2025年1月4日土曜日

「注目の人 直撃インタビュー」 袴田巌さんの姉 ひで子さんに聞く

「死刑囚」から再審によって一転無罪を確定(2024年)した袴田巌さんの姉 ひで子さんに、日刊ゲンダイがインタビューしました。どうぞお読みください。

 袴田巌さんは逮捕されてから死刑が確定したのち2014年の再審開始で仮釈放されるまで、48年間収監されていました。その間の筆舌に尽くしがたい精神的苦難は如何ばかりだったでしょうか。
 検察(と警察)及び一審・高裁・最高裁の判事らの不明は大いに愧じるべきです(一審を担当した判事三人のうち無罪を主張した一人は、後に判事を辞めました)
 また巌さんが逮捕された当時 静岡県警には紅林某という刑事がおり、犯人検挙で何度も表彰されましたが、その実態は過酷な拷問による不実の自白でした(紅林は後に「冤罪王」「昭和の拷問王」と呼ばれました。巌氏の取り調べには関与しなかったものの、同様な拷問手法は既に内部で伝わっていたようです)。

 日本における再審の道は余りにも細過ぎ、被告に有利な証拠は検察が隠匿でき、人質司法は全く改まらず…という「中世の司法」状態はいつになったら改善されるのでしょうか。
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注目の人 直撃インタビュー 袴田巌さんの姉ひで子さんに聞く
58年間“見えない敵”と闘い続けた不屈の精神の源泉は「ガムシャラ」
                         日刊ゲンダイ 2024/12/28

袴田ひで子さん(袴田巌さんの姉)
「私も巌も運命だと思っています。無罪が確定して、今は大変喜んでいます」──。袴田巌さん(88)の姉ひで子さん(91)は、謝罪に訪れた静岡地検の山田英夫検事正に対し恨み言は一切口にしなかった。逮捕から58年、死刑確定から44年あまりが経過した今年9月26日、静岡地裁は捜査機関の証拠捏造を認定し、「無罪判決」を言い渡した。あまりにも長かった国家権力との闘い。つらく苦しかった過去と、自由を取り戻した今の気持ちを聞いた。
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──91歳とは思えないタフさと若々しさですね。

 毎朝30分間、ストレッチをしています。52歳で始め、以来40年間一日も欠かしていません。拘置所に面会に行くでしょう。足腰が弱っちゃいかんと思って、それで始めました。続けてやることで効果がある。おかげさまでシャキシャキしていますよ。

──希望の光が見えたのはいつですか。

 2014年に静岡地裁が再審開始を認める決定をした時です。地裁は<これ以上、拘置を継続することは耐え難いほど正義に反する>として死刑判決は誤りだったと認めました。検察庁が何を言おうが、屁でもなかった。無罪になると思って闘ってきましたから。

──謝罪に来た静岡県警本部長や検事正に、文句ひとつ言いませんでした。

 当事者でもいればまた話は別ですが、今さら昔のことを言ったって何も始まりません。「そんなことをグダグダ言っても再審開始にならん」「あえて苦情は言うまい」とずっと思ってやってきました。運命だと思っています。そう思わないとしょうがなかった。

決して後ろは振り返らなかった

──それにしても長かったですね。

 今でこそ長いって言うけど、当時は長いなんて思わなかった。見えない権力と闘っていましたから、前に進まないとしょうがなく、決して後ろは振り返らなかった。

──巌さんが釈放された時、「もう怯えなくていいんだよ」と声を掛けました。

 死刑囚だったから、ものすごく死を恐ろしがっていた。だから「もう安心だよ」「何も怖いものはないよ」「あんた、勝ったんだよ」って。(長期収容による精神障害の)拘禁症状っていうのは妄想の世界に入り、人の言うことを聞かず、自分の考えで進んでいきます。収監されていた48年間、想像を絶するつらい思いをしてきた。自由にしてあげれば自然に治ると思っています。だから大いに自由を味わってほしい。巌に効く薬は自由しかない。だから放し飼いにしているんです。

──4人の殺人犯の姉という目で見られ、風当たりも強かった。

 隠したって皆、知っているから、開き直って生きてきました。同窓会にも行かないし、人が集まるところには顔を出さず、世間とは距離を置いて生活してきた。町で知り合いに会っても、向こうが挨拶しないのにこっちがすることはない。挨拶されたくないんだろうから、知らん顔をして気取った顔して歩いていました。「犯人だと思いたきゃ、思わせておけばいい」ってねそんなことより巌の再審に向かって進む方が大事だった。

──アルコールに溺れたことも。

 初めの10年ぐらいは支援者がおらず、家族で支えてました。両親が続けて亡くなり、後を引き継ぐことになった。寝ていても夜中に目が覚め、巌のことしか頭に浮かばない。「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」と思うと眠れなくなって。次の日の仕事に差し支えるからウイスキーをガブ飲みして寝てました。目が覚めるたびに飲んでいた。そんな酒浸りの生活が3年ほど続き、酔っぱらったまま支援者からの電話に出たんです。その時、「私、何をやっているんだろ。皆、親身になってやってくれているのに、こんなことを続けていたら巌を助けるどころじゃない」と思い、酒を断った。40代の頃です。朝、顔を洗っていたら、肌が荒壁みたいに荒れていました。

