2025年6月19日木曜日

膳場貴子・浜田敬子・藻谷浩介の備蓄米論のバイアス-マルクスの「存在は意識を規定する」

 世に倦む日々氏が掲題の記事を出しました(バイアス=偏向)。
 同氏はコメ高騰問題について、5月19日~6月18日の30日間に6編の記事を出していて、5月31日以降は「小泉備蓄米」に特化して4編を出しました。
 因みにその6編は下記の通りです。
  ・コメ価格高騰と「オリエント急行殺人事件」- ~ (5/19)
  ・おぼろげながら浮かんできた”闇米”の真相と将来モデル- ~ (5/24)
  ・小泉劇場化する進撃の備蓄米プロジェクト- ~ (5/31)
  ・国民の生活が第一ではないのか- ~ (6/7)
  ・備蓄米に並ぶ人々に冷淡な貴族リベラル- ~ (6/12)
  ・膳場貴子・浜田敬子・藻谷浩介の備蓄米論のバイアス- ~ (6/18)

 本編では自民党が選挙のために「小泉劇場」に「電通の演出」を絡ませたのでは という考察から入っています。批判しないのは、それによって「小泉劇場」が定着するのなら良いのではと考えているからでしょう。
 当初、コメ販売システムに関わっている筋から、「コメの高騰は農家への応援になる」という視点で肯定する論調がありましたが、「小泉劇場」はそれを粉砕し5キロ2000円が可能であることを証明しました。これまで繰り返してきたように、「食糧安保」と「コメの生産で農家が自立」できる道への「政治」こそが今後のテーマであることはいうまでもありません。
 3年前まで5キロ1200円だったコメが急に4200円に高騰して良いわけがありません。一体 食べ盛りの子供たちを抱えるシングルマザーに「どうして生きよ」というのでしょうか。非正規労働者や通常の年金生活者も同じです。
 世に倦む日々氏は前回の「備蓄米に並ぶ人々に冷淡な貴族リベラル- ~」に続いて、高所得者である「評論家」たちには「現在のコメ価格が高すぎるという感覚がなく、高騰したコメ価格に庶民が悲鳴を上げているという視点がなく、むしろ不当なのは無理に政府権力を動員してコメ価格を引き下げている小泉進次郎であると見ている(要旨)」と批判します。
 そして、そうした弱者無視の感覚は「存在は意識を規定する」という名言を思い出させると述べ、評論家たちは、「公平・公正・正確な情報の発信に努め、報道機関としての使命を果たす」というメディアの行動憲章に沿うべきだと批判します。
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膳場貴子・浜田敬子・藻谷浩介の備蓄米論のバイアス ー マルクスの「存在は意識を規定する」
                       世に倦む日々 2025年6月18日
先週(6/8-15)のヤフーニュースでは、全国各地での小泉備蓄米の販売開始を告げるローカル局の映像記事が連日上がっていた。これだけ毎日ワイドショー等で情報漬けにされると、近所でいつ流通に出るのか誰もが気になるし、自分の町はまだだろうかと順番と日程を焦るのは当然だろう。前回、ヤフーニュースが並べる地方紙・地方局の備蓄米報道は、ヤラセや仕込みの要素は一切ないはずだと書いたが、一週間延々見せられ続けると印象が少し変わってくる。気づくのは、各地方局が撮って流す備蓄米の取材映像が、判で押したように同じ構成であり、同じ絵柄であり、同じメッセージだという点だ。行列を撮り、販売場面を撮り、購入客の感想を撮り、小売店のマネージャーのコメントを入れている。その内容(コマ設計)が計ったように全部同じで、やはり何らかの作為性を感じざるを得ない。無論、購入客はサクラではなく、発言はセリフではないけれど

どうやら、ニュース映像には共通のマニュアルがある。ガイドラインに沿って企画と撮影と編集が行われている。と、私は想像するが、仮にそうだとしたら、マニュアルを作成して各地方局報道部に配布したのは、やはり電通ということになるだろう。そう舞台裏を推測すれば、全地方局の備蓄米ニュースがどこの映像も無個性的で、複製したように同一仕様である理由がよく納得できる。なるほどと思う。前から指摘を重ねたように、この小泉備蓄米プロジェクトは、コメ価格高騰で苦しむ国民を救う経世済民策であると同時に、7月の参院選を自民党勝利に導くための選挙対策プロモーションである。そして、このオペレーションの中枢には電通がいる。電通の臭いがプンつく。だから、電通らしく、動きがテレビ・オリエンテッド⇒指向なのだ。この政策活動の第一の目的が選挙であり、7/20 がゴールだから、そこへ向けて戦略全体を設計し、日程を管理して効率的に動いている

