JBpressに掲題の記事が載りました。
昨秋、斎藤元彦を兵庫県知事に再選した選挙はおよそ不正常なもので、オールドメディアが公平な選挙を目指すあまり「沈黙」を貫いたのに対して、SNS界は、事実と全く異なる「誹謗中傷」の嵐が吹きまくる異常な空間と化しました。
端的にいえばSNS界の情報は「二次情報」が大半なので、一つひとつに「その真実性の判断(リテラシー)」が要求されることは、そもそもの当初からいわれていたことでした。
それにもかかわらず、住民の代表を選ぶ選挙という重大な局面において、意図的に情緒・感情に訴える全くデタラメな言説があそこまで完全に「幅を利かせた」のは恐ろしい現象でした。
註.文中に「エモい」という言葉が出てきますが、検索すると「なんとも言い表せない素敵な」というような意味です。
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「二次情報だらけの社会になると民主主義は危うい!」新聞記者が痛感したオールドメディアの衰退とネット記事の功罪
砂田 明子 JBpress 2025.4.4
記者歴16年、デスク9年のベテラン新聞記者がぶつかったデジタルという壁。「何かの間違いではないか」と目を疑うほど、ネットで記事が読まれない現実に直面し、文章の書き方をゼロから見直していく。Z世代へのフィールドワークなどを通して分かったのは、デジタルは「感情」の世界であること。ゆえに、アナログの紙面とはまったく異なる書き方が求められることだった──。
共同通信社が配信するウェブ「47NEWS」でオンライン記事を作成し、これまで300万以上のPV(ページビュー⇒アタック数)を叩き出してきた斉藤友彦氏。『新聞記者がネット記事をバズらせるために考えたこと』(集英社新書)で、デジタル時代の文章術を指南するとともに、オールドメディアと言われる新聞の厳しい未来を考察した。文章の変化は、社会の変化の表れでもある。なぜ「共感」がこれほど求められるようになったのか。斉藤氏に話を聞いた。
【斉藤友彦(さいとう・ともひこ)】
共同通信社デジタル事業部担当部長。1972年生まれ。名古屋大学文学部卒業後、1996年共同通信社入社。社会部記者、福岡編集部次長(デスク)を経て2016年から社会部次長、2021年からデジタルコンテンツ部担当部長として「47NEWS」の長文記事「47リポーターズ」を配信。2024年5月から現職。著書に『和牛詐欺 人を騙す犯罪はなぜなくならないのか』(講談社)がある。
「Yahoo!ニュースもYouTubeも見ない」Z世代
──斉藤さんは2021年に共同通信社の「デジタルコンテンツ部」に配属され、きちんと取材をした良質な記事が、ネットでまったく読まれないという事態にショックを受けます。PVがとれているのは取材ゼロの「こたつ記事」ばかり……。こうした状況にむなしさを感じながらも、斉藤さんは静かに立ち向かっていく。文章術の指南本であると同時に、新しいフィールドで自分をアップデートしていくための奮闘記としても読みました。デジタル部署への異動は斉藤さんにとってどのようなものでしたか?
