2014年1月3日金曜日

「沖縄100人委員会」仲井真知事に抗議の声明

 「沖縄の平和創造と人間の尊厳回復を求める100人委員会」が12月28日、辺野古への新たな軍事基地建設を容認した仲井真知事への抗議声明を出しました。
 
 声明は仲井真知事に対する激しい怒りに満ちていて、もはや、私たちの代表たる知事の座に座る資格はないとしています。
 
 Peace Philosophy Centre 2013年12月29日付より転載します。
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新たな軍事基地建設を容認した仲井真知事に満腔の怒りをもって抗議する
Peace Philosophy Centre 2013年12月29日より転載
12月25日、「100人委員会」は、知事のこれまでの公約及びしっかりとした言動から埋め立て不承認に期待をしながら、知事を支えるつもりで県庁に要請行動を行った。それが今、もろくも崩れ、仲井真県政そのものに対する信頼を完全に失った。これまでの言動は何だったのか? 多くの県民も同じように裏切られた情けなさの中で沸々とした怒りがこみあげてきていると思う。驚きを通り越してあきれたという巷の声が、多くの沖縄の人の心根を代弁すると共に、テレビの前で悔しさと怒りの涙を流す、子ども連れの若いお母さん姿も、私たちと同じく如何ともしがたい心情を表出していると思う。
 
知事のこのような姿勢は沖縄の歴史に新たな屈辱の上塗りをしたといえる。沖縄ではこれまで、強制的に建設された基地はあっても、自ら新たな基地建設を招いたことはなく、県民は抵抗の姿勢をしばしば見せてきた。沖縄の先人たちは沖縄の現状を見て何と思うのだろうか?沖縄の地で眠る沖縄戦での無念の死没者たちは、知事と同じように政府に感謝しているとはとても思えない。沖縄戦から70年近く経つが、その間、断続的に米軍の出撃基地として戦争や軍事演習が続き、多大な被害を内外にもたらし、沖縄に平和が訪れたと落ち着いて実感することがない。
 
「日本復帰」で日本政府に期待した米軍基地からの解放は、逆に米軍の「銃剣とブルドーザ」に代わって、「法的銃剣とブルドーザ」というべき日本政府による基地の強制使用が相次いだ。
 
辺野古新基地を建設するということが何を意味しているのか?軍港機能も備え、100年以上の使用に耐えるような最新鋭の機能をもった基地は、米軍だけでなく自衛隊の共同使用まで見据えている。それはとりもなおさず、東アジアでの戦争・紛争に即応態勢をもくろむものであり、68年前、「国体護持」の捨石にされ、多大な被害を蒙った沖縄戦再来の危機に、私たちを晒すものである。仲井真知事の「辺野古埋め立て承認」というのは、これまでの帝国日本による被害、米軍占領による被害、日米両政府による被害の歴史だけでなく、沖縄自らが被害の歴史をつくることになる。
 
仲井間知事はこのことを理解せず、今回の埋め立て承認によって、今後何十年も基地負担が続くことを容認し、将来の世代をさらに苦しめ、基地から逃れられない中毒状態にするもので、沖縄住民の人間の尊厳を失わしめるものである。
 
11月下旬、自民党政府の恫喝による県内移設への公約転換をさせられ、まるで「罪人」のように頭をたれていた県選出自民党国会議員の姿といい、今回の概算要求超えの予算回答に諂(へつら)いながら感謝し、あろうことか「良い正月を迎えられる」と、辺野古埋め立て承認を表明する知事の姿といい、いずれも私たち沖縄県民の代表として、人間の尊厳を辱められた感さえあり、私たち自身が耐えられない侮辱・屈辱を受けたのである。仲井真知事には、このような惨めな沖縄の姿がみえないということは、もはや、私たちの代表たる知事の座に座る資格はない。
 
ここに沖縄県民を平和な生活から遠ざけ、県民の人間の尊厳を失わしめるような、知事の新基地建設に向けた判断に対して、怒りをこめて抗議する。
2013年12月28日
沖縄の平和創造と人間の尊厳回復を求める100人委員会