2025年4月21日月曜日

貧相で杜撰な大阪・関西万博 - なぜ本物の大阪・関西の文化を見せないのか?

 「世に倦む日々」氏が掲題の記事を出しました。
(ここではメタンガスの問題等には触れず)同氏はまず、15年前の上海万博では192か国(国際機関も56)が参加し、4年前のドバイ万博には190か国が参加したのに、それから158か国と一気に30か国も減ったのは、5年後には日本がもはや経済的に世界から期待されてない国で、経済成長に伴う市場的チャンスや科学技術の発展性の面で魅力のない国になったからだとしています。
 それはまさに、いま必死に日本学術会議を解体しようとしている自民党政府の下での、日本の近未来を示していると言えます。

 今回の万博会場については構想原案と基本設計に欠陥があるとして、来場者数が15万人を超えたら入退場に恐ろしく時間がかかり、トイレや休憩や食事などに不便と不具合が発生すると思われ、無責任で不親切な設計」だとしています。
 会場へのアクセスと人の流れの想定にもミスがあり、「入退場に利用する通路が夢洲駅からの1本しかなく、人がそこに集中するし、夢洲駅の改札口も1か所しかなく、そこがネックとなり13日には退場まで1時間という異常事態が発生した」が、「責任者が不在なのか。主催者が開き直っている感が強い」と皮肉っています。
 そして「この万博には目玉がない。本来なら万博の主役となって客を集めるはずの海外パビリオンに華がない」として、「そこで思い出したのが70年万博には『宝物』があったことで振り返ってみれば価値のある発想と造作だった。太陽の塔 含めて日本庭園などの『宝物』が多かった」ことを思えば、「この万博機に日本が庭園文化の創造性で何かを見せ、世界に問うプログラムがあってもよかった。盆栽を展示し、庭園内に閑かに能楽堂を構えて薪能を見せ、茶室を設えて茶の湯を催してもよかったし、枯山水と生け花、そして人形浄瑠璃を演じる瀟洒な劇場小屋を建ててもよかった」。
 それなのに、「なぜ愚俗で蛮痴で汚堕な文化の塊である吉本興業が案内役なのか首を捻る。なぜ恥の文化を前に出すのか」「新自由主義の極みで世界の人々の精神が疲弊した現在、万博という機会に、日本が世界に見せるべきものは多く、感動と評価を受けるものはあまりにも多いはずだ」としています。

 そして「もう一つ。大阪・関西万博と言うのなら、どうしても必要だと思うのは手塚治虫館である」として、「21世紀を作った20世紀の巨大なリーダーだと言える手塚治虫」に言及しています。

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貧相で杜撰な大阪・関西万博 - なぜ本物の大阪・関西の文化を見せないのか?
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4/12、大阪・関西万博の開会式が行われ、NHKで生中継されていた。放送を見終わった直後に率直な感想をポストしたところ、非常に多くの反響があった

70年万博の開会式の絵と比較して何とも貧相でこぢんまりとしている。そうした批判的意見が多くあった。まず、会場の空間が狭く暗く、スケール感と開放感がない。5年に一度の国際博であり、日本が国家の威信を賭けて世界に存在感を発揮する機会であり、世界に感動を与えて国民が自信を得るコンテンツが発信される場なのに、披露された中身は脱力するほどショボかった。ステージが小さく、出し物の企画と演出がおよそ期待値に達していない。地方博のレベルだとか、どこかの公民館でやっているようだという声が上がっていたが、同感である。イベントに出演した人数も、会場に参席した人数も少ない。何か全体が薄暗く、身内だけを会場に呼んで座らせていた雰囲気が漂っていた。皇族以外に著名人がいなかったのか、カメラが来賓や観客の顔を捉える場面がなかった。皇族の言葉や表情も元気がなく、消極的であることが察せられた

2010年の上海万博では、サルコジや李明博など元首級が20名も参列している。今回の大阪・関西万博ではゼロだ。開会式の規模と態様が、この万博全体がどのようなものかを暗示し象徴している158の国と地域が参加とNHKが煩く喧伝しているけれど、15年前の上海万博では192か国が参加し、国際機関も56参加していた。4年前に開かれたドバイ万博の参加国も190で、ドバイ万博の参加国数からもはるかに劣る数となっている。この事実はマスコミでは紹介されない。伏せられている。一気に30か国も減るとはどういう理由と事情なのだろう。5年後にはサウジのリヤドで万博が開かれるが、おそらく、そこでは190以上の国・地域の参加が確実だろう。要するに、日本が、経済的に世界から期待されてない国だからこうなるのであり、経済成長に伴う市場的チャンスや科学技術のシーズ⇒発展性の面で魅力のない国だという真実の証左なのだ

