世に倦む日々氏が年末に掲題の記事を出しました。
一つは、元日の能登半島地震(東日本大震災に匹敵)時における政府の不作為の問題で、かつて(20年以上前)は土砂崩れで住民が埋まったとき、若い自衛隊員が雨の中、徹夜でスコップを振るい、土の中から生存者を救出する感動の場面があったが、安倍政権のときから災害時の人命救助をやらなくなり、自衛隊の本旨は「国の防衛=中国と戦争する軍隊(米軍の二軍)」にあるとされて、被災者への救援物資の配給や仮設風呂の提供などに限定されました。
世に倦む日々氏は、「官邸のHPによると自衛隊員の派遣数は、1/1 の初動は1000人だが、1/4 から活動人員を2000人にするとある」などと克明に派遣数を調べ圧倒的に少なすぎると指摘しました。
しかし、実際に自衛隊で実働したのは1/13 まででわずか760人でした。後は推して知るべしです。
⇒(24.1.08)救出活動やる気がない自衛隊と岸田官邸 なぜ施設科を本格投入しないのか
(24.1.10)陸自普通科は3連隊のみ、消防も活動規模を増やさず 政府の不作為
もう一つは松本人志事件で、これは5億円余りの損害賠償請求を松本側が11月になって取り下げて決着となりました。これでもしも松本が公然と芸能界に復帰するようなことになれば松本側の勝ちになってしまったのですが、12月になって、週刊文春によって突如「中居正広」問題が明らかにされたことで、松本人志事件の騒動が再現される格好になりました。
そしてどうやら中居正広の事件は松本人志の事件と繋がっていて、「松本人志の汚い性的トラブルの渦中に加害側の一人として中居正広が登場する可能性が示唆されている」として、「週刊文春と松本人志との間の死闘は終わったわけではなく続いているし、フジテレビの性上納システムで美味い汁を吸ったのは果たして中居正広だけなのか。ジャニーズでも類似の問題が存在したが、性上納システム(という女性の人権を蹂躙する悪質な商慣習)を回していたマスコミは、フジテレビ一社だけなのか」と、世に倦む日々氏は問題提起しています。
中居による犠牲者は決して一人ではなさそうで、フジTVに代表されるメディアの闇は深そうです。
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2024年を振り返る - 能登半島地震と松本人志事件
世に倦む日日 2024年12月29日
能登半島地震と棄民
元日(2024.1.1)に能登半島で震度7の大地震が発生。帰省した家族も含めて一同が実家に揃い、正月の宴を囲んで憩う場を地震が直撃した。関連死を含めて石川県だけで456人が死亡している。また、9月21-22日には震災の被災地を豪雨災害が襲い、一年の間に二重の激甚災害に見舞われる不幸となった。日本の一つの地域が、畳みかけるように続けてかく厳しい運命に遭遇するのを見るのは初めてで、気の毒で言葉もない。今から一年前になるが、能登半島地震に直面して二つの記事を書いた。その中身は、自衛隊の不作為に対する告発 と 政府の棄民政策に対する批判である。そして、不作為と棄民が目の前で冷酷に進行しているのに、それを指弾するどころか、逆に隠蔽して正当化し、棄民政策遂行の機構的一部として加担しているマスコミに対する憤激を書いた。記事を二つ上げ、もうそれ以上何も言うことができなくなり、細部に関心を向けられなくなった。
年をとり、精神に粘りがなくなったのかもしれない。テレビのキャスターたちは、震災3日目には現地に入り、輪島の朝市の焼け跡付近をぶらぶら歩いていた。珠洲市街も自由に闊歩・散策していた。まるで物見遊山している如くだった。そうしながら、道路が悪くて自衛隊が入れませんと現地から言い、来る日も来る日も、道路が寸断されていて自衛隊の救出活動を阻んでいますとワイドショーで繰り返していた。この連中の精神構造はどうなっているのだろうと、一年前も思ったし、今も訝り続けている。自衛隊が入れない場所に、なぜテレビ関係者が東京から大量に日帰り取材できるのだ。精鋭の工兵部隊を擁する陸自が活動展開できない難所に、なぜ撮影クルーが立ち入りし自在に往来できるのだ。その基本的疑問は、未だ誰からも発信されていない。公論化されていない。そして、能登半島地震の検証と総括において、〝棄民政策”という本質的キーワードが前面に出ない。