6/8-14 の週に全力集中したのは、地方テレビ局での小泉備蓄米ローンチ⇒立上げの宣伝であり、全国各地でプリファレンス⇒優先権を獲得するCM的な作戦手法だった。選挙区は全国にある。票は全国で取らないといけない。どこかの地方が備蓄米販売で遅れたとか、放ったらかしにされたという瑕疵や遺漏があってはいけない。電通と小泉進次郎は入念にプログラムし、6/14 には徳之島や喜界島、宮古島や石垣島など離島まで隅々行き届かせ、その絵をテレビで周知させていた。全国47都道府県すべてで小泉備蓄米の販売を実現した。無論、数量的にはまだまだ微々たるもので、単に象徴的なスタートが始まったばかりだ。小泉進次郎は 6/6 の時点で「今月下旬から来月にかけて相当量が市場に出回る」と明言していた。間もなく今月下旬のタイミングとなる。参院選の公示は 7/3。今後、どれほど精米業者の設備と工程を押さえ、随契米を割り込ませ、農協・卸との角逐に勝って行くかが課題となる

6/15 のサンデーモーニングでも、膳場貴子浜田敬子が小泉備蓄米政策を牽制するコメントを繰り出し、市場をじゃぶじゃぶにしたら価格が下がって生産農家が困るという趣旨の批判を発していた。相変わらず、膳場貴子と当番組のコメンテーターには現在のコメ価格が高すぎるという感覚がなく、高騰したコメ価格に庶民が悲鳴を上げているという視点がない。多くの国民が、1年間でコメの値段が2倍に騰がるのは不自然だと思っていて、そこに流通の不当な作為が介在している事情を疑っているが、彼らはそのことを理解していない。膳場貴子らにとって、むしろ不当なのは、無理に政府権力を動員してコメ価格を引き下げている小泉進次郎であり、生産農家の利益を強引に削って、国民に安いコメをばら撒いて歓心を買い、見え見えの劇場演出手法で支持率を上げ、選挙で勝とうとしている自民党らしい。膳場貴子や浜田敬子の正義はそこにあり、彼女たちは自分が正義だと確信している

おそらく、番組の放送前にスタッフや松原耕二らと議論の場を持ち、認識を共有し、メッセージを固めているのだろう。膳場貴子や浜田敬子や松原耕二らが協議すれば、コメ問題の論点と基調は自ずから進次郎叩きの方向性になるだろう。政治的ポジショントークであり、その動機は分かる。だが、理解できないのは、物価高で呻いている非正規や年金生活者が多数いるのに、その存在と現状が彼らの視野に入っておらず、コメ価格引き下げを政治に求めている国民の意思を過小評価している点だ。彼らの中には、明らかに庶民層を無視し矮小化するバイアス⇒偏向)がある。私は前回記事で、清少納言の枕草子の農民への差別意識を引き合いに出し、膳場貴子らの貴族的視線を浮き上がらせる比喩の構図化を試みた。膳場貴子らにコミットするリベラル左翼には、意地悪な指摘に見えたかもしれないが、問題はとても根深いように思われてならない。彼らの目からは、逆に、コメ価格引き下げを求める民衆や小泉備蓄米に並ぶ庶民の方が、無知で愚劣で利己的な蛆虫的輩として見えるのだ

その視角は、給付金や消費減税の政策に対して一貫して「バラマキ」の語で貶め、その意義を認めず否定する態度と通底している。彼ら自身には、食料品消費税率8%(年間4万円)など何の痛痒でもなく、コメ価格が2000円から4200円に上がった負担増(年間2.6万円)など、どうってことない取るに足らない問題に違いない。それぐらい我慢したらどうなのよというのが本音で、農家さんの方が大変なんだから、みんなで広く薄く分かち合って助けましょうよと本当は言いたいのだろう。同じ東大系貴族リベラルの藻谷浩介が、6/12 の報道1930で隠さず正直に本音を述べていた。コメの値上がり分など、彼らの生活上何の切実さも実感できない事象なのだ。実感できず、内在する想像力も及ばず、想像力を及ぼす意味さえ分からない問題だから、雑音に聞こえるのである。雑音を聞くのが嫌だから、視野の外に置こうとし、困窮する大衆の主張の政治的意義を正しく認めようとしないのだ

