世に倦む日々氏が掲題の記事を出しました。 *エバンジェリズム=宣教
同氏は、読売新聞によれば高市新内閣の支持率は71%で、左翼論者のXを見ると悲嘆し絶望的な反応を示している者もいるが、発足時の支持率が高かった政権は、その後に世論が失望して支持率が急落することが頻繁で短命政権で終わった例が多い…と書き出し、タカ派丸出しで突っ走る高市政権は構造的に不安定な少数与党であり、野党が内閣不信任案の攻勢をかけたとき、巧く収拾・克服できない進行になり易く、またいつでも維新が裏切って玉木雄一郎を首班とする立憲・公明・国民・維新の政権に転覆しかねない構造的危機を孕んでいると述べます。
また公明党の斎藤代表が党の会合で 自維連立政権が憲法9条改正の協議体設置を政策合意書に明記した点に懸念を示したことを紹介し。同党が護憲勢力として戻って来たのは率直に頼もしく思うとして、公明党・創価学会はもともと憲法9条を重視する平和勢力だったが、「あの忌まわしい『政治改革』で小選挙区制導入という愚挙を犯すことがなければ、公明党は政権を批判する健全な野党として独立に存在し中道の存在意義をよく発揮できただろうと述べ、同制度の導入を仕掛けた「山口二郎の罪は万死に値する」と述べます。
そして「いま米国では18世紀半ば以来5回目の大覚醒運動の時代に入り、キリスト教徒として目覚めるという宗教運動が起こっていて、科学的合理主義の精神から離れている」し、「フランスでもキリスト教の洗礼を受ける若者が増えていて、25年は前年比45%増の1万人以上の青年が洗礼を受ける予定で、同国の若者が自国の宗教的伝統を発見し、教会や聖書に接近し、信者となる動きに繋がっている」など、明らかに「世界は宗教の濃度を増している」と述べます。
そうした傾向は「端的に言えばリベラリズムの支配が限界を迎えているため、それ(新自由主義の矛盾と惨禍と絶望)を超越する思想が求められて、〝共通善″(コモングッド)の正義への志向に人々が惹き寄せられているから」であるとします。そして、「端折って言うなら日本の政治勢力の中で、本来的な思想が最もリベラリズムから遠く、コミュニタリアニズム(共同体主義)に近いのが公明党・創価学会であり、日本共産党だと言える」として、「世界の思想の潮流は〝共通善″を奉じる公明党と共産党を新しい政治の主役として指名している」と述べ、「公明党・創価学会が純粋に原点に立ち返り、宗教的倫理を燃焼させ、エバンジェリズムを再開させ、リベラリズムとの対決軸を屹立させ、自らの政治哲学の価値を再興することを期待する」と結びます。
注 〝共通善″の思想はアリストテレスに由来しているということです。
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公明党・創価学会は原点の政治哲学に即け -〝共通善"の価値のエバンジェリズムを
世に倦む日日 2025年10月26日
10/22 に自維連立による高市新政権が発足した。マスコミは「憲政史上初の女性総理」だの「我が国初の女性首相」だのと大騒ぎし、朝から晩まで高市早苗の奉祝報道と与野党の動きばかりでテレビを埋めている。同じ政治評論家(肩書きは記者や元記者や学者だが)が出ずっぱりで、軽薄で空疎な床屋政談をだらだら続けるばかりだ。高市早苗を無闇に美化した粉飾塗れの経歴紹介が幾度も流れ、新内閣の支持率上昇に貢献する放送が途切れない。第二次安倍内閣が始まった13年前と同じ〝祭り”の調子で、気分が悪い。右翼が狂喜乱舞し、公明党を袋叩きにし、少しでも高市を批判した者を血祭りに上げている。マスコミとネットを上げた右翼の祝祭行事に全員が付き合わされている。無内容な政治報道の視聴は、不毛な消費そのもので、粗悪な社員食堂の定食を毎日食わされている感じだ。番組に出演する人間だけが愉しんでいて、何の政治解説にもなってない。
10/22 夜に発表された読売新聞の世論調査では、高市新内閣の支持率は71%で、歴代5位の結果となった。この数字は事前に予想されたもので、特に驚きはなく、衝撃は全く感じない。これだけ奉祝報道で騒ぎ、美化礼賛しまくり、大衆の「期待」を煮詰めて仕込んだら、この程度の打ち上げ花火の絵にはなるだろう。左翼論者のXポストを見ると、悲嘆して絶望的な反応を示している者もいるが、私は少し違う。具体的に言うと、発足時の支持率が高かった政権は、その後に世論が失望して支持率が急落する場合が屡々で、短命政権で終わった例が多い。発足時支持率が65%以上あった内閣で、順調に長期政権となったのは小泉内閣と第2次安倍内閣の二つだけだ。歴代2位の鳩山内閣は9か月、歴代3位の菅義偉内閣は1年、歴代4位の細川内閣は8か月で終わっている。内部で揉めると崩れるし、支持率が低いと選挙前に首を挿げ替えるべく自民党内の動きが始まる。