4/13 の開幕日は、スタッフを除いた一般入場者数が11万9000人だった。平日となった2日目の 4/14 は半減して5万1000人となり、3日目の 4/15 は4万6000人と報告されている。万博協会は半年間183日の会期の来場者数を2820万人と想定しており、この目標を達成するためには1日平均15万人の来場が必要となる。現在のペースが続けば大幅未達は必至で、損益分岐点となる1800万枚のチケット販売も危うい状況となるだろう。仮に一日平均10万人の入場者数でも1830万人にしかならない。2005年に開催して成功を収めた 愛・地球博 のように、尻上がりに人気が出て、夏にかけて入場者数が倍増してゆく図も考えられないわけではないが、今の時点で懸念されるのは、来場者数が15万人を超えたら、入退場に恐ろしく時間がかかり、トイレや休憩や食事などに開幕日と同じ不便と不具合が発生するのではという問題である

今回の万博会場については構想原案と基本設計にどうやら欠陥があり、アクセスと人の流れの想定にミスがある。入退場に利用する通路が夢洲駅からの一本しかなく、人がそこに集中してしまう。夢洲駅の改札口も一か所しかなく、ボトルネックとなり、それがゆえに 4/13 の退場まで1時間という異常事態が発生していた。一日15万人が出入りする人流の規模を前提としたなら、駅の改札口をもっと増設し、あるいは駅の出入口を複数設置し、スループットのキャパシティを拡張しておくべきだっただろう。そこを改善しなければ 4/13 と同じ行列と渋滞が発生する。2日目以降クレームが出ないのは、来場者数が減っている(半減している)からだ。まさか万博協会は、最初から1日10万人の想定で会場アクセスのインフラ設備を考案したのだろうか。杜撰な印象も受けるし、杜撰なだけでなく、無責任で不親切な感じがする。責任者が不在というか、主催者が開き直っている感が強い

開幕する前まで、意外なほど万博に関する情報が少なく、マスコミで取り上げられる場面がなく、それが非常に不思議だった。普通なら盛り上げるためにマスコミで事前宣伝する。今回はそれがなく、開幕した途端に怒涛のようにテレビで宣伝情報を流し始めた。どうも様子が怪しいと思っていたら、ネットに記事が出ていて、電通が東京五輪の汚職事件の影響でペナルティを受け、万博の運営から撤退していたとある。その影響で万博のプロモーションは吉本興業が一手に引き受ける進行となり、関西のテレビでは賑やかに話題にしていたが、東京および全国では沈黙という次第になっていたらしい。開幕と同時にテレビが万博一色となったのは、おそらく政府自民党が電通に手を回し、ペナルティを解除し、金も注ぎ込み(特別会計か経団連か知らないが)、電通を動かしたからだろう。このままではあまりに大幅赤字となり、責任問題必至となるため、石破茂が維新に助け舟を出したのだろうか

NHKのニュースや民放のワイドショーでは、レポーターを毎日張り付かせ、宣伝の時間を番組内に割き、万博の「魅力」のPRに余念がない。民放ワイドショーでは、大久保佳代子らコメンテーター全員に「行ってみたい」と言わせていた。効果は出るだろう。だが、入場料7500円(大人)という値段を考えたとき、また、今の庶民と世間の経済状況を考えたとき、この万博にその価値があると思えるか、満足を得られると期待できるかは疑問だ。この万博には目玉がない。本来なら万博の主役となって客を集めるはずの海外パビリオンに華がない。行きたいと動機づける要素がない。何となく、どの国も費用を抑えて展示内容を手抜きしたのか、自信なさげな気配が漂い、積極的な訴求がない。アメリカ館や中国館の話題が少ない。万博全体もショボいが、海外パビリオンもショボく見える。日本の主催だからお付き合いで出展したと言いたげで、横並びでコスト削減したという裏の真相が透けて見える

