熊本水俣病が公式確認から六十年を迎えるのを機に、水俣市の水俣病資料館語り部の緒方正実さん(58)らが三重県四日市市を訪問し、四大公害病の一つである四日市ぜんそくの語り部、野田之一さん(84)と交流しました。二人は「未来の子どもたちのために公害の恐ろしさを後世に伝えていきたい」と誓い合いました。
四大公害病は1950年代から70年代にかけて日本が高度経済成長を遂げるなかで、企業の排水や排ガスが原因で起きた熊本・鹿児島の「水俣病」、四日市市の「四日市ぜんそく」、新潟県の「新潟水俣病」、富山県の「イタイイタイ病」です。
熊本水俣病は、チッソ水俣工場が水俣湾に有機水銀を含む排水を流し、水銀に汚染された魚介類を食べた住民が手足の感覚障害などを発症しました。それから約10年後に同じ悲劇が昭和電工の排水垂れ流しによって新潟県の阿賀野川流域で発生しました。
国が熊本水俣病で認定した患者の数は2280人程度に過ぎず、実際の患者数に比べてごく僅かでした。四日市ぜんそくは、石油化学コンビナートの排煙が原因で起きたもので、認定患者は2216人でした。
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水俣病と四日市ぜんそくの語り部が交流 公害の怖さをともに後世へ
東京新聞 2016年2月17日
水俣病が公式確認から六十年を迎えるのを機に、熊本県水俣市立水俣病資料館語り部の緒方正実さん(58)らが三重県四日市市を訪問し、四大公害病の一つである四日市ぜんそくの語り部、野田之一(ゆきかず)さん(84)と交流した。二人は「未来の子どもたちのために公害の恐ろしさを後世に伝えていきたい」と誓い合った。 (石原真樹)
四大公害病の資料館としては最後となる「四日市公害と環境未来館」が昨年三月に開館し、水俣病も公式確認から六十年の節目の年を迎えることから、緒方さんら語り部三人と水俣市役所職員ら計八人が初めて訪問した。
十五日にぜんそく患者が多数出た四日市市塩浜地区を歩き、十六日に資料館を見学したり野田さんの講話を聞いたりした。
野田さんは、一九七二年に患者側が全面勝訴した四日市公害訴訟の原告九人のうち、唯一の存命者で語り部の活動をしている。
発作で苦しんだ時に看護師が「いつでも面倒見てあげる」と看病してくれた経験や、弁護士に「憲法があるのだから」と励まされ親戚の反対を押し切って裁判を起こした当時を振り返った。「苦しんだが、みんなに助けられてここまで来られた。今の子どもたちに、恩返しするつもりで、生きている限り語り部をしたい」と話した。
緒方さんは「公害は経済政策を優先した国策の失敗だが、それを失敗に終わらせない役割が語り部。歴史を積み上げていかなくては」と応え、水俣湾の埋め立て地に市民が植えたツバキで作ったこけしを資料館に贈呈した。
祖父や妹を水俣病で亡くし、自らも水俣病患者の緒方さんは、手足のしびれなどを抱えながら、「苦しむ人にすぐ手を差し伸べる大切さを多くの人に考えてほしい」と二〇〇七年九月に語り部となった。一三年四月から資料館の語り部の会会長を務めてきた。
「四日市で野田さんが、どんな思いで生きてこられたのか直接聴けて、財産になった。四日市の思いも込めて、公害の恐ろしさを子どもたちに伝えていきたい」と気持ちを新たにしていた。