「世に倦む日々」氏が掲題の記事を出しました。
ようやくその時期が来たのかという思いに駆られます。歴代の米大統領の固定観念を持たす、米国第一を叫び、しかも「デープステート」に掣肘されないトランプが大統領が就くこの4年間こそがその貴重なチャンスです。
トランプが日米安保条約破棄を示唆したことに触れた同氏のXを内田樹氏が引用して、「日米安保解消後の日本の安全保障についてシミュレーションする必要がある」とコメントしたのに対し、同氏は「日本は憲法9条の非武装中立を原則に」というのが一貫した主張であると述べます。
そして今やマスコミでもネットでも、(憲法9条が謳う)「平和主義の発想が人の意識から悉く消滅」していて、「安全保障=武力」が常識化していると指摘します。
その傾向を強めたのは「ウクライナ戦争」であるが、その実相は「NATOによるイデオロギーの戦争であり、NATOがロシアに佞悪な長期的侵略を仕掛け、挑発し誘導して勃発させた戦争」と言えるとして、それを「恐い敵がいるから防衛の軍事力が必要」と逆用するのは間違いで、ユネスコ憲章前文の「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に『平和の砦』を築かなければならない」の一節を思い出すべきであると述べます。
この「平和の砦」こそが、人類の平和を担保する真理であり、9条の平和主義を内側から支える倫理だとしています。
その後は日本の現状について多岐に渡る考察をしているので、やや論旨を見誤りがちになりますが、最後の節で「日本では日米同盟が国家の事実上の最高法規になっている」ので、日米同盟を解消すると「国家の事実上の最高法規が忽然として消える事態になり兼ねない」と皮肉り、そこに持ってくるべき「最高法規」こそが、いまや「紙の上だけの存在になっている日本国憲法」であり、それを「正しく国家の最高法規の地位に据えることである」と述べます。
それによって「万事を日本国憲法の原理と精神に則って国家を運営すべき」であり、「(その)丸山真男の意思を貫徹したい。それは、(皮肉にも)この憲法の公布以来、日本人が一度もやったことのない未経験な実践で、チャレンジである」とまとめています。
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トランプが日米安保条約の破棄を示唆? - 内田樹の所感とユネスコ憲章の理念
世に倦む日日 2025年3月11日
3/6、トランプが日米安保条約に不満を表明。「われわれは日本を守らなければならないが、日本はわれわれを守る必要がない。日本はアメリカとの間で経済的に富を築いた。しかし、日本はわれわれを守らなくてよいのだ。いったい誰がこんなディールを結んだのか」と記者団の前で愚痴を述べた。先週末(3/8-3/9)はこの一件がマスコミとネットで話題になり、私が 3/7 に発したXのポストを内田樹が引用、日米安保解消後の日本の安全保障についてシミュレーションする必要があるとコメントする場面があった。私の意見は、憲法9条の非武装中立を原則にせよというもので、この主張を一貫して続けている。ブログで言論を始めて20年以上、この平和主義の信念に揺らぎはなく、ずっと9条護憲の意義を唱え、9条の説得力を醸成し再開発するための政治学的(政治思想史的)な努力と工夫を重ねてきた。
内田樹の提起に応じて安保政策の具体論を並べる前に、まず強調したい点は、今やマスコミでもネットでも、軍事力を保有し増強することが国家の安全保障だという説明と議論しかなく、平和主義の発想が人の意識から悉く消滅しているという深刻な問題だ。日米安保条約を破棄するのなら核武装するしかないとか、中国に負けない軍備が必要だとか、軍拡の論理と前提でしか国家の安全保障を考えてない。嘗て、東アジアに軍国主義一本鎗で突っ走った近代国家があり、どこにも負けまいと軍拡に励み、遂には戦争で滅びた歴史があったことなど、すっかり忘れてしまっている。単にネット右翼だけでなく、松原耕二などマスコミの表舞台で世論に影響を与える者まで、その結論に収斂していて、軍拡の正義が報道の解説の文脈で毎日のように唱えられ、「安全保障=武力」が常識で正論の思想環境に固まっている。
