関西大阪万博が4月13日から半年間の予定で開催されました。心配されていた入場者数はゴールデンウィーク最終日でも7万人台で当初見込みの半分以下の状況です。そして既に様々な不具合・トラブルが発生していて、計画の浅さ・拙さが明らかになってきました。
動画「幕府の視点」チャンネルは時事問題を頻繁に取り上げているサイトですが、5月5日と6日には大阪万博における問題点(、不具合点)の詳細とその原因等について、具体的に分かりやすく報じる動画を発表しています。タイトルは下記の通りです。
・「万博崩壊寸前...駐車場・バス・運営すべてが破綻!~」 幕府の視点(25年5月6日)
・「大阪万博の2億円トイレが使用不能、設計ミスと ~ 」 幕府の視点(25年5月5日)
「幕府の視点」動画には(機械による)「文字起こし」が表示されます。ボリュームの関係でここでは2つの動画の前段部分を紹介しますので、後段の部分はそれぞれの動画をご覧になってください。
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万博崩壊寸前...駐車場・バス・運営すべてが破綻!吉村氏が呆然
動画URL https://youtu.be/1JshBQWQx40
幕府の視点 2025年5月6日
一大イベント大阪関西万博。しかしその幕が上がる前からすでに地獄への様相を呈している。
入場前に立ち憚るのはなんと6500円を超える駐車料金と事前予約必須という謎の二重苦。
誰がそんな不便を喜んで受け入れるだろう。これはもはや万博ではなく「我慢博」だ。そんな声がSNS上でも噴出している。
一体誰のためのイベントなのか。しかし問題はそれだけではありません。パーク&ライド方式の名を借りた不審設計。公共交通機関推奨といいながら国民感覚を完全に無視した料金体系。そして運営側の場当たり的な対応も次々と明らかになりつつあります。
今回の議題に対する私自身の見解として、ここまで利用者無視のイベント設計が果たして現代の日本で通用するのか大いに疑問を感じています。このままでは現地を訪れた人たちの不満が一層噴き出すのは避けられないでしょう。そんななか現地で起きているリアルな現状を掘り下げながら順番にひも解いていきます。
それでは公営駐車場とバス予約制度による利用者の遠ざかりについてから始めましょう。大阪関西万博の交通手段として導入されたパーク&ライド方式は開始早々から大きな躓きを見せています。問題の核心は駐車料金の異常な高さとそれに伴うシャトルバスの予約制度です。駐車料金は最低でも6500円 場合によっては7500円にまで達し、一般的な大型テーマパークと比較しても2倍近い水準に設定されています。
この時点で多くの来場予定者が足を止めてしまうのも無理はありません。さらに利用者を躊躇させるのがバスの事前予約制という仕組みです。駐車場に車を止めた後は決められた時間にしか乗れないシャトルバスに乗り換えなければなりません。しかもその時間は事前に指定しなければならず道路事情による遅延など考慮されていないため、渋滞に巻き込まれた場合にはバスを逃してしまうリスクすら孕んでいます。遠方から訪れる人にとっては時間通りにたどり着ける保証がないことが大きな不安要素となり。それなら電車で行こうという選択肢を取る人が続出しています。
この料金設定と制度に対しては利用者側から強い違和感と反発が寄せられています。特に指摘が多いのは主催者側が来場者を金を落とす存在としか見ていないのではないかという不審感です。
駐車料金。バスそして別途発生する高額な入場料まで加えれば家族連れで訪れる場合の負担は無視できない額に膨らみます。例えば駐車料金6500円に加えバス代金と大人複数分の入場料を合算すると移動のためだけで1万円以上が簡単に吹き飛ぶ計算になります。楽しいはずの万博へのお出かけが、開始前から大きなストレスと出費を強いられることになります。
また駐車場の場所にも問題が指摘されています。舞洲はまだしも堺市や尼崎市といった会場から遠い場所にも駐車場が設けられていますが、そこに駐車しても高額な料金が発生する仕組みです。移動にかかる時間や手間を考えればこれだけ負担をかけてまで車を利用する意味がないと冷静に判断する人が増えるのも当然と言えます。
個人的には駐車料金をもう少し現実的な水準に抑えるだけでここまで強い反発は起きなかったのではないかと感じます。例えば周辺の大型商業施設やテーマパークでは1日中止めても3000円前後が相場です。それに比べて万博の料金設定はあまりに突出しておりわざわざ高い金を払って不便を買うという奇妙な構図になってしまっています。
