2016年1月26日火曜日

母子3人犠牲の1977年横浜・米軍機墜落 語り継ぎ…最後の冊子

東京新聞 2016年1月25日 
 一九七七年、横浜市緑区(現青葉区)の住宅街に米軍機が墜落し、母子三人が死亡、六人が重軽傷を負った事故の「その後」を伝え続けてきた地元の市民団体が、冊子の発行を終える。メンバーの高齢化で、活動を縮小せざるを得なくなった。中心メンバーの斎藤真弘さん(74)は、犠牲者の命日に当たる二十六日、事故に関わる年表をまとめた最後の冊子を発行する。 (宮畑譲)
 
 事故は七七年九月二十七日発生。現場近くに住んでいた斎藤さんが翌日、騒ぎを聞いて駆けつけると、まだ全焼した民家から煙や蒸気が上がっていた。現場を調べる米兵の姿もあった。
 「当時は単なるやじ馬根性でした」。だが、現場を知る目撃者として、地域学習をする中高生らの案内などをするうち、被害者支援や事故を伝える活動に携わるようになった。
 事故の九年後、現場写真などを集める「横浜米軍機墜落事故平和資料センター」を他の支援者らと発足。四十ページほどの冊子を発行、学校や図書館への配布を始めた。
 
 タイトルはテーマごとに変え、市民や詩人らから寄せられた追悼の詩歌を特集した「詩歌集 痛恨」(二〇一一年九月号)や、事故の哀悼劇公演などのセンターの足取りをたどった「今、ハトポッポの歌が聞こえますか」(一二年九月号)など、これまでに十冊ほどを発行してきた。
 だが、発足三十年を迎え、約十人のメンバーが高齢化。冊子の編集が難しくなり、今後は斎藤さんが一人で活動を報告するチラシを発行する。
 
 集大成となる今回の年表では、事故で重傷を負った女性の夫が八〇年に国を訴えた裁判や、犠牲になった母子三人の遺族が全国の募金などで八五年に像を建てたことなど、事故に関する動きをまとめた。事故当時の写真や追悼イベントの写真も掲載した。
 昨年九月に集団的自衛権行使を可能にする安全保障関連法が成立したり、首都圏の空にオスプレイが飛ぶようになったりと、日本で米軍の存在感はどんどん大きくなっている。「事故当時よりも状況は悪くなっていると感じる。事故や戦争がまた起きてもおかしくない」
 年表の発行日を二十六日としたのは、その日が母子像になった母親が事故の四年四カ月後、闘病生活の末に亡くなった命日だから。斎藤さんはその日、港の見える丘公園(横浜市中区)に立つ像を訪れる。これまでは命日に像の前で朗読劇などが開かれたが、今年は特に行事の予定はない。事故の風化が気にかかるが、「自分ができる範囲で」と慰霊とチラシの配布は地道に続けていくつもりだ。
 
 年表は希望者に五百円(送料別)で配布する。問い合わせは斎藤さん=電045(933)3954。
 
<横浜の米軍機墜落事故> 1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地から洋上の空母に向けて飛び立った米軍機が離陸後間もなく横浜市内の住宅地に墜落、炎上。死傷者9人の大惨事となった。土志田和枝さんの長男=当時(3つ)=と次男=同(1つ)=は事故直後に死亡。和枝さんは大やけどを負い、皮膚移植の手術を繰り返したが、事故から4年4カ月後、呼吸困難のため31歳で死亡した。脱出して無事だった乗員の米兵2人は刑事告訴されたが不起訴となった。
    この事故では、重傷を負った女性の夫が乗員の米兵と国を相手に提訴。裁判の過程で、国側は事故原因について「整備不良だが、故障は予期できなかった」とする文書を提出した。87年、横浜地裁は賠償責任を認め、国は男性に約4600万円を支払った。