2025年6月5日木曜日

防げた被害 国が拡大 新潟水俣病 公式確認60年

 阿賀野川流域で、旧昭和電工鹿瀬工場のメチル水銀を含む工場排水により汚染された川魚を多く食べた住民らが有機水銀中毒となった新潟水俣病の悲劇は、1965年の公式確認から5月31日で60年になりました
 チッソ(新日本窒素)水俣病もそうでしたが、新潟水俣病は国が正しく対応していれば防げた被害でした。大元であるチッソ水俣病は1956年に公式確認され、1959年には熊本大学がチッソ水俣工場から排出されたメチル水銀が原因で発生したことを突き止めました。
 しかしチッソはその事実を認めず国も放置したため、有機水銀に汚染された水俣湾の魚介類を食べ続けた住民らから膨大な水俣病患者が発生しました。
 メチル水銀は、有機化合物の基材となるアセトアルデヒドをアセチレンから生成させる際の「触媒」として用いられる無機水銀が変化して生成されます。チッソは当初「無機水銀が有機水銀(メチル水銀)に変わることはない」と頑強に否定し、日本化学工業協会が東大教授らで組織した通称「田宮委員会」が、「メチル水銀起因説」を否定したことなどで政府も対応を遅らせました
 結果的に当時隆盛に向かいつつあった重化学工業の中心企業であったチッソが保護された一方で、推定20万人とも40万人とも言われる膨大な数の水俣病患者が生み出されたのでした。水俣病が「官製の公害病」と言われる所以です(田宮委員会の田宮猛雄は亡くなる前、熊本大学研究班に圧力を加える結果となったことについて、人を介し、研究班長の世良完介に謝罪しまし

 昭和電工鹿瀬工場はチッソに比べると遥かに小規模で、アセトアルデヒド製造が主要な製品だったため工場排水の採取は容易で、工場排水口の苔からメチル水銀を採取することができました。これは画期的な出来事で弁護団の努力と担当裁判長の英断が相俟って、一次訴訟では患者側が完全勝利を勝ち取り(地裁判決で確定)それなりの補償も獲得できました。
 それに対してチッソ水俣工場はきわめて巨大で、アセトアルデヒド工場排水はそのごく一部に過ぎないこともあって、排水中から有機水銀を採取するのは困難でした。そうしたこともあって新潟水俣病訴訟に後れを取ることになりました。
 ではすべてが万々歳であったのかというと、国は補償対象者を減らすためにその後、水俣病認定基準を、「複数の症状がなければ水俣病と認めない」という患者切り捨ての基準に変えて、その後に提起された訴訟においては、補償を受けることが出来た患者は実際の「数十分の1」に抑え込まれました。
 水俣病に関しては患者数を膨大化させた責任は挙げて政府にあるにもかかわらず、政府は徹底して患者の救済を避けてきました。水俣病の悲劇を起こした責任は偏に国にあります。

 しんぶん赤旗に掲題の記事が載りました。「防げた被害 国が拡大」というタイトルは、そのことを批判するものです。
 同紙には、新潟水俣病発見直後から水俣病患者の診察を続け、被害者救済のために現在も声を上げ続けている医師の斎藤恒さん(94)思いが語られています。
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防げた被害 国が拡大 新潟水俣病 公式確認60年
                        しんぶん赤旗 2025年6月3日
 新潟県阿賀野川流域で、旧昭和電工鹿瀬工場(現阿賀町)のメチル水銀を含む工場排水により汚染された川魚を多く食べた住民らが有機水銀中毒となった新潟水俣病。1965年の公式確認から、5月31日で60年になりました。発見直後から水俣病患者の診察を続け、被害者救済のために現在も声を上げ続けている医師の斎藤恒(ひさし)さん(94)に思いを聞きま
した。            (新潟・伊藤誠)

発見時から診察続ける医師斎藤恒きん(94)
 熊本で水俣病が発生した時(1956年)に、行政が魚の流通を制限できる食品衛生法を適用し、しかるべき処置をとっていれば新潟水俣病は防げたのです。国は、水俣湾や阿賀野川流域では多くの調査をしましたが原因と疑われる工場への立ち入り検査を一切行わず、発生源の特定が遅れました。工場排水の規制もせず、被害を拡大させた国の重大な過ちです。
 そして、熊本でも新潟でも漁民に何の補償もせず、漁獲の自粛しか求めなかったことも大きな誤りでした。阿賀野川流域には当時、約2000の漁師がいました。「魚を取るな」と言われても、ほかに収入はありません。そうしたもとで「自分たちの地域から患者が出たら魚が売れなくなる」と症状を隠し、被害や差別が広がりました。

狭い認定基準
 65年当時、私は新潟市にある新潟勤労者医療協会 (勤医協)の沼垂(ぬったり)診療所にいました。夜勤を担当する新潟大学の医師から、「同質野川下流域で有機水銀中毒患者が見つかった。川魚が原因のようだ」と言う話を聞き、大変なことが起きたと驚きました。
 その後、多くの患者が診療所に来ました。新潟から水俣病を研究する医師を派遣してもらい、診療所が診療・調査の拠点になりました。
 新潟が行った発生地域の全住民の訪問調査で、水俣病と判定された26人の患者のなかには、「感覚障害のみ」など、現在裁判で認定を求めている原告と同程度の症状の人も含まれていたことは重要です。
 国は、公害健康被害補償法(公健法)による患者認定を行いましたが、77年に基準を厳しくしました。感覚障害や運動失調などの症状が二つ以上ないと認定しないとされ、水俣病認定の棄却件数が急増しました。これが60年も、水俣病の解決が進まない要因になっています。医学的・科学的な診断が、政治的にゆがめられたと怒りを覚えました。
 水俣病患者77人が旧昭和電工に慰謝料を求めた新潟水俣病第1次訴訟(1967年)から支援に加わり、箇呂に立ってきました。勤医協や労働組合が患者支援組織「新潟県民主団体水俣病対策会議」を結成し、私もその議長として何度も県交渉を行いました。

食品衛生法で
 いまは、症状があっても認定されない被害者が県を相手に行政認定を求める裁判に参加しています。家族に認定を受けた患者がいて同じ症状があるのに、認定を受けられない人がいま
す。
 水俣病は、医師が診断しても公健法に基づいて自治体が設置する審査会で患者かどうかを判断します。こんなことは、食品衛生法ではありえません。私たちは、食品衛生法に基づき患者を確定して、加害企業が補償するべきだと当たり前のことを求め続けています。