1954(昭和29)年の3月1日、太平洋のビキニ環礁(マーシャル諸島)でアメリカが水爆実験を行いました。
このとき まぐろ漁船「第五福竜丸」は米国が設定した危険水域の外で操業していたのですが、その船上に「死の灰」が降り注ぎ、乗組員23名とともにそれを浴びた無線長の久保山愛吉さん(40歳)は半年後に亡くなりました。
水爆実験の威力はアメリカが当初想定した規模の2~4倍であったため、当時放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼり、ビキニ環礁から240kmも離れたロンゲラップ環礁の島にも「死の灰」が降り積もりました。
この水爆実験では2万人以上が被曝し多くの人々がいまだに後遺症に苦しめられています。
「原水爆による犠牲者は、私で最後にしてほしい」と述べた久保山さんの死は内外に大きな衝撃を与え、やがてそれは当時の有権者の半数にもあたる3200万人もの署名や第1回原水爆禁止世界大会(55年)の開催へと発展しました。
同時にその後は「3・1ビキニデー」として、第五福竜丸の母校焼津港のある焼津市や静岡市を中心にして、全国各地で途切れることなく全国で取り組まれてきました。
今年は、日本の反核・平和団体や広島、福島の学生たちが、3・1に合わせてマーシャル諸島を訪れ、元住民を支援したり、世界の核被害地の若者が集うイベントを開きます。
いま、広島・長崎の被爆から70年目に開かれる来年2015年の核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けて、核兵器廃絶の運動が盛り上がっています。
その一方で、「いかなる状況」でも核兵器を使用すべきでないというのこそが、被爆国としての立場であるべきなのに安倍政権は、アメリカの核戦略につき従って核兵器廃絶の流れに背を向け続けています。
そうした状況のなかでは、一層 3・1ビキニデー集会の成功は重要です。
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(社説) ビキニ被災60年 終わり見えぬ核の被害
中国新聞 2014年2月28日
核実験がもたらした甚大な被害から何を学ぶべきだろうか。中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が行った水爆実験によってマグロ漁船第五福竜丸が被災してから、あすで60年を迎える。
乗組員23人は大量の放射性降下物、「死の灰」を浴びた。無線長の久保山愛吉さんが半年後に亡くなり、ほかの乗組員もさまざまな病気に苦しんだ。
現地住民も多数が被曝(ひばく)し、島を追われた。一部で除染作業が進んでも、多くは帰還しようとしない。残留放射能の恐怖は容易になくなるものではない。
福島第1原発事故からもうすぐ3年。ビキニとフクシマを地続きに捉える動きが高まっている。古里から離れ、避難生活を強いられている人たちの将来と重なるからだろう。
地域と生活奪う
放射能が奪うのは、人々の健康だけではない。日常の暮らしや地域社会の営みも一変させる。しかも終わりが見えない。
米国の統治下、ビキニ環礁から約150キロ離れたロンゲラップ島の住民は避難勧告もないまま被曝した。実験直後の移住と帰島を経て、1985年に無人島への自主的な再移住を余儀なくされた。がんや甲状腺の異常が多発したからである。
46~58年に米国がマーシャル諸島で行った核実験は70回近くに達した。第五福竜丸と同じ時期に、延べ千隻の日本の漁船が操業していたことも分かっている。水揚げされたマグロの放射能汚染が発覚し、日本全体がパニックに陥った。核実験反対のうねりが原水爆禁止運動に発展していった。
だが日米両政府は、第五福竜丸が被災した翌年に米国が慰謝料を支払うことで幕引きした格好である。「原子力平和利用」に対する国民の反発を恐れ、実態にふたをしたに等しかった。
軍拡競争の産物
マーシャル諸島の苦難は、米国と旧ソ連が核兵器の破壊力を際限なく競い合った冷戦の産物にほかならない。
第五福竜丸を襲った水爆の威力は、広島型原爆の千倍に達した。広島と長崎は核時代の序章だった。いまや地球全体が滅亡の危機にある―。当時、誰しもおののいた。