さらに言えば、駐車場を利用する層は地方から訪れる家族連れや年配層が多いと想定されます。彼らにとってネット予約や時間管理に対する心理的ハードルは決して低くありません。その層への配慮が全く感じられない運営方針が批判をより強める要因となっているように見受けられます。シャトルバスの予約制が安心して利用できるようにするためとの意図で導入されたのだとしても現実には自由に動きたいという来場者のニーズとは完全に逆行しています。これでは自由を求める人々にとってはむしろ最大の障害となり、結果として公共交通機関の利用に追い込まれるという悪循環を生み出しています。
誰もが気軽に訪れられる万博を目指すなら、移動手段のハードルを高く設定してしまったことは致命的な失策といえるでしょう。駐車場もバスも使いやすさと価格設定のバランスがいかに重要かを痛感させられる事例となっています
次はパーク&ライド方式の不便と利用者の不満についてです。大阪関西万博の交通手段として導入されたパーク&ライド方式は理論上は非常に合理的に見えました。自家用車で近隣の駐車場まで来て、そこからシャトルバスに乗り換えることで会場へスムーズにアクセスできるという構想です。しかし現実はそこに多くの落とし穴が潜んでいました。利用者目線で見た時この仕組みは手間とストレスを買わされる仕組みと言われても仕方がないものになっています。
まず最初に問題となったのは駐車場とバス乗り場との距離です。単に駐車するだけで終わらずバス乗り場までは200m以上も歩かされるケースが少なくありません。炎天下や雨天時を想像してみれば、子供連れや高齢者には相当な負担となることは明らかです。にも関わらず案内やサポート体制は十分とは言えず、行けば分かるだろうという丸投げスタイルが目立っています。これでは利用者にとっては最初から電車で行った方がマシという判断になってしまうのも無理はありません。
さらに駐車場の選定にも問題がありました。舞洲はまだしも堺市や尼崎市といった距離的に離れた場所にパーク&ライド方式(P&R方式)駐車場が設置されています。しかしそれぞれの駐車場と会場までのアクセスが一律に快適であるわけではありません。地域によってはシャトルバスで30分近く揺られなければならないところもあり、時間的ロスや移動の疲労を考慮するともはや便利という言葉からはほど遠いものになっています。せっかく高い駐車料金を払っても待ち受けているのは長時間の移動とストレス。このギャップに多くの来場者が失望感を抱いています。
最も致命的だったのが地域によって駐車場が割り振られるという仕組みです。利用者自身が好きな駐車場を選べるわけではなく居住地などに応じて自動的に振り分けられるため、利便性が悪い場所を割り当てられるとそれだけで移動に無駄な負担を背負わされることになります。
車でのアクセスを選んだ時点ですでに一種の運試しを強いられるようなものです。この点について配慮や救済措置がほとんど設けられていないところにも、運営側の無神経さを感じざるを得ません。私自身P&R方式というものは本来利便性を提供するものだと考えています。普段なら車での移動が便利な人にも、ここまで来たら後は楽という安心感を与えるのが理想です。しかし今回の大阪万博におけるP&R方式はその本質から大きく逸脱しています。
移動距離の長さ、運用の不透明さそして高額な利用料それらが全て重なった結果、利用する価値を感じないという評価につがっています。予約必須という仕組みもP&R方式をさらに使いにくくしている要因のひとつです。
バスの時間を指定しなければならないため道路事情による遅延や思わぬトラブルへの柔軟な対応が難しくなっています。もし到着が少しでも遅れれば予約したバスに乗れない可能性すらある。このリスクを考えればわざわざ予約の手間をかけてまで利用しようという気持ちはますます萎えてしまいます。何より残念なのは利用者がP&R方式に抱いていた期待を運営側がこごとく裏切ってしまった点です。楽に行ける、混雑を回避できるといった前向きな期待が現実には疲れる、待たされる、高いという三重苦に変わってしまったのです。
(全文は8000字弱と長文なため後略。別途動画をご覧ください)
動画URL https://youtu.be/1JshBQWQx40
大阪万博の2億円トイレが使用不能、設計ミスと税金の闇を徹底分析!
