世に倦む日々氏が掲題の記事を出しました。
たまたま原文であるケイトリン・ジョンストンの記事「ガザにおける残虐行為は『欧米価値観』の完璧な具現化」は、30日付の当ブログ記事で紹介しました。
⇒ (23.12.30)ガザにおける残虐行為は「欧米価値観」の完璧な具現化
全訳文をご覧になりたい方はどうぞアクセス願います。
彼女の記事は「マスコミに載らない海外記事」では、常連といえるほど盛んに紹介されていて当方などはこれまでかなり浅い読み方をして来ました。
それに対して「世に倦む日々」氏は初めて接したということですが、ここまで深く読み取るとはさすがです
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欧米的価値観の空虚化、普遍的説得力の喪失 - ケイトリン・ジョンストンの「自己批判」
世に倦む日日 2023年12月30日
読者からメールが届き、8年前に上げた『自由と民主主義を考えるための世に倦む選書15冊』の新版を要請された。こういうご要望をいただくことはありがたいことだ。検討と準備をしたい。実は、今年はプラトンの『国家』を読んで感想文を書こうと考えていた。が、10月に始まったガザ虐殺の衝撃と影響で中断してしまった。フォンデアライエンなどを筆頭とするEUの面々が、臆面もなくイスラエルを支持し、ネタニヤフとイスラエル軍がガザの子どもたちを虐殺しまくるのを平然と正当化する姿を見て、その古典に手を伸ばす気分が失せてしまった。マキアヴェリの『君主論』の書評にも書いたが、欧米の大学が必読書としてギリシャ・ローマの古典を学生に学ばせるのは、それが自分たちの歴史と存在を正当化する基本の思想だからである。
自分たちが世界史の正統であること、ヨーロッパが普遍的であること、その確信と自覚を学生たちに持たせ、その意義と根拠を教授たちも再確認するため、自分たちの古典を精力的に読んでいる。ヨーロッパの知的共同体のサークルに入っている。仲間を固めている。アメリカの大学がセレクトする文献ベスト100の中にアジアの思想書は入らない。わずかに一冊だけ、75位に孔子の論語が入るという程度で、魯迅もガンジーも、新渡戸稲造も丸山真男もない。ドストエフスキーもない。選考の枠外であり、関心の外にある。そんな知的状況だから、マルクス・ガブリエルが日本の経済人に向かって「倫理的資本主義」を説くという滑稽な倒錯が起きるのだ。大塚久雄を知らず、宇沢弘文も知らず、日本経済学のウェーバー研究を知らない。無知なのだ。
前回の記事で、ガザの問題についての不満として「欧州知識界の不全」を挙げた。どうして欧米の学者から正面からの説得的なイスラエル批判が上がらず、知的方面での世論喚起が果たされないのか、特に左派の著名文化人から声が上がらないのか。ずっと訝しく思っていたら、ケイトリン・ジョンストンという初めて名前を聞く論者から本質的で本格的な問題提起が上がっていて、ガザの問題に真摯な関心を持つ界隈で話題になっていた。その内容は、実に、この発言を待っていたと言いたくなるような、膝を打って聞く自己批判(欧米批判)の省察が並んでいる。核心を衝くストレートな響きに共感と爽快感を覚える。豪州のフリージャーナリストらしいが、ほとんど紹介情報はなく、Xのフォロワー数も34万人に過ぎない。急に登場した。こう言っている。
ガザの破壊は、西欧の価値観を守るために行われており、それ自体が西欧の価値観を完璧に体現している。学校で教わるような西洋的価値観ではなく、西洋的価値観が隠しているものだ。ラベルに宣伝文句が書かれた魅力的なパッケージではなく、実際に箱の中に入っている製品。 |
ガザで私たちが目にしているのは、学校で習った自由や民主主義などというちんぷんかんぷんな言葉よりも、西洋文明の本質をよく表している。私たちが何世紀にもわたって誇らしげに自画自賛してきた芸術や文学よりも、はるかに優れた西洋文明の表現だ。私たちのユダヤ教・キリスト教価値観が振りかざしたがる愛や思いやりよりも、はるかに優れた西洋文明の表現なのだ。 |
リベラル派が人種やジェンダーについて進歩的な見解を持つことを自画自賛する一方で、自分たちが選んだ役人たちが軍用爆薬で子どもたちの身体を引き裂く手助けをする。 |
欧米リベラル派の欺瞞を衝いている。おそらく彼女は左派・社会主義者で、反米・反NATOの立場なのだろう。正論だ。こうした意見が欧米で立ち起こらないといけないし、この正論で「反・反ユダヤ主義」の言説を封殺、無力化しないといけない。この主張は、現在の「自由と民主主義の価値観」を相対化するもので、今の欧米人が正統として位置づけるメインストリームの思想性を動揺に追い込むものだが、前にも述べたように、マルクスや社会主義も西欧思想の嫡流の一つである。だから、気後れする必要はない。「自由と民主主義」だけが唯一絶対で標準の西欧思想ではないのだ。それにしても、21世紀の「自由と民主主義」は、19世紀の自己至上主義と二重基準剥き出しの傲慢な西欧啓蒙思想と同質になっていて、欧米が非欧米を支配する佞悪なイデオロギー装置になり果てている。