毎月の面会は「見捨てていない」というメッセージ

──59歳で借金を背負い、マンションを建てたのはどうしてですか。

 巌のことで希望が持てず、私の人生、このままじゃつまらない。自分で何かをしなきゃ、生きる希望をつくらなきゃと思い、将来、家賃収入で生活する計画を立てた。会社の倉庫の2階に住み込んで働き、18年でローンを完済。マンションに入居できたのは79歳の時、巌が帰ってくる2年前のことです。当時は巌が拘置所から出てくるなんて思ってもいなかった。気を紛らわせる意味もありました

──1980年、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した際には仲間が敵に見えたと。

 なんだか理由は分からなかったけど、弁護士や支援者といった味方も全てが敵に見えた。それぐらい残念だった。拘置所に行って巌に「こうなったら何でもやろう」と伝え、そこで開き直った。逆境に追い込まれると強くなる。つらくても負けることはありません。「何クソ、負けるもんか」って歯向かいます無実だから絶対負けない、それが当たり前だと思って闘ってきました。

──弱音を吐くことはなかったのですか。

 性格的に泣き言を言うのは嫌いなの。恨めしいとか、悲しいとか、一切言うまいと思ってガムシャラに生きてきた。言ったってしょうがないでしょう。話を聞いてくれた方が困っちゃう。負担になるのが嫌なのよ。相手に負担をかけるよりも自分が我慢する。こういう状況に置かれてからなおさら、そう考えるようになりました。

──親孝行だと思って巌さんを支えたそうですね。

 母親は「巌はダメかいねえ」「巌はダメかいねえ」と、うわ言のように繰り返し、死刑判決の2カ月後、68歳で亡くなりました。私たちはきょうだいだから我慢できるけど、巌を産んだ母親はどんな思いだったのか。私はロクに親孝行をせなんだ。母親のつらさ、悲しさ、苦労を見ていたから「ここらでひとつ、親孝行するか」って乗りかかったの。ほとんどの裁判に行っていた母親が、ある時、「ひで子、今日、裁判所で知らないおじさんが『この裁判はおかしいね』って声を掛けてくれたの」ってうれしそうに電話をしてきた。その言葉が今も耳に残っています

──心が折れそうになったことは。

 一切ありません。こんな理不尽なことがあるか、と思っていたから。いつかどこかで分かってくれる人がいると信じていた。初めの頃は「なんで、うちだけこんな酷い目に遭うんだろう」って思ったこともあった。昔は警察に取り調べられると、それが息子であっても縁を切るとか、「あんなもん、うちの息子じゃない」と言って見捨てちゃうの。真実も分からないうちに切り離して見捨てちゃう。だから冤罪が増える。でも、うちの場合は「そうはいくか」ってね。

──どれくらい拘置所に面会に訪れたのですか。

 初めの10年間は半年に1回、その後の30年間は毎月行っていた。そのうち拘禁症状がひどくなり、本人が面会を拒否するようになった死刑確定から約7年の間に会えたのは1回きりで、それも時間は1分間ほど。でも行かなきゃ、本人と連絡取れません。手紙出しても読むわけじゃない。「姉さんが来たよ」って伝えてもらっても、「姉さんいない」って拒否する。完全におかしくなったわけじゃないから、どこかで私だって分かってくれるはず。そう思って、「家族は見捨ててないよ」っていうメッセージを送るために、会えなくても何度でも通いました

──いつも笑顔で明るく、前向きですね。

 意識はしてません。巌が拘置所にいた頃はおっかない顔をしていました。集会に行ってもニコリともせずに言いたいことを言っていた。それまでの30年間は精神的にも外に出て笑うどころじゃなかった。10年前、巌が拘置所から出てきて変わった。巌と生活するには明るくしないと。暗い顔をしていたら巌の病気も治りゃせん。つまらないこと考えたって何も解決しないのよ。それより、ニコニコしてりゃあ、いいことが舞い込んできます。

──残りの人生をどう楽しみますか。

 2人とも余命いくばくもないんだけど、巌もせっかくシャバに出てきたんだから、もう10年ぐらいは頑張って生きてもらわないと。欲をかいてもしょうがないけど、私もやりたいこと、やることはまだいくらでもあります。性格的にジッとしているのが好きじゃないので、再審法の改正や冤罪被害者の救済にも極力協力していくつもりです。まだ終わりじゃない。まだまだこれからですよ
             (聞き手=滝口豊/日刊ゲンダイ)

袴田ひで子(はかまた・ひでこ) 1933年、静岡県生まれ。6人きょうだいの下から2番目。中学卒業後、地元の税務署に就職。13年勤務ののち民間の税理士事務所に転職。事件後は食品会社で経理を担当し、その後、弁護団の法律事務所で81歳まで現役で勤務を続けた。