日本が憲法9条の原理原則を持った国だということが、マスコミでは完全に無視され捨象され、9条の存在は蒸発したかの如くだ。内田樹が改憲派なのか護憲派なのかはよく知らないが、ポスト日米安保を論じようとするなら、まずは「安全保障=武力」とする現在の支配的な言説が妥当なのかどうか、本質論の問いを立て、思想家として答えを出し、そこから政策論や予測分析を組み立てるという順番で臨むべきだろう。恰もビスマルクの昔を想起させるような、軍事立国論や武力至上主義がこれほど猖獗を極めているのは、3年前からのウクライナ戦争の現実があり、軍事大国のロシアが弱小国のウクライナを侵略し、戦争を防げなかったという俗解が一般にあるからだ。戦争の認識が「ロシアによる一方的侵略」という固定観念で染まっているため、防衛のための軍備強化が正当化されるという回路と潮流に向かうのだ。
ウクライナ戦争がなかったら、世界でこれほど軍拡路線が盛況になり促進されるという事態はなかっただろう。けれども、これまで考察してきたとおり、この戦争は決して「ロシアによる一方的な侵略戦争」ではない。それは西側が捏ねて刷り込んだプロパガンダの標語であって、内実を疑うべき言説である。むしろ実相はNATOによるイデオロギーの戦争であり、NATOがロシアに佞悪な長期的侵略を仕掛け、挑発し誘導して勃発させた戦争と言える。NATOを操るネオコンが、プーチン体制の崩壊とロシア連邦の解体を狙って策動した末に起きた戦争だ。もしもこの指摘が真実なら、その見方が正しいという戦争の結果(=ロシア勝利の講和)に終わった場合は、現状のキエフ政権の絶対的な正義が相対化され、神聖価値が崩れ、プーチンの正当防衛が半ば認められ、情状酌量が判断されるという結末になるだろう。
軍事立国や軍拡路線を唯一で必須で急務とする政策主張や思考態度は、西側の軍産複合体がウクライナ戦争を利用して扇動している方向性であり、ネオコン政治家とマスコミが散布している悪質な冷戦イデオロギーである。それは、ロシア悪魔論あるいは中国脅威論とセットの構造になっている。恐い敵がいるから、敵の侵略や攻撃に備えようとするから、防衛の軍事力が必要なのである。ここでわれわれが思い出すべきは、ユネスコ憲章前文で、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」の一節だろう。「平和の砦」とは何かというと、相互の価値観を理解し合う教育と知識と精神のことだ。ユネスコ憲章は、戦争を避けるためにはこれが第一に重要だと言っている。私もこの警句が人類の平和を担保する真理だとする立場にあり、9条の平和主義を内側から支える倫理だと考える
政治家やマスコミや社会の多数がこの理念に即けば、不信と疑心暗鬼を避け、戦争の原因を取り除けるだろう。ユネスコ本部はパリにある。ユネスコの活動は、第一次大戦後の国際連盟の下に諮問機関として設置された「国際知的協力委員会」を前身としている。世界の学識者十数名で構成され、新渡戸稲造が委員会の事務を切り回していた。パリに本部があり、欧州はユネスコの平和主義の理念を世界に教導すべき立場なのに、今の常軌を逸したロシア憎悪の咆哮と絶叫は何なのか。悪魔恐怖と軍事対決のヒステリーは何なのだろう。2年前に『開戦から1年 - 世界から平和主義者が消えてしまった』という記事を書いた。今のEU首脳会議は、優雅でリベラルに見えるけれど、実際は偏見に凝り固まった無能な貴族たちが、好戦気運を盛り上げて狂躁と興奮を高め合っているパーティに見える。ウィーン会議の反動と空疎さそのものだ。
日本の安全保障の議論も同じで、日本の中国に対する認識と態度も同じである。ポスト日米安保の具体的政策論としては、鳩山由紀夫が提唱した「東アジア共同体」の構想があり、そのブレーンである孫崎享の所論がある。が、鳩山由紀夫がこれを表明したのは2009年で、今から16年前も過去の話だ。尖閣沖での漁船衝突事件や野田政権による尖閣諸島国有の前の時点であり、反中猛毒の安倍政権の以前に発されたところの、軽くて楽観的な外交イニシアティブである。中国と日本のGDPがちょうど同じ値でクロスした瞬間であり、そこから16年経ち、経済成長を続けた中国のGDPは日本の4.5倍になっている。国家の実力の彼我の差も当時と比して甚だしく開いたが、それ以上に大きな問題は、日本の中国憎悪であり、その国民的堆積と体質化であり、経済安保法制含めた中国との戦争準備の進行の事実である。敢えて言えば、今の日本には、アメリカと一緒になって中国と戦争して勝つという”目標”しかない。
