2024年11月4日月曜日

米国の有力メディアもウクライナの敗北を認めざるをえなくなってきた

 櫻井ジャーナルが掲題の記事を出しました。

 ウクライナは2000年の冒頭から米国の戦略上の恰好の地として狙われ、途中ではウクライナ国民の反対によって本来あるべき姿に押し戻された時期もありましたが、それが2013~14年にかけて強引にクーデターを仕掛けられ、以後は完全に米国に牛耳られたまま2022年2月にウクライナ戦争開始を迎えました。

 併せて「ウクライナで敗北した欧米はモルドバとジョージアで新たな工作」を紹介します。
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米国の有力メディアもウクライナの敗北を認めざるをえなくなってきた
                        櫻井ジャーナル 2024.11.04
 アメリカでは軍も情報機関もウクライナ戦争を膠着状態と表現することはできないと判断しているという2004年に「オレンジ革命」を仕掛け、2013年11月から14年2月にかけてネオ・ナチを利用したクーデターを実行したネオコンに敗北が迫っていることをアメリカの有力メディアも否定できなくなってきたようだ。
 ウクライナ軍は東部戦線でロシア軍に押されて後退、クルスクに攻め込んだ部隊も壊滅状態。1万人から3万人が軍事侵攻、さらに増派したと見られているが、すでに3万人程度が戦死したと言われている。2022年2月から戦死したウクライナ兵は50万人とも言われているが、実際は100万人に達していると推測する人もいる。

 西側メディアはウクライナ軍の戦死者数はロシア軍の半分だと戯言をいまだに主張しているが、実際はロシア軍の10倍程度だと見られている。ウクライナでは街中で男性が拉致され、ろくな訓練をせずに戦場へ送り込まれ、数日から数週間で80%以上が死亡しているという。
 ウクライナでの戦闘はロシアの生産力が西側を圧倒していることも明らかにしている。アメリカ政府の命令に従ってきたEUの経済悪化は深刻で、これまでその経済を牽引してきたドイツではフォルクスワーゲンが国内の少なくとも3工場を閉鎖、数万人の従業員を解雇すると伝えられている
 それに対し、ロシアでは外国資本の撤退が追い風になり、国内の企業が急成長、社会生活に変化は見られない。その様子はロシアに住む外国人がインターネットで伝えていたが、タッカー・カールソンも報告していた彼はロシアのウラジミル・プーチン大統領をインタビューしているが、それ以上にモスクワのレポートは西側の人びとに大きな影響を及ぼしたかもしれない。


ウクライナで敗北した欧米はモルドバとジョージアで新たな工作
                         櫻井ジャーナル 2024.11.03
 アメリカ政府はジョージアとモルドバが自立するのを防ごうと必死のようだ。ジョージアでは2003年11月の「バラ革命」を経てヘイル・サーカシビリ政権が登場したが、その新自由主義的で反ロシア的な政策が人びとを不幸にすることを国民は知り、アメリカ離れを起こしている。モルドバも同じ道を歩み始め、その親米政権を維持することは難しい情勢になっているが、ウクライナでの敗北が決定的になっているアメリカとしては、新たなロシア侵略拠点としてジョージアやモルドバを重視しているはずだ。












 サーカシビリの経歴を調べると、1994年にコロンビア・ロー・スクールで学び、翌年にはジョージ・ワシントン大学ロー・スクールに通っている。その後、ニューヨークの法律事務所パターソン・ベルクナップ・ウェッブ・アンド・タイラーで働き、そこでエドゥアルド・シェワルナゼの下で働いていた旧友に誘われて政界入りしたとされている。アメリカの支配システムの中から出てきた人物だと言えるだろう。
 サーカシビリは2008年1月から大統領を務めたが、その年の8月に南オセチアを奇襲攻撃、ロシア軍の反撃でジョージア軍は完敗した。そのジージア軍に兵器を供与、兵士を訓練していたのはイスラエルとアメリカだったことは本ブログで繰り返し書いてきた。

 ウクライナでクーデターが始まった2013年11月にサーカシビリは大統領を辞め、18年12月から大統領を務めているのが親米派のサロメ・ズラビシビリだ。
 この人物は1952年にフランスのパリで生まれ、1974年にフランス外務省へ入っている。2003年から04年にかけての期間、ジョージア駐在大使を務めたが、2003年11月にジョージアでは「バラ革命」が引き起こされ、サーカシビリが実権を握っている。サーカシビリと連携していたことは間違いないだろう。
 ウクライナへNATOを侵攻させるため、ネオコンをはじめとするアメリカ/NATOの好戦派は2013年11月から14年2月にかけてネオ・ナチを使ったクーデターを実行したが、東部や南部をはじめクーデターに反対するウクライナ人は少なくなかった。軍や治安機関の約7割は新体制を拒否、クリミアの場合は9割近い兵士が離脱したと伝えられている。そこでロシアと戦う態勢を整えるための時間が必要だった。そこで出てきたのがミンスク合意だ。

 アメリカ/NATOは兵器の供与や兵士の育成などに8年かけ、ドンバスに要塞線を築いた。マリウポリ、マリーインカ、アブディフカ、ソレダルの地下要塞を結んでいたのだが、今年2月にアブディフカが陥落、要塞線は崩壊。東部戦線でウクライナ軍は圧倒されはじめた

 今年8月6日にウクライナ軍は外国人傭兵を含む1万人から3万人ほどの兵力でロシアのクルスクへ軍事侵攻したが、惨憺たる状況だ。当初、クルスクには国境警備隊しかいなかったことから装甲車両を連ねたウクライナ軍に攻め込まれたが、すぐにロシア側は航空兵力で反撃を開始した。ウクライナ側は傭兵を使うだけでなくドンバスから部隊をクルスクへ移動させ、虎の子の機械化部隊を投入したのだが、壊滅状態で、ドンバス戦線ではロシア軍の進撃スピードが速まっている。
 ロシアのセルゲイ・リャブコフ外務次官によると、ロシアがサンクトペテルブルクで海軍記念日のパレードを開催した7月28日、勢揃いした要人を暗殺しようという計画があったという。この計画が成功していたならロシア国内が混乱する可能性は高く、それに乗じてロシアへ攻め込むつもりだったのだろう。

 クルスクの西側にあるブリャンスクでは約20人の部隊が侵入、ロシア側の反撃で侵入部隊のメンバーは死傷したのだが、死亡した4名の出身国はアメリカ、カナダ、ポーランドで、ひとりはアメリカ陸軍の第75レンジャー連隊第2大隊の入れ墨をしていた