2015年4月27日月曜日

田中正造を語り継ぐ団体 先導役が相次ぎ他界

 田中正造は、日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家で、没後100年となる2013年に栃木県佐野市で、遺徳をしのぶ人たちで盛大な100年祭が営まれました。
 
 足尾銅山は明治期東アジア一の産出量を誇り、生産された銅が主要な輸出品となるために国策でその増産が進められました。そのため19世紀後半以降に栃木県日光市足尾地区と群馬県の渡良瀬川周辺、銅の採掘と精錬に伴う排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質しく汚染されました
 1890年、衆議院議員になった田中正造は、11年に及ぶ議員活動の大半を鉱毒問題に費やし1901年に衆議院議員を辞職した後も鉱毒被害を訴える活動はやめませんでした。1903年に栃木県谷中村が遊水池になる案が浮上すると、翌年から実質的に谷中村に住んで農民たちのために反対運動の先頭に立ち、1913年(大正2年)そこで72歳の生涯を閉じました
※ 2013年9月2日 田中正造 没後100年 公害悲劇の連鎖
 
 下野新聞が、足尾鉱毒事件や田中正造を語り継ぐ市民団体が高齢化して、長年、中心的役割を長年担ってきた人たちがここ数年で相次いで亡くなっていることを報じています。
 田中正造研究の草分け的存在の布川了さん2013.11.17没)、「渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会」会長板橋明治さん2014.12.24没)に続き、この3月25日には正造研究の第一人者とされる熊本大文学部長の小松裕教授急逝し、正造研究者に衝撃が広がりました
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「田中正造」語り継ぐ団体に世代交代の波 高齢化 先導役が相次ぎ他界
下野新聞 2015年4月26日
 足尾鉱毒事件や田中正造を語り継ぐ市民団体に、世代交代の波が押し寄せている。長年、中心的役割を長年担ってきた先導役がここ数年で相次いで亡くなり、3月には正造研究の第一人者とされる大学教授も急逝した。没後百年に伴う顕彰で飛躍的に注目度が高まった正造。後継体制を構築した団体もある一方、多くの団体で活動の求心力維持や継承への取り組みが急務となっている。
 
 3月25日、熊本大文学部長の小松裕教授の訃報を受け、正造研究者に衝撃が広がった。まだ60歳だった。没後百年の2013年には生誕地佐野市で2度にわたって講演し、メディアでも「正造」を発信していた。
 
 交流が深かった同市の田中正造大学の坂原辰男事務局長(62)は「正造研究にとって、あまりに大きな痛手。ここまで訃報が続くとは…」と声を詰まらせた。
 
 正造研究の草分け的存在の布川了さんが亡くなった。「渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会」は、会長だった板橋明治さんが死去し、新体制に移行したが、上層部は依然として80歳前後で活動の停滞が懸念されている。