動画URL https://youtu.be/Had6ZV-8zlM
幕府の視点 2025年5月5日
2億円トイレが水に流せないものになった瞬間をご存知でしょうか?大阪万博の目玉として設置されたあの西ゲートの「デザイナーズトイレ」がなんと開幕早々から半数が使用不能。理由はまさかの水圧不足です。誰もが首をかしげる構造の配管に現場はすでに撤去検討という末期状態。これが未来の公共インフラの姿だとすればあまりに残酷です。さらに事態をややこしくしているのはこのトイレの設計者が一級建築士でありながら、基本中の基本とされる配管設計に大きな疑問が残る点プロとしての責任はどこに消えたのでしょうか。そして市民の目には外観ばかりを重視した中身のない箱物として映り、ネットでは子供の工作以下とまで酷評されています。その裏に潜む中抜き構造と形骸化した予算管理。なぜ誰も止められなかったのか。本当の問題はトイレの水圧ではなく今の社会が抱える構造的な病かもしれません。今回はこの騒動の裏にある見過ごされてきた論点を丁寧にひも解いていきます。
それでは2億円トイレに潜む、使えないという本質的問題についてから始めましょう。大阪万博の会場に設置されたいわゆる2億円トイレはその名称からも想像されるように、非常に高額な税金が投入された施設です。場所は夢洲の西ゲート付近。利用者の多いゾーンに設けられたこのトイレは当初「デザイナーズトイレ」として大きな話題を集めました。しかし蓋を開けてみれば使えないという致命的な問題を抱え、開幕早々から一部が閉鎖されたままとなっています。利用再開の目処も立っていないまま施設の豪華さだけが虚しく残っています。
最大の問題は設備を全て稼働させると発生する水圧の低下にあります。トイレの半数以上を同時に使おうとすると水が十分に流れず、詰まりが起こる構造になっているのです。この問題は単なる故障ではなく設計そのものに起因するもので、現地の下水処理能力や配管設計の不備が根本にあります。加えて使用されているのはタンクレス型の便器であり水圧依存の設計が災いしています。通常こうした施設では貯水タンクや加圧装置を併用して水流を確保する対策が取られるものですが、それが見当たりません。
つまり万博という国際的なイベントのインフラとしてあまりにも脆弱な設計がなされていたのです。問題をさらに深刻にしているのはこうした欠陥が事前に想定されていなかったという点です。高い金額をかけたからには対応性や使用環境への配慮が当然なされるべきでしたがその形跡は見受けられません。
そもそも夢洲は埋め立て地であり地盤やインフラ設備が脆弱であることは知られていました。水圧や排水に関する問題は事前に対策を講じておくべき基本事項で、それができていなかったという事実は関係者の認識不足を象徴しています。実際にトイレを利用したという市民の声では水がちょろちょろしか出ない、詰まりが怖くて流せなかったといった実感が語られています。
これらの証言が示すのは設計思想と現実の乖離です。訪れた人々にとってトイレは快適さを演出するためのインテリアではなく、日常的な機能を果たすべき生活インフラの一部です。豪華な外観や奇抜な色遣いに関心する余裕などは、用を足す現場では求められていません。必要なのは「使えること」それにつきます。さらに未来指向、芸術性の追求といった建設当初のコンセプトも実際には空回りしています。もし将来的な都市の姿を象徴する施設であるならばなおさら基本性能の確保は絶対条件だったはずです。