ジョンストンとほぼ同じ中身の主張を、西谷修が長周新聞に載せている。題名は『アメリカ原理時代の終焉と「脱西洋」の新しい世界』。いわゆる欧米的価値観からの脱却を唱える議論であり、私も同じ発想と心境の列にある。今年は特にその意識を強くさせられた。欧米的な、反省と自制のない利己主義や資本主義に辟易とさせられ、大谷翔平をシンボルとして活用する、アメリカ帝国主義による日本人洗脳工作に憂鬱にさせられる毎日が続いた。美談にしてマスコミが撒いている「全国小学校への野球グラブ3個提供」は、何のことはない、NBの宣伝マーケティングであり、日本の市場からミズノやSSKを放逐するための狡猾な策略だ。国産メーカーを潰すため、アメリカ企業のために大谷翔平と日本マスコミが一役買っている。そうした暗鬱な気分の中で、私の中では司馬遼太郎の価値と意義がどんどん輝いて行った。
今年読んだ本の中で最も印象に残り、感銘を受けた一冊は、司馬遼太郎の『覇王の家』である。この本の中で司馬遼太郎は、繰り返し、人は幻想を持って生きる存在だと言っている。世の中がこうなって欲しい、こう変わって欲しいという願望を人は持ち、それが実現するという希望の下に将来像を描き、その主観的展望を前提に個々が生きていると言うのである。それに依拠して日々を暮らしている。幻想から無縁な人間は一人もいないと言い、唯一、その例外が家康で、リアリズムに徹していたと断定する。私は、その家康論が正しいかどうかは分からない。家康もそれなりの独自の人間観と社会的理想を持ち、それを政治的に追求した一人だと思うが、前段の「人は幻想を持って生きる」という部分はまさに真理そのものだ。そして、この司馬遼太郎の人間論とネグリ(⇒イタリアの哲学者、政治活動家)の言葉とは私の中で符牒が合う。ネグリはこう言っている。
現在は来るべきものの観点からしか読解し得ない。すなわち、未来への傾向を内含する現在のなかに潜り入ることでしか読解し得ない。我々にとって common は結果としてだけではなく条件としても現れるのだ。常に再び始まるものはたった一つしかない。それは革命である。 |
今年、イスラエルによるガザ虐殺に抗議して、世界中で大規模な群衆デモが頻発した。ロンドンでは30万人が集まって空前の絵を作った。あのデモは何なのだろう。どういう意味の政治運動だと考察できるのだろう。微分的に理解すれば、イスラエルのガザ虐殺に抗議し反対する集会だ。だが、積分的に解釈すれば、もっと深くて大きな動機と論理が看取される。それは、ケイトリン・ジョンストン的な(欧米市民自身による)悲痛な告発と自責であり、さらには、ネグリ的な契機を内包させた革命運動だろう。革命とは、単に政治権力の変動のみならず、社会の価値観の根本的な転換を伴う政治体制の変革を意味するのだと、丸山真男が概説していた。今年秋に世界で起きたデモは、価値観の転覆を掉さすものだ。現在の支配的な価値観(欧米主導の自由と民主主義)に異議を唱え、その虚偽と悪意を暴露し、抵抗して刷新を求める民衆の動きだ。
今年、私の中で価値と意義を浮上させたのは、正直に、司馬遼太郎とゲバラとホーチミンである。20世紀らしい人たち。私と同い年の森永卓郎は、膵臓がんのステージ4となった。健康寿命という言葉は、森永卓郎に教えてもらった記憶がある。そこに未到達なのに、彼は厳しい局面に立ち至った。日本の男性の健康寿命は72.7年。数字は、80歳を超えても薬なしの健康生活を送っている者が多い一方で、60代後半で要介護生活を送っている者が少なくない現実を示している。1年が経つのはあっと言う間で、年を追う毎に身体が弱くなる。医者に処方される薬が増えて行く。高齢者は本当に個人差が様々だ。そして、誰もが衰えながら最後は死ぬ。夢が現実化することはない。幻想は幻想だろう。死までの時間と速度を想像すれば、前世紀の偉人たちの幻想(理想)を否定せず、コミットする態度を維持することは意味のないことではあるまいという気分を抱く。
今回の事態の前から、パレスチナ国旗は世界の左派のデモにおいてゲバラと同じ意味のアイコンであり、同じメッセージを表現していた。帝国主義に抑圧される側の反抗の所在をラディカルに世界に訴えていた。今年、久しぶりに、8年ぶりにデモに出て街頭を歩いた。日比谷公園から銀座まで。人数は少なかったが、先頭付近に元気のいい外国人集団がいて一緒に歩いた。彼らは「パレスタイン」と発音する。「フリー・フリー・パレスタイン」。