斉藤友彦氏(以下敬称略) 異動するずっと前からデジタル向けに記事を出す仕事をやりたいと思っていたんです。紙だけやっていても未来はないと思っていたので、デジタルをやらなければと。遅まきながら共同通信にそういった部署ができたので、希望して移りました。
ところが、丹念に取材した良い記事が、ネットでなかなか読まれない。つまりPVがとれない。対してYahoo!ニュースでランキング上位の記事を見ると、「これってニュースなの?」という記事だったりするので、愕然としました。
──そこからさまざまな試行錯誤を始めますが、その 一つが、Z世代をはじめとする幅広い年代へのリサーチ。記事を読んでもらって感想を聞くという地道な活動を始めます。若い世代の生の声は容赦なく、それだけに貴重です。
斉藤 たまたま別の業務で、Z世代からニュースについての意見や感想を聞き取る仕事をしていたのです。それで、よく行く飲み屋やカフェのマスターに紹介してもらって、記事についてもヒアリングを始めました。
そうしたら驚きの連続で……。そもそも「忙しいのに、なぜニュースを読まないといけないのか」とか、「Yahoo!ニュースもYouTubeも見ない」と言われる。その後、さらに幅広い年齢層の人にも話を聞くようになったのですが、インタビューするときは必ず、スマホで最もよく使うアプリを尋ねるようにしています。年齢層がきれいに表れるんですね。若い人はTikTokやインスタグラムが主流で、動画も短尺なものへと移っていることがよく分かります。
反射的な認知システム「システム1」を刺激し続けるネット空間
──リサーチを経て斉藤さんがたどり着いたのは、〈デジタル記事と新聞記事は、読む目的も読者の感覚もまったく異なる「別物」〉という認識。新聞の読者が能動的なら、デジタルの読者は受動的。新聞記事が左脳的なら、デジタル記事は右脳的。隙間時間に無料で読まれるデジタル記事には、「共感」「ストーリー」「自分事」が求められる。つまり「デジタルは感情の世界」だと書かれています。
斉藤 言うまでもなくデジタルはテクノロジーでできている情報空間なので、論理的整合性であったり、前向きさが求められる世界なのかと思っていたのですが、入ってみたら全然違った。正直、ショックではありましたが、新聞の発行部数が20年でほぼ半減している時代において、デジタルと縁を切ることができないとも思いました。
──「感情」の世界にあわせて、記事の書き換えをすると、ぐんぐん読まれるようになっていく。客観的な新聞記事を、「主人公」を立てたデジタル記事に書き換えるなど、新聞→デジタルの成功事例が紹介されており、「書き方」によって文書はこうも変わるのかと驚かされました。ただ、「共感」や「分かりやすいストーリー」に傾き過ぎる弊害もネット空間では問題になっています。なぜデジタルでは「感情」がこれほど重視されると思いますか?
斉藤 この点に関して私自身は明確な答えを持ち合わせていませんが、計算社会科学者の鳥海不二夫さん(東京大学大学院教授)の新書を読んで、自分の感覚に近いことが書かれていると思いました。『デジタル空間とどう向き合うか 情報的健康の実現をめざして』(日経プレミア)という、憲法学者の山本龍彦さんとの共著です。
SNSのデータ分析をされている鳥海さんはこの本の中で、人間には2つの認知システムがあるといいます。一つが「システム1」と呼ばれる反射的に動くシステム。あまり難しく考えずに即座に行う直感的な行動には、この「システム1」が動いています。
もう一つの「システム2」は、じっくり考えて反応するシステムです。新聞や本といったこれまでのメディアは主に「システム2」を働かせてきましたが、アテンション・エコノミー(情報の質よりも人々の関心や注目を集めた方が経済的利益が大きいことを指摘した経済学の概念)が支配するネット空間は、主に「システム1」を刺激し続けるという特徴があると。だからネット空間は危ないと、鳥海さんが警鐘を鳴らされているのを読んで、なるほどと思いました。
とはいえ「システム1」を刺激すること自体が悪いわけではありません。ただ、デジタルはそうした情報空間であることを理解して使う必要があるだろうということです。ですから教育が非常に大切だと思います。私もこたつ記事を読むことはありますが、くだらないと思いながら楽しく読んでいれば、それはそれで大丈夫な気がしています。
「エモい」こと自体に良い悪いはない
──新聞とデジタルでは、「見出し」の作り方も異なります。ポイントや痛恨の失敗例、「~理由」「~のわけ」といったタイトルの記事が溢れているとの考察も参考になります。デジタルでは読者の「感情」をゆさぶる表現は重要なポイントではありますが、いわゆる「釣り見出し」にならないよう斉藤さんは細心の注意を払っているそうですね。
斉藤 仕事柄、ネットニュースのヘビーユーザーでもあるので、たくさんの記事を見ていますが、うまいなあ、と感心する見出しもあれば、もうここのサイトの記事は読まない、と思うような強烈な見出しもあります。
読者の目を引くことを第一目的にすると、長い目で見て信頼を失うと思います。ネット記事において見出しは確かに大事ですが、見出しだけに頼るべきではないと考えています。
──「共感」や「ストーリー性」を重視した新聞発のネット記事が増えていることを背景に、昨年は「エモい記事」論争が起きました。日本大学教授の西田亮介さんが、エモい記事を否定しないがこの手の記事が多すぎるのではないか、新聞の本来の役割とは何かを投げかけた記事*注が発端となった論争ですが、この問題をどう捉えていますか?
