マーシャル諸島共和国のロンゲラップ島は、日本から南東へ約4000km、グアムとハワイの中間の太平洋上に位置します。1954年3月1日に行われた水爆実験の爆心地からは150kmも南に離れていましたが、それでも風向きの関係で「死の灰」を浴び、胎児を含む全島民80人あまりが被曝しました。そしてようやく3日後にアメリカの駆逐艦によって島から脱出することができました。
3年後になぜか米国がいち早く「安全宣言」を出したので、被曝時に島にいなかった人を含め島民250人が島に帰りました。島民たちは帰島後も「アメリカは治療もちゃんとしてくれず、島の汚染状態も正確に教えてはくれない」と、核の恐怖に怯えながら暮らしました。
そして甲状腺異常が発見され、脳障害や白血病、ガンなどで死ぬ人もでて、さらに心臓や脳に障害がある子供が多く生まれました。
そんな中、「ロンゲラップ本島の残留放射能は、核実験場だったビキニ環礁と同レベルである」という1978年の調査結果が、1982年になってアメリカエネルギー省(DOE)から発表されました。とても住めるところではなかったのです。被曝から30年あまり経った1985年に、「これからの子供たちのために」と当時の島民約320人全員が南に200キロ離れた別の島に移りました。
その後1998年から米国政府は汚染されたロンゲラップ島の表土の除去を開始し、インフラを整備し住宅を40戸建てました。しかし除染は住宅エリアのごく一部分だけで、その汚染土は滑走路の下などに埋めるという方法でした。
この環境整備が終わると「放射能濃度の検査でも安全が確認された」として米政府は再び27年ぶりの帰島を求めました。島民らは2年前から帰島への話し合いを重ねていますが、村長や世帯主の6割以上は賛成しているものの、米政府への不信感が根強くて帰島をためらう人も多数いるということです。
東京新聞が企画展「マーシャルは、いま-故郷への道」を報じています。
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水爆実験から58年 マーシャルの人々追う 江東で企画展
東京新聞 2012年10月29日
米国が中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で1954年に行った水爆実験で被ばく、離島したロンゲラップ島民の姿を伝える企画展「マーシャルは、いま-故郷への道」が都立第五福竜丸展示館(江東区夢の島)で開かれている。現在、米政府から帰島を求められ、岐路に立たされている島民の苦難の道のりを、40年にわたり現地を取材しているフォトジャーナリストの島田興生さん(72)の写真などで浮き上がらせる。 (小林由比)
ロンゲラップ島民は、胎児を含む86人が被ばく。一時移住したものの、米政府は3年後に「安全宣言」して帰島させた。帰島後、甲状腺異常や白血病、生まれてくる子どもの障害などが増加。米政府への不信感は高まり、85年に約320人の全島民が離島した。米政府は安全宣言を見直し、調査や除染、インフラ整備を始めた。
環境整備が終わり、放射能濃度の検査でも安全が確認されたとして米政府が27年ぶりの帰島を求め、島民らは2年前から帰島への話し合いを重ねてきた。5月の村の調査では6割以上の世帯主が賛成、村長も帰島を呼び掛ける。しかし、過去の歴史から米政府への不信感は根強く、帰島をためらう人もいる。3月と6月に訪問した島田さんは、「島民の間で賛否が分かれ、とげとげしい雰囲気があった」と話す。
企画展は、13歳で被ばくしたリミヨ・エボンさん(72)の証言を盛り込んだ年表で、マーシャルと核とのかかわりを伝える。ロンゲラップから移住した先のメジャト島で少しずつ生活基盤をつくり、暮らしを取り戻す人々の姿を写した写真も展示している。
島田さんは「島民たちはかわいそうな被害者というだけでなく、マーシャル人なりの戦いで家族を守り抜いてきた。核開発のいけにえとも言える彼らの生きてきた歴史を伝えていかなくては」と話す。
11月3日午後2時から、島田さんのスライドトークがある。無料。