高市内閣は少数与党であり、政権の基礎が不安定なのが特徴だ。自民と維新の新連立は初の試みでもある。自民と維新の議席数を足しても過半数とならず、何かの局面で野党が内閣不信任案の攻勢をかけたとき、よほど政権が堅固に結束し、柔軟に対応しないと巧く収拾・克服できない進行になるだろう。この連立政権の体制は、実はいつでも維新が裏切って、玉木雄一郎を首班とする立憲・公明・国民・維新の政権に転覆しかねない構造的契機を孕んでいる。玉木はその色気十分で、自分が出世する機会に飢えている。野党は、内閣不信任案の武器を有効に使って国会運営で高市政権を揺さぶり、弱らせ、追い詰めることが可能だ。醜聞や答弁の失態を衝きつつ、支持率を下げる展開を作りやすい。公明党が自民党と組んでない、支えてないという26年ぶりの事態は、与党政権の地盤が弱くなり、永田町が流動化しやすくなった図に他ならない。タカ派丸出しで突っ走る高市政権は構造的に不安定なのだ。
10/23、斎藤鉄夫が党の会合で、自維連立政権が政策合意書で憲法9条改正の協議体設置を明記した点に懸念を示したと報道された。公明党が護憲勢力として戻って来た感があり、率直に頼もしく思う。高市シンドローム禍で市民が憂鬱に沈む中、一筋の光明が差す朗報となった。公明党・創価学会はもともと憲法9条にコミットする平和勢力だった。あの忌まわしい「政治改革」さえなければ、小選挙区制導入という愚挙を犯すことがなければ、公明党は政権を批判する健全な野党として独立に存在し、保守と革新の間で中道の存在意義をよく発揮できただろう。山口二郎と佐々木毅と財界・マスコミが「政治改革」を上から仕掛け、日本社会党を潰して日本共産党を政界から締め出す奸計を成功させ、「二大政党」以外に存続できない制度に改造したため、日本は「保守政治」の路線と勢力だけしか生存できない体制になった。革新政治は「政治改革」によって潰されてしまった。山口二郎の罪は万死に値する。
公明党は生き残りのために「下駄の雪」となり、小泉政治と安倍政治を推進し防衛する悪の一翼に転化した。右へ右へ不断に旋回し、日本政治を保守反動化させ、日本経済を新自由主義化する槓桿となった。もし「政治改革」がなく、公明党が中道野党のままだったら、日本の最低賃金は今頃諸外国並みに2000円を実現していただろう。日本のGDPは諸外国並みの成長を続け、今頃1000兆円を超えていただろう。国会の中が青バッジ族だらけになることもなく、ネットの中が右翼で充満することもなく、中国との関係が戦争必至の状態になることもなかっただろう。テレビやネットで、何で日本の最低賃金は欧州諸国の半分なんだと、どうしてそうなったんだと、ときどきそういう声が上がる。嘗て、欧州諸国よりも日本の賃金が高く、日本は何でも expensive (⇒高価)だと外国から言われていた時代を覚えている者は、問いの答えを明快に言わないといけない。「政治改革」さえやらなければこんな地獄にはならなかった。
無論、創価学会・公明党の支持層の中も多様であり、上層の部分はアベノミクスで恩恵を受けた者がいるだろうし、長期間の与党暮らしで利権を得て美味い汁を吸い、人生の成功に安住している者も多いだろう。けれども、いま投票している500万人の全てがそうではないはずだし、この数年間に公明党支持から離れた300万人はそうではあるまい。格差と呼ばれる貧富の差が広がる現実を厭悪し、中産階級の王国だった日本に郷愁を覚え、平和主義から離れて軍国路線に傾き染まる日本に眉を顰める人々だったに違いない。よく言われるのは、共産党支持者と公明党支持者とは層が重なっているという指摘だ。その裏返しの表現として、公明党がよく吹聴した言説として、われわれのおかげで共産党の伸長を阻止できたのだという「存在意義」の主張があった。実際、経済的定在としては、マルクス的な土台の意味では、二つは層として被っていただろう。つまり、本来は共産党に選挙で入っていい票を公明党が横から回収していたと言える。
本来なら、格差拡大に反対し、軍国化路線に反対し、対中協調外交に舵をとれと言い、安倍政治に反対する意思を選挙で示し、日本の政治を適正にバランスすべき批判勢力の票が、逆に安倍政治を支持し推進する槓桿となって作用したため、こんな惨状に結果してしまった。まさに矛盾であり、上部構造における(観念経由の)倒立であり、不完全な人間の為せる倒錯現象と言うしかない。公明党の中で、この問題についての議論は絶えずあっただろう。公明党は地域で利権と地位を得て「成功」に酔えたかもしれないが、創価学会は新しく入信する青年層を失い、入信者を獲得して組織を維持拡大するモチベーションとエネルギーを失った。何のための宗教団体かも分からなくなった。池田大作も死に、後継カリスマの登場もなく、このままでは組織の衰退と死滅しかない。本来、教義は貧困と格差に苦しむ低所得層に救済と社会改造の道を説き、賛同し帰依する若者を増やし、政策実現の政治運動へ誘う回路と行程になっていた。半世紀前はこうして拡大した。