そして、この問題で同じ見解の(準富裕層の)仲間を周囲に集め、自分たちの意見と判断が正しいと再確認するのである。貴族リベラルのその言説と態度は、ネットの5ch のリバタリアン右翼と類似している。4200円のコメが買えないんだったら雑草を食っとけという論理と本質的に同じだ。とても問題の根が深い。深刻だと感じる。このところ、格差社会とか貧困という批判語のキーワードを聞く機会が少なくなった。20年前は喧々諤々で議論していたが、すっかり沙汰止みで消えてしまった。それらの言葉が提示し告発する貧富の差や不平等の社会矛盾に対して、マスコミだけでなく全体がセンシティブでなくなり、矛盾を矛盾として捉える意識が後退した。それは裏返しとして、ネオリベ⇒新自由主義)やリバタリアニズム⇒自由至上主義)の思想が全面化し、社会の支配的思想になり、常識の観念のコアになったことを意味する。堀江貴文的な、富裕者と貧乏人とでは社会的権利に差をつけるのが当然という考え方に染まった

倫理観がなくなった。そのことが、私がサンデーモーニングのコメ問題のコメントに拘って批判する理由である。膳場貴子や浜田敬子や松原耕二の倒錯を見ながら念頭に浮かぶのは、マルクスの「存在は意識を規定する」というシンプルな至言だ。貴族リベラルの存在と空間は、嘗てはそんな呼び名は相応しくないほど、一般大衆の居住空間と接近していたはずで、所得は違っていても、発想や認識をよく共有できていたはずだ。むしろ、筑紫哲也はインテリとして国民の意見を代弁していた。今は、貴族リベラルと一般大衆とは物理的空間が隔絶していて、生活実感が異なり、関心や話題や認知が違いすぎる別人種になってしまっている。堀江貴文や西村博之の思想の病原菌が、膳場貴子や松原耕二の内部に感染し、浸透し、低所得層への見方と評価をネガティブ⇒否定的)に共通にさせている。それは、彼ら富裕層の歪んだエリート意識の裏返しでもある。マルクスは、資本論第1巻24章でこんなことを言っていた

この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、原罪が神学で演ずる役割とだいたい同じようなものである。アダムがりんごをかじって、そこで人類の上に罪が落ちた。この罪の起源は、それが過去の物語として語られることによって、説明される。ずっと昔のあるときに、一方には勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方にはなまけもので、あらゆる持ち物を、またそれ以上を使い果たしてしまうくずどもがあった。とにかく、神学上の原罪の伝説は、われわれに、どうして人間が額に汗して食うように定められたかを語ってくれるのであるが、経済学上の原罪の物語は、どうして少しもそんなことをする必要のない人々がいるのかを明かしてくれるのである。

それはともかくとして、前の話にもどれば、一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分の皮のほかには何も売れるものを持っていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働しても相変わらず自分自身よりほかには何も売れるものを持ってない大衆の貧弱と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大してゆくのである。こんな愚にもつかない子供だましを、たとえばティエール氏は、嘗てはあんなに才智に富んでいたフランス人に向かって、所有権の擁護のために、まだ大まじめに言って聞かせるのである。

ところが、ひとたび所有権の問題が舞台に現れれば、この子供用読本の立場をどんな年齢にもどんな発育段階にも適する唯一の正しい立場として固持することが、神聖な義務になるのである。現実の歴史では、周知のように、征服や圧制や強盗殺人が、要するに暴力が、大きな役割を演じている。おだかやかな経済学でははじめから牧歌調がみなぎっていた。はじめから正義と「労働」が唯一の致富手段だった。といっても、もちろんそのつど「今年」だけは例外だったのであるが。実際には本源的蓄積の諸方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではないのである。

ここでマルクスが言っている「自分自身よりほかには何も売れるものを持ってない大衆」のことを、プロレタリア(無産階級)と呼ぼう。最近の人文社会系の学問や評論では、この言葉は死語になってほとんど聞く機会がない。が、社会の現実や実態においては、かかる無産庶民の人々は膨大にいて、一つの大きな経済階を構成し、独自の論理と利害を持った社会的存在であることは間違いない。非正規労働者や年金生活者が該当するだろう。小泉備蓄米に並んでいる人々は、この階層に属するはずだ。膳場貴子や浜田敬子や松原耕二や藻谷耕二のコメ問題の言い分は、あまりにこの階層の実在と論理を無視し、そことは遠い距離の地平から発信されていると言わざるを得ない。TBSは「私たちは(略)公平・公正・正確な情報の発信に努め、報道機関としての使命を果たします」と行動憲章で誓っている。サンモニのコメ問題のコメントは、この精神に沿わず、一部の高所得者の認識に偏っているのではないか。マスコミ全体がそうなっていて、貴族目線の報道がされているように思う