態に置かれます。過大な基地負担や「銃剣とブルドーザー」と呼ばれた武力による土地収奪、米兵による犯罪も多発し、罪を犯した米兵を沖縄で裁くこともできないなど、人権も自治も踏みにじられました。そのなかで、日本国憲法が掲げる「基本的人権の尊重」や「戦争放棄」の理念は、沖縄の人々に希望を与え、「平和憲法への復帰」が復帰闘争のスローガンになりました。
 復帰直前の71年、琉球政府の屋良朝苗主席(当時)は、日本政府に「復帰措置に関する建議書」を示します。建議書の柱は「反戦平和」「県民本位の沖縄」の希求にあります。沖縄戦と米軍軍政を経験した県民は「世界の絶対平和を希求し、戦争につながる一切のものを否定」すると宣言し、「平和憲法下での基本的人権の尊重」と「核ぬき・本土並み」の実態を伴った「基地のない平和な沖縄への復帰」を実現するよう訴えています。

 基地のない平和で豊かな沖縄をめざす県民の願いは、本土復帰を実現させました。しかし、復帰から50年以上たった今も、普天間基地をはじめ米軍の巨大基地が存在し、さらには自衛隊が増強されるなど日米両国による沖縄への軍事負担はむしろ増加しています
 玉城デニー知事は今年5月3日の憲法記念日談話で、憲法前文がうたっている平和的生存権に言及し、今なお続く過重な基地負担を解消していくためには、「憲法の理想を達成するためになにをするべきかを、諦めず、粘り強く探求していく必要があるのではないでしょうか」と問いかけました。