その目標だけがある。経済も先端技術も、教育も知性も、すべてを衰退させ劣化させ能力を失って高齢化し、世界から劣後しつつ、ただ中国と戦争して勝つという国家目標だけに目をギラつかせ、息をハアハアさせ、その夢(妄想)を見て追いかけているのが今の日本人だ。一億総反中反共右翼化した日本。その夢の実現に向けて、政治家が政策を組んで法制度と予算を固め、マスコミが夢を奏でる言説を吐いて洗脳のメンテナンスに勤しんでいる。昼も夜も、反中憎悪狂騒曲ばかり。高額療養費負担引き上げを凍結する200億円もないのに、がん患者の国民の命を削らなくてはいけないほど社会保障に手当する予算がないのに、防衛費は前年度の7.7兆円から今年度は8.7兆円に増やしている。1兆円も積み増して兵器を爆買いしている。その政治に異議を唱え反論する政党や論者はいない。中国との戦争のための軍備が必要で、青天井の軍事予算がデフォルトで、”国民的合意”の下で軍拡に精出しているのだ。社会保障を削りながら。
その対中憎悪は同時に対米偏愛でもある。奇妙で異常な対米偏愛依存の病理に日本は毒されていて、沖縄で女性が米兵に暴行されても何事もないかの如く見過ごし、大目に見て甘やかしている。テレビの報道番組は米国人と米国政治の専門家と元ワシントン支局長が仕切っていて、ニュースのスポーツの時間はMLBの話題ばかりで埋められている。マスコミが騒ぎ立てている3月の日本の最大のイベントは、東京ドームでのMLBチームの開幕戦の興行だ。(脱線して恐縮だが)半世紀前の、キャンディーズの後楽園球場での解散コンサートの情景が懐かしい。ドメスティックで楽しい春の日々だった。かくして、対中憎悪と対米偏愛の病理を重症化させつつ、日本の安全保障は戦争本番に向けて進行中で、戦争で爆買いした兵器を使用消費するための訓練に汗をかいている。日本の今の軍国主義は、中国に対する軍国主義で、アメリカに対しては属国主義であり、小突かれながら貢いですがることが生きがいの盲従奴隷主義に他ならない。
同じ軍拡路線と隣国ヘイト・隣国フォビア(⇒恐怖症)の政治方針でも、日本と欧州はかなり構造が違っていて、アメリカに対する病的な従属偏愛の行動様式が日本の特徴だと言える。今回、トランプが日米安全保障条約に不満をこぼしたことで、俄かにアメリカが脱日米安保に踏み出した将来を展望し、日本のあるべき安全保障について検討しようという空気が起きた。その議論や作業は必要なことだ。だが、テクニカルな安全保障政策の立案や提言に行く前に、まずは日本が重篤に陥っている精神的かつ政治的な病状を見つめ、その診断を始めるところから出発しなくてはいけないはずだ。そして、病気(日米同盟真理教)になる前の健全な日本を思い出し、過去はどういうメンタルヘルスだったかを定義するべきだと思う。日本人が健康だったとき、われわれは、非武装中立で平和国家を運営してゆくという理想を持っていた。その理想を掲げ、世界がその理想を共有したとき、理想は実現すると純粋に信じていた。
すべての国家は憲法を持ち、憲法の原則に従って法律と制度を整備し、政策を決定して国家を運営している。憲法は国家の基本法である。現在の日本は、よく左翼リベラルの方面から「憲法がない状態」だと言われる。その批判は当を得ている。人権についても統治機構についても、日本国憲法の条文とは全く無縁の法制度が制定・施行され、憲法の精神から逸脱した行政と司法が機能している。国政も社会も日本国憲法の下にあるものとは思えない。だが、現在の日本に国家の基本法の存在がないかというと、それは違う。今の日本国の基本法は日米安保条約なのだ。国家の最高法規が日米安保条約であり、その目的に従って日本の法制度が敷かれ、予算が組まれ、行政と司法が動いている。普通の国では憲法に向けるリスペクトとコンプライアンスを、日本国民は日米同盟に対して向けている。「日米同盟の重要性」こそが、日本の国会議員の第一の政治価値であり、彼らは日米同盟に奉仕するサーバント(⇒召使い)だ。
したがって、日米同盟を破棄するということは、安全保障のテクニカルでプロパーな問題解決では済まない。日本の場合、それは国家の事実上の最高法規が忽然として消える事態に直面するという意味であり、何か新しく最高法規を持ってこないといけなくて、まさに憲法制定と同じなのである。私は、紙の上だけの存在になっている日本国憲法を、正しく国家の最高法規の地位に据え、万事を日本国憲法の原理と精神に則って国家を運営すべきだと考える。丸山真男の意思を貫徹したい。それは、この憲法の公布以来、日本人が一度もやったことのない未経験な実践で、チャレンジである。丸山真男の政治学のセオリーは、すべてその理想と信念の上に構成・構築されている。
「湯の町湯沢平和の輪」は、2004年6月10日に井上 ひさし氏、梅原 猛氏、大江 健三郎氏ら9人からの「『九条の会』アピール」を受けて組織された、新潟県南魚沼郡湯沢町版の「九条の会」です。