私は公明党に注目していた。左翼一般は公明党・創価学会に侮蔑の視線を送るだけで、最初から論外と決めつけ、意味ある政治的対象として認識しない。弁証法的な視角でアプローチしない。「ナンミョー様」などと、差別と偏見を当然視した態度でいる。私が注目した理由は、彼らがネット世界に姿を現さない点にあった。ネットが本格的に立ち上がって24年ほどになる。自公連立の期間と重なるが、公明・創価はネットを活用せず距離を置いていた。ネットの普及が進み、ネット時代になればなるほど、全てがネットに吸引・統合され、ネットがベースとなりプラットフォームになった。何もかもネットで活動する世界に変わり、政治の闘争現場もネット空間に移った。新興政党はネットで支持者を集め、既成政党も負けじとネット戦略を工夫する。そのためネットの中には、各政党の得票率と同程度の割合の支持者の音量が響いて交錯する。だが、例外的に公明党だけは音無しだった。興味深い事実だった。
さて、会田弘継によると、いまアメリカは18世紀半ば以来5回目の大覚醒運動の時代に入っていると言われている。アメリカ人(主に白人)がキリスト教徒として目覚めるという宗教運動が起こっていて、牧師の言葉に頷き、聖書の言葉を信じる信仰者となり、自己を生まれ変わらせる精神現象が大規模に起きているらしい。福音派の台頭と政治的影響力の強大化がまさにその断面で、トランプ劇場はその結果だ。福音派(プロテスタント)だけでなく、カトリックの影響力も増して大きな潮流を作っていると言う。アメリカ人が、前世紀・前々世紀のキリスト教徒に戻っていて、科学的合理主義の精神から離れている。トランプの大学敵視策も、重商主義的関税策も、気候変動やワクチンへの懐疑も、ガザ大虐殺の黙認も、この問題が関係している。狂気と錯乱に見えるアメリカ現実政治の裏側に、科学的な知性や思考や判断から離れ、宗教に覚醒し聖書にコミットした大勢のアメリカ人がいることを想像すると、腑に落ちないでもない。
内田樹が紹介した柳澤田美の話によると、フランスでもキリスト教の洗礼を受ける若者が増えていて、25年は前年比45%増の1万人以上の青年が洗礼を受ける予定だと言う。イスラム教徒が社会に増えていて、その信仰と実践を目の当りにしたフランスの若者が、それへのリアクションとしてフランスの宗教的伝統を発見し、アイデンティティを探し求め確かめる動機から教会や聖書に接近し、信者となる動きに繋がっているようだ。当然、アメリカの「大覚醒運動」や米国カトリックの興隆が影響しているだろう。この事実はショックである。フランスは政教分離が厳格な国で、1905年の政教分離法(ライシテ法)に基づき、公立学校内でイスラム教徒のスカーフやキリスト教徒のロザリオなどの着用が禁じられている。フランス国家が宗教に対してこうした断絶の態度をとるのは、やはりフランス革命以来の思想的伝統があり、フランスの基本は近代の合理的精神にあるという原理原則が前提としてあるからだろう。つまり、フランス人は宗教から遠いのだ。
明らかに、世界は宗教の濃度を増している。何がそうさせるのか。それは、結論を言えば、リベラリズムの支配が限界を迎えているからだ。リベラリズムを否定し超越する思想が求められ、共通善(コモングッド)の正義への志向に人々が惹き寄せられているからだ。資本主義(新自由主義)の矛盾と惨禍と絶望がそれを媒介している。この問題は別途詳論したいが、端折って言うなら、日本の政治勢力の中で、本来的な思想が最もリベラリズムから遠く、コミュニタリアニズム(⇒共同体主義)に近いのが公明党・創価学会であり、日本共産党だと言える。二つの党はアメリカの自由主義から無縁である。従って思想的観点から言えば、この二党は今こそチャンスなのだ。福音派はエバンジェリカルズと呼ばれる。エバンジェリズムとは宣教の意味である。創価学会の言葉に変換すれば、折伏だろうか。公明党・創価学会が純粋に原点に立ち返り、宗教的エートス(⇒道徳・倫理)を燃焼させ、エバンジェリズムを再開させ、リベラリズムとの対決軸を屹立させ、自らの政治哲学の価値を再興することを期待する。
世界の思想の潮流は、共通善を奉じる公明党と共産党を新しい政治の主役として指名している。
「湯の町湯沢平和の輪」は、2004年6月10日に井上 ひさし氏、梅原 猛氏、大江 健三郎氏ら9人からの「『九条の会』アピール」を受けて組織された、新潟県南魚沼郡湯沢町版の「九条の会」です。