維新支持の万博擁護派から、そんなに批判するのなら、おまえだったらどんな万博にしたのか言ってみろという難癖があった。そこで思い出したのが、70年万博には日本庭園があったことである。当時は大きく注目されなかったが、振り返ってみれば価値のある発想と造作だった。太陽の塔も含めて、70年万博はそういう宝物ばかりだ。今、日本の盆栽や庭木は半世紀前よりも世界から熱い関心を惹き、世界の中で文化的価値を高めた存在になっている。ファンが多い。万博の機に日本が庭園文化の創造性で何かを見せ、世界に問うプログラムがあってもよかった。庭園内に閑かに能楽堂を構えて薪能を見せ、茶室を設えて茶の湯を催してよかった。枯山水と生け花も。人形浄瑠璃を演じる瀟洒な劇場小屋を建ててよかった。大阪万博なのだから、むしろ文楽がポイントになってない方が不思議で、何で愚俗で蛮痴で汚堕な文化の塊である吉本興業が案内役なのか首を捻る。大阪には誇る文化があるのに、なぜ恥の文化を前に出すのか

万博というと、一般の表象では未来の科学技術を見せ、最新のテクノロジーが人類社会を便利に豊かにする具体像を示し、来場者に夢と希望を与える場として捉えられている。が、人が見たいもの、人が求めているものはテクノロジーだけではない。万博で出会いたい対象は、自然科学や工学研究の成果が導くところの、社会の発展と人類の福祉のデザインと予告だけではない。人が求め、人を幸福にし、人を感動させる文化には、芸術芸能の表現と創作の世界がある。そこに結晶された叡智と天才と努力がある。芸術文化の価値の発見と理解と共感は、人の一生にとって重要な要素で、その個人の人格の完成に繋がる問題だ。教育を受けた先進国の人々にとっては間違いなくそうだし、これから先進国入りする新興国の人々(特にそのエリート層)にとっても同じだろう。そうであるとしたとき、新自由主義の極みで世界の人々の精神が疲弊した現在、万博という機会に、日本が世界に見せるべきものは多く、感動と評価を受けるものはあまりにも多いはずだ

世界で大人気となっている日本食(和食)も、この万博に世界から客を集めるアイテムとして組んでよかった。1日平均15万人の人数を確保するためには、どうしても外国人旅行客の数を搔き集める必要があり、日本人富裕層だけでは平均15万人の目標ラインには届かない。日本が国家的プロジェクトとして本格的に集積させ提供する和食文化のプレゼンテーションとソリューションは、日本に来る海外観光客にとって素通りできない磁力になるだろう。ラーメン、寿司、牛肉(しゃぶしゃぶ・すき焼き)、懐石、天ぷら、今、日本人はこの方面にエネルギーを注ぎ、価値を作り出すことに懸命になっている。私自身はその傾向と潮流に好感は持たないが、この企画を万博で打てば壮絶で豊穣なものが出来上がり、お祭り騒ぎになっていたと想像する。粗末なフードコートの席予約に550円取り、ぼったくりの食べ物を出して評判を悪くするのではなく、食文化と食市場に精注する今の日本を本格的なレベルで見せて、来場者に満足を与えるべきだっただろう

もう一つ。大阪・関西万博と言うのなら、どうしても必要だと思うのは手塚治虫館である。55年前の70年万博を子どもの一人として経験した立場で、そこに立ち返って考えたとき、55年後の2025年の大阪万博に建っていて欲しいのは、国内パビリオンの花形となる手塚治虫館だ。本当なら、万博会場をAIロボットのアトムとウランが、ピッキュッピッキュッと音を立てながら歩き、客を相手に会場案内する図が実現していてもらいたかった。1970年に日本で子どもだった者は、50年後にはその世界が実現していることを疑ってなかった。原作では鉄腕アトムは2003年生まれだからである。そしてそれは、世界に先駆けて日本が作っているものだった。人間の心を持ったロボット。手塚治虫の夢とメッセージは生き続け、人をその未来への挑戦に誘い導き続けている。今は中国が(日本に代わって)その先端を走っている。手塚治虫は不滅であり、その存在意義の輝きはますます大きい。2025年の大阪・関西万博に、なぜ手塚治虫館がないのか

偉大な手塚治虫を、世界の人はまだよく知ってない。誰が世界に冠たる日本のマンガとアニメの文化を作り育てたのか。誰が「人間の心を持ったロボット」のアイディアとイマジネーションを形にしたのか。21世紀の現代から振り返ったとき、手塚治虫こそ21世紀を作った20世紀の巨大なリーダーだと言える。ピカソより偉大かもしれない。作品はすべて世界の大人と子どもの普遍的教科書だ。キャラクターは情操と表現の基礎的モデルだ。そして、21世紀はもっと手塚治虫的になるべきで、科学は平和主義と公共主義の原則に錨づけられるべきで、手塚治虫の思想と理想に則って方向づけされていくべきだ。その方向性は日本人の信念と矜持そのもの