倒壊家屋から被災住民を救出するような活動は、自衛隊では陸自普通科(歩兵)が担当する。その普通科隊員が、能登地震では 1/1 に1000人の出動が指令されたきり、1/2 以降は増派されてない。記事にも書いたが、東日本大震災のとき(菅直人)は、初日で8400人が派遣され、2日後には5万人が動員されていた。私は政府資料のPDFで自衛隊の救助活動を追跡していたが、1/1 に出動指示された1000人というのも、実際に現地で動き始めたのは 1/2 から細々とであって、1/3 以降は普通科の追加が行われていない。政府は、空自と海自の航空隊の支援参加を〝膨らし粉”として計上し、アリバイ的な数字を作って、1/4 に2000人、1/5 に4600人と公表して世間を瞞着していた。今回、wiki を確認して驚いたが、直接救助要員として自衛隊で実働したのは、1/13 まででわずか760人だったとある。救出現場で手作業した普通科隊員は、わずか760人きりだったのだ。
とんでもない事実だが、国会で追及され糾弾されたという話は聞かない。私は、二本の記事を野党の誰かが読み、国会質疑で応用してくれるものと期待していた。文章を読み上げるだけで委員会質問として十分な内容になる。数字は内閣府がPDFで上げた公表証拠であり、政府がどういう答弁を返すか興味深い。テレビ中継されれば、あるいはその質疑部分をマスコミが切り取って報道すれば、事実を知った国民は驚いただろう。国民が想定していた自衛隊の救助活動と、実際の規模とがあまりに乖離しているからだ。真実は、政府は災害救助に自衛隊は使わないのであり、自己責任なのだ。消防緊急援助隊も、警察災害派遣隊も、形だけで中身はスカスカであり、理念と目標どおり整備されていない(能力がない)のだ。災害救助は、現地自治体の消防と警察が自前の能力でやるしかなく、政府は全国に「共助」を呼び掛けるだけなのだ。だからNHKが「共助」ばかり無闇に報道するのである。
発災から一年となる今、マスコミがやらなくてはいけないのは、4/3 に起きた台湾東部沖地震の被災地の現状と、輪島や珠洲の現状との比較を可視化する報道だろう。花蓮の市街地は今どうなっているのか、村瀬健介や下村彩里が現地を歩き、復旧復興の進捗状況をレポートすることだ。台湾当局の災害対応は実に素早く、先進国のお手本のような救助と救援の姿を見せていた。発災から4時間後に避難所が開設され、個室テントが整然と張られ、行き届いた食事配給がサポートされ、能登とのコントラストに衝撃を受けたものだ。能登では年の瀬の今に至っても9つの避難所に41人が避難生活を余儀なくされている。また、集中豪雨で被害を受け、今も避難所暮らしを強いられている住民が316人いる。花蓮はどうだろうか。輪島の倒壊ビルは9か月以上経ってようやく解体が始まり、今も撤去工事が続いているが、花蓮の9階建てのビルはすぐに解体作業が始まり、あっと言う間に更地になった。
もう一つ。憤って思う点として、政治家たちの欺瞞的な能登震災利用がある。与党も野党も被害に関心がなく、現地に入って救済する熱がなかった。世論を興す努力をしなかった。今回の震災ほど被災地と被災者が長く放置され、復旧政策の手が入らなかった例はない。ところが、8月中旬、岸田文雄が失脚して総裁選と代表選と衆院選の政局になった途端、政党幹部たちが防災服に身を固め、マスコミのカメラを引き連れて行脚のパフォーマンスに精を出すのである。我も我もと大名行列が始まった。被災地を出汁にして、てめえの選挙に宣伝利用するべく、8月、9月、10月、11月と、延々と能登詣での政治が続いた。その間、Xでは、正月以来何も手つかずだと告発する現地映像が投稿され続けたのだが、何か改善の契機となる政治の動きはなかった。資材と人手がないのだとマスコミは連呼し、政治の不作為を正当化し続けた。それなら大阪万博から回せばよく、万博を延期か中止にすればいい。
だが、そういう具体案を8月以降の政局で政策争点に立ち起こす者はなく、復旧救済のプランを、金額と工数を入れて説得的に提示する政治家はいなかった。立憲民主党も - 野田佳彦は明確にそうだが - 自民党と同じで棄民路線なのである。党の基軸方針は新自由主義であり、過疎の被災地は自己責任で切り捨てなのだ。その証拠に、例えば、野田佳彦は防災庁設置に(屋上屋だと)反対している。
松本人志事件の騒動