冷戦が過去のものとなった現在も、世界に約1万7千発の核兵器が存在する。偶発的な限定核戦争や核ミサイルの誤射は、現実のリスクであり続ける。
それでも核保有国は、非人道的な兵器に相変わらず固執する。敵に攻撃を思いとどまらせる「抑止力」だと強弁する。
本当にそうなのか。今は独立したマーシャル諸島共和国のロヤック大統領は先日、広島を訪れ、「核兵器を持ち続ける国はいずれ使うことが念頭にある。二度と被害者を出してはならない」と語った。何より説得力のある言葉だ。
核兵器の開発は一切禁止する。決して使われないためには廃絶を急ぐ。それしかない。
CTBT発効を
だが、歩みは遅々として進まない。大気圏内や宇宙空間、水中での核実験を禁止する条約は63年にできた。今度は包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効が待たれるが、米国や中国、北朝鮮など、肝心の核保有国の一部は批准しようとしない。被爆国の日本を先頭に、圧力をさらに強めるべきである。
日本の反核・平和団体や広島、福島の学生らがあすに合わせてマーシャル諸島を訪れ、元住民を支援したり、世界の核被害地の若者が集うイベントを開く。被害の実態を学び、しっかり日本で伝えてほしい。
ここ数年、核兵器を「非人道性」の観点から問題視する動きが国際的に高まっている。実際に起こり、今も続く被害の数々を知ることは、廃絶への機運にも当然つながる。
旧ソ連の実験場があったカザフスタンのセミパラチンスク、米ネバダ州、フランスの旧植民地アルジェリアでの核実験なども深刻な被害をもたらしている。被爆地から、どれだけ世界のヒバクシャの現状に関心を寄せてきたか。この節目に思いを新たにしなければなるまい。
【社説】ビキニ60年 「死の灰」は今も、の怖さ
東京新聞 2014年3月1日
米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で日本の漁船が「死の灰」を浴びた惨禍から六十年。被ばくした元乗組員や周辺の島民らの苦悩は今も続く。核は許されない、その思いを新たにしたい。
東京・井の頭線渋谷駅の連絡通路に巨大壁画がある。岡本太郎さんの「明日の神話」。水爆さく裂の瞬間がマグロ漁船「第五福竜丸」とともに描かれた代表作だ。
「福竜丸」は一九五四年三月一日、中部太平洋のマーシャル諸島で行われた米国の水爆実験で、放射能を含む「死の灰」を浴びた。威力は広島に投下された原爆の約千倍。二十三人の乗組員は全員急性放射線障害を発症し、四十歳だった無線長の久保山愛吉さんが半年後、入院先の東大病院で亡くなった。生き残った多くの人もその後肝臓がんなどで亡くなり、生存する七人も病魔と闘っている。
水爆実験で被災した日本漁船は福竜丸だけではない。米ソ冷戦下、四八年から五八年まで行われた実験は六十七回に及び、日本政府の調査では少なくとも八百五十六隻の被ばくが判明している。福竜丸の被ばく後も実験を知らない漁船が海域で操業していた。
しかし、福竜丸が強調される一方で、他の被災漁船の乗組員の被ばくは軽視され、事件は矮小(わいしょう)化された。五五年に米政府が日本政府に支払った慰謝料は、汚染魚の買いとりや廃船費などに充てられたが、乗組員の健康について追跡調査などは行われなかった。
ビキニ事件は広島、長崎の原爆投下に続く核被害として、核廃絶運動の原点となりながら実態は明らかにされず、九五年に施行された被爆者援護法の対象にもならなかった。一部の被災漁船の乗組員の調査ではがんによる死亡が多発し、内部被ばくによる晩発性の障害に苦しんでいた。
何の補償も、救済もない。差別や偏見を恐れ、被ばくの事実を語れずに生きてきた。仲間を失い、高齢になって健康調査に協力を申し出た人も出ている。時間との闘いだ。ビキニの被害は今も続く。忘却してはならない。
死の灰で苦しむのは実験地にされた太平洋の島民も同じだ。米国の進める帰還政策に従う間に甲状腺異常や白血病などが広がった。福島原発事故の被害も過小評価し、同じ轍(てつ)を踏んではならない。
大切なふるさとを奪い、健康や生活を壊す。生きる権利を蝕(むしば)む核-。この問題とどう向き合うのか。静かに考えてみたい。