*注『その「エモい記事』いりますか 苦悩する新聞への苦言と変化への提言』(朝日新聞
デジタル、2024年3月29日)
斉藤 一連の記事を読んで、なるほどなと思うところはありましたが、エモいこと自体に良い悪いはない、というのが私の考えです。
記事を書くときに一番大切なのは、「何を伝えたいか」です。記者が記事を書くときは、必ず伝えたいことがあります。それを伝える手段として「書き方」をどうしようかと考えるわけで、いわゆるエモい書き方をした方が、より多くの人に伝わる内容だと判断するのであれば、そうした方がいいだろうと思います。記者にとって、伝わらないのがいちばん悲しいことなので。
もちろんひたすらエモいだけで、何を伝えたいかが分からない記事は、一時的なPVは稼げても、会社の信頼を損なうでしょう。ただ、結果的に記事がエモくなることはあるだろうと思います。
稼げているのは「二次情報」を発信している人ばかりに
──斉藤さんはデジタル記事を書くために、記者生活で身につけた「新聞スタイル」をいったん否定されました。新聞スタイルとは「逆三角形型」で、記事の前の方に大事な要素をもってきて、短い文字数で必要な情報を伝えるスタイル。この冒頭詰め込みスタイルが、ネットだと「疲れる」「重すぎる」と敬遠されたわけですが、これはこれで非常に優れた文章術です。「コスパ重視」の人にとっては、むしろこちらの方がコスパがいいのでは? と思ったりもしました。
斉藤 そうですね。今も私自身は、新聞スタイルの方が読みやすいんです。短時間で、まんべんなく情報が得られますから。でも、電車に乗っているときや、ぼーっとスマホを見ているときなどは、もう少し受動的に、感情に支配されながら記事を読んでいるので、一人の人間のなかにも、いろんな状況やニーズがあるのだろうと思います。
そもそも新聞は買ってくれた人が読むわけです。一方デジタル記事は、何百、何千と並ぶ記事の中から見つけてもらい、読もうかなと思ってもらわなければいけない。新聞とは異なる、読まれるための努力が必要なのは、考えてみたら当然です。
──その新聞の部数は20年でほぼ半減しています。本書では「組織ジャーナリズム」がなくなる未来を見据え、そのとき何が起きるかを考察しています。一次情報を生む組織ジャーナリズムが衰退すると〈自由や民主主義と相いれない社会になる〉。二次情報だらけの社会になると、陰謀論が広がり、社会の分断が進んでいく……。すでに現実になりつつあります。
斉藤 ネットでインフルエンサーを名乗る人や、オンラインサロンなどで解説している人は増えていますが、彼らが基にしている情報のほとんどが、オールドメディアと呼ばれる新聞社や出版社が取材して出している「一次情報」です。
しかし、今稼げているのは、他から引っ張ってきた一次情報をうまく加工した「二次情報」を発信している人たちで、汗をかいて一次情報をとるオールドメディアが衰退している。この状況をどうすればいいのかということを考えますね。
オールドメディアが生き残れないと、一次情報がない世界が広がることになり、何が正しい情報か分からなくなるため民主主義は危うくなると思います。
本にはアメリカやロシアの例を挙げましたが、日本でも、情報元を明らかにしないまま断言するユーチューバーが多くの再生回数を得ています。私は組織ジャーナリズムが生き残る必要があると考えていますが、オールドメディアがどうトランスフォーム(⇒変換)していけばいいのか。その答えを、まだどのメディアも持っていないのではないでしょうか。
ただ、紙がなくなっても、ネットで読まれ、伝わる記事を書かなければいけないことは、間違いないと思っています。