ところが実態は開幕から機能不全を起こし、半分が封鎖されるというあり様です。しかも現場に設置されている張り紙は「メンテナンス中」となっていますがそれは単なる言い訳であり、事実上の使用不能状態です。この状況に対して行政側から明確な説明や改善案は示されていません。当初掲げられた世界に誇る最新トイレのイメージとは裏腹に、現実は展示品としても機能しない「失敗作」として見られることが増えているようです。パフォーマンスだけで持続可能な設計や地域インフラへの配慮が欠けていたことが、皮肉にもトイレという生活の最前線で露呈してしまったのです。
高額な費用をかけたにも関わらず設計から施工、現場運用に至るまで全ての段階で誰のための施設かという視点が抜け落ちていた。こうした実態が「これって本当に2億円のトイレなのか」という疑念や怒りを市民に植えつける原因となっています。
次は設計施工の責任問題についてです。今回の2億円トイレ騒動で注目されたのは建築の中核になった設計者つまり一級建築士の存在です。肩書きとしては最も信頼の厚い国家資格であり大型公共プロジェクトにも数多く携わる立場あるはずです。しかしこのトイレに関しては一級建築士とは名ばかりではないかとの声が強まっています。なぜなら施設の根幹に関わる水回りの計算、水や現場環境への配慮不足などあまりにも基本的な設計のズレが露呈したためです
建築士が関与するプロジェクトでは設計段階で使用者数、時間、インフラ環境といった使用上の前提条件を洗い出し、それに基づいた給排水設計や衛生設備の選定が行われます。ところが今回の万博会場では夢州という特殊な埋立て地で下水処理や水圧環境が限られているにも関わらずタンクレス型の便器が採用されました。
水圧が弱い状況ではこうした仕様は機能しにくいことは建築家の常識ですが、そのリスクを回避するための予備設備や補強策は見当たりません。こうなると多くの人が疑問に思うのは本当にプロが設計したのかという点です。中には学生が卒業制作で作ったのではと疑われるほど稚拙な構造という声もあります。
さらに事態を悪化させたのは設計者自身の姿勢です。メディア発表時には堂々とコンセプトを語っていた人物が実際に問題が発覚してからは沈黙を貫いている様子が見られます。公共事業に携わる立場であるならば説明責任を果たすことも含めて本来の仕事なのですが、その点が全く果たされていません。
また設計だけでなく施工や管理体制にも問題があります。今回のプロジェクトは設計・管理施工の責任が明確に分離されていたのか、それとも一括発注の形で曖昧になっていたのかが重要な論点になります。万博協会側が建築士が全部やってくれるだろうと思っていた一方で、建築士側はインフラは提供されている前提で設計したと認識していたとすれば、そこには深刻な情報共有不足があったことになります。責任の押し付け合いが水面下で起こっていたとしても不思議ではありません。
設計における技術的な知識不足や現場無視の姿勢は往々にしてデザイン偏重型の建築に見られます。今回のトイレもその典型で外観や色にはこだわりが見えるものの使う人の視点はまるで抜け落ちていました、トイレは作品ではなく設備です。水が流れる、臭いがこもらない、並ばず使えるといった基本的な要素を満たしてこそ初めて公共建築と呼べるものになります。
ところがこの施設ではその優先順位が逆転してしまっているのです。関係者の中には設計者ばかりを責めるのは酷だという声もあります。確かに上下水道の整備や供給能力は行政や会場のインフラ設計に関わる部署の責任も大きく個人の建築士だけでコントロールできる範囲ではないかもしれません。しかしそれならばなおさら設計段階でのリスク提示や条件交渉を行うのがプロの役割であり、無理な条件であれば断ることも含めて責任を全うする必要があります。
(全文は約8000字と長文なため「後略」。別途動画をご覧ください)
動画URL https://youtu.be/Had6ZV-8zlM