今年、最も多く記事を上げたのはこの問題に関してで、1/16 から 2/9 まで6本の記事を書き散らした。その間、ずっと週刊文春を購読し続けた。一年前の年末に文春の記事が出た後、1/22 に松本人志が文春を提訴し、その後複雑な経過を辿ったが、11/8 に双方が合意して松本人志が訴えを取り下げる展開に至った。この決着は意外であり、予想外の事態である。週刊文春と被害者を応援する目的と動機で言論してきた立場として、梯子を外された気分で後味が悪い。被害女性は誌面に幾度も登場し、必ず裁判に出て証言をする、その覚悟がある、包み隠さず真実を述べて司法の判断を仰ぐと明言していた。一人だけでなく、複数の被害女性がそう決意を述べていた。途中で発生した悶着の材料からも、松本人志の不利はますます確実になっていて、文春側には余裕の勝利が待っていた。法的には松本人志は絶体絶命で、間違いなく敗訴し、芸能人としての生命が絶たれる結末に向かっていた。
訴えを取り下げたのは原告の松本人志だが、取り下げ決着で合意してくれと頭を下げたのは松本人志側である。被告側の週刊文春と被害女性が合意しなければ、裁判はそのまま継続され、文春側勝訴の判決になっていた。なぜ文春と女性側が取り下げに合意したのか、文春のコメントを読んでもよく分からないし、ワイドショーでのブルシット(⇒デタラメ)な解説を聞いても腑に落ちない。文春は「この取下げに際して、金銭の授受等が一切なかったことは、お知らせの通りです」と説明している。が、これを文面どおり第三者が了解するには、双方でどういう交渉があったか具体的に開示してもらう必要があるだろう。もしも本当に松本人志から慰謝料支払いがなかったとすれば、一体、被害女性たちは何に納得して裁判をやめたのか。松本人志のコメントには、「女性の中で不快な思いをしたり心を痛めたりした方がいれば、率直におわび申し上げます」という表現がある。すなわち、これは謝罪ではない。
菊間千乃も「謝罪ではないと思う」と言っている。自らの非を認めた態度ではなく、事実上の開き直りを形式的な regret - 遺憾表明 - にしてお茶を濁す構文だ。謝罪ではない。そのことは、当の被害女性たちが最もよく分かっている事実だろう。しかし、これを受け入れて裁判を終了させた。女性側に何が得られたのか、全く分からず、裏で金銭が動いたとしか解釈できない。本来ならば、この松本提訴の訴訟で文春側が勝ち、続けて文春と被害女性が松本人志を提訴して、正式に慰謝料を勝ち取るというシナリオが筋である。それが法の正義が実現した理想形であり、正しい解決方式だ。そうならず、文春と被害女性側が折れて引き分けた形になっている。私は裏で金銭が動いたと見るが、仮にそうだったとして、その選択をせざるを得なかった理由があるとすれば、やはりこの訴訟が精神的に負担が大きすぎたからに違いない。
松本人志を復権させたい勢力や愚衆が多く、誹謗中傷を受け続けるリスクがあり、裁判の途中で次に何が起きるか分からない。その重圧と恐怖があった所為だろうと思われる。残念だなと歯噛みしていたら、突然、中居正広の事件が発生した。最初に報じたのはポストセブンだが、週刊文春も積極的に暴露記事を書き始め、一年前に炸裂した松本人志事件の騒動が再現される格好になっている。そしてどうやら、中居正広の事件は松本人志の事件と繋がっていて、松本人志の汚い性的トラブルの渦中に加害側の一人として中居正広が登場する可能性が示唆されている。週刊文春はそれを踏まえた上で、つまり、年末から中居正広の事案が始まる展望を見据えた上で、松本人志との直接対決の裁判を手打ちに収めたのではないか。中居正広の醜聞が噴出すると、必ず連動して、松本人志に火の粉が降りかかる趨勢にならざるを得ない。週刊文春と松本人志との間の死闘は終わったわけではなく続いている。
松本人志が復権して従前のようにテレビに出演し、何事もなかったかのように毒を吐いて信者を喜ばせる図が復活すれば、松本人志の勝ちであり、週刊文春の負けだろう。ジャーナリズムの正義のペンの屈服と敗北に他ならず、文春は単に部数を売って金儲けしただけという無意味でぶざまな結果に終わる。そこへ導かないためには、週刊文春は松本人志の復権を全力で阻止し、引退確定へ追い込まないといけない。中居正広の騒動の広がりは、芸能マスコミ界に宿痾として存在する〝性上納システム″への批判的再認識を呼び起こすに相違なく、松本人志に対する世間の目を厳しくし、松本人志を擁護して復権を手助けする関係者の環境をタイトにするだろう。フジテレビの性上納システムで美味い汁を吸ったのは、果たして中居正広だけなのか。ジャニーズでも類似の問題が存在したが、性上納システム(という女性の人権を蹂躙する悪質な商慣習)を回していたマスコミは、フジテレビ一社だけなのか。
2025年は、そうした問題に注目が集まる年になるだろう。以上。国内政治と国際政治についてはまた別途