2026年7月17日金曜日

17- シリーズ イチからわかる憲法9条 第3部 平和国家のルール(1)~(4)

 シリーズ「イチからわかる憲法9条」の第部 平和国家のルール(1)~(4)
を紹介します。
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イチからわかる憲法9条 第3部 平和国家のルール1「専守防衛」
 自衛隊と〝併存″のため
                        しんぶん赤旗 2026年
 1960年1月の日米安保条約改定で、日米共同作戦条項(第5条)が加わり、78年の日米軍事協力の指針(ガイドライン)策定などを通じて、自衛隊の増強と日米の軍事一体化が加速します。
 一方、50年代に企てられた明文改憲が挫折に追い込まれたことで、①戦争放棄 ②戦力不保持 ③交戦権否認-を掲げた憲法9条と日米安保、自衛隊の矛盾も激化していきます。60年代に入ると相次ぐ憲裁判や、国会での共産党や社会党の厳しい追及がありました。
 政府はこの矛盾を覆い隠し、憲法9条と安保、自衛隊を並存″させるために、戦
後日本を「平和国家」とするルールを形作ってきました。
 外務省が2005年に公表した「平和国家としての60年の歩み(ファクト・シート)」では「専守防衛」がその実績つとされ、「自衛のための必要最小限度の防衛力しか保持せず、攻撃的兵器を保有しない」と明記しました。
「専守防衛」という言葉は、1955年に当時の杉原荒太防衛庁長官が国会答弁で初めて言及したもの。「もっぱら守る、これはあくまでも守る、こういう考え方だ」との基本的性格を示しました。
 70年に刊行された最初の防衛白書『日本の防衛』には、「専守防衛」という表現が初めて正式用語として登場します。さらに、大陸間弾道ミサイル(ICBM)や長距離爆撃機、攻撃型空母などの攻撃的兵器は保有できないとの見解が示されました。72年10月31日の衆院本会議での答弁で田中角栄首相は、「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行うこと」と、より明確な見解を示しました。
 いま、集団的自衛権の行使容認や敵基地攻撃能力の保有など、「専守防衛」を逸脱する大転換が起こっています。それでも政府は「専守防衛」の旗を降ろすことはできず、矛盾はいっそう深刻になっています。


イチからわかる憲法9条 第3部 平和国家のルール2「武器輸出禁止」
 国会決議による「国是」
                       しんぶん赤旗 2026年10
 憲法9条のもとでつくられた「平和国家」の実績として、外務省が「専守防衛」と共に掲げていたのが「国際紛争助長の回避」で、そのつが「武器輸出三原則」でした。
 戦後当初、日本の軍需産業は連合国軍総司令部(GHQ)の非軍事化占領政策のもとで解体されていたため、そもそも武器禁輸の原則は存在しませんでした。ところが米国は、占領政策を再軍備化と憲法改定へと転換。軍需産業が復活し、国産兵器の輸出が国会で
問題になり、論戦を通じて武器禁輸の原則が確立していきました
 国会論戦を振り返ると、960年代には、米国の中国封じ込め政策のもとで中国への輸出が問題となり、佐藤栄作首相が67年、共産圏諸国や紛争当事国などへの武器輸出禁止を表明。国産CI輸送機の輸出解禁を求める動きが問題となった76年の国会では、野党が、佐藤首相が示した原則の曖昧さを追及しました。
 これを受け76年には三木武夫首相が、共産圏や紛争当事国以外に対しても「武器輸出
を慎む」とする「政府統一見解」を表明武器の全面禁輸が政府の方針となりました。70年代には革新自治体が9都府県で誕生するなど政治革新の波が高まっていたことも、全面禁輸への流れを後押ししました。
 さらに大阪府内の商社による禁輸方針違反が問題となった81年、衆参両院で武器輸出の全面禁止原則決議を全会一致で議決し、「国是」として国内外に宣言しました。
 こうした経過を踏まえ、政府は国会答弁で、全面禁止は日本の「国是」であることを認めてきました。
 その一方で、83年には中曽根康弘内閣が「武器技術」の対米輸出を認めたのを皮切りに、自民党政権は次々と輸出禁止原則の例外を設けていきます。2014年には安倍晋三政権が、救護や輸送などを目的とする「5類型」の限定付きで「原則禁止」から「原則容認」へと大転換。高市早苗内閣は今年4月、この限定さえ撤廃して戦闘機や護衛艦など殺傷兵器の輸出まで可能にし、憲法9条を掲げる平和国家の国是を完全に投げ捨てたのです。


イチからわかる憲法9条 第3部 平和国家のルール3「非核三原則」
 核ノー 世論と運動実る
                       しんぶん赤旗 2026年12
 前回(10日付)紹介した「武器輸出三原則」と並んで、憲法9条が政府の政策に大きな影響を与え、確立されたのが「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」とする「非核三原則」です。
 広島、長崎への原爆投下に続き、1954年3月1日、米国の水爆実験で第五福竜丸をはじめ日本の多くの漁船が被ばくする「ビキニ事件」が起きました。これが契機となって、原水爆禁止を求める署名運動が全国に広がり、55年8月、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。その後、日本を核戦争の拠点にしないという国民の世論と運動が、非核三原則に結実していきました。
 67年12月11日、佐藤栄作首相(当時)が「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まないというこの核に対する三原則」(衆院予算委)と発言。71年には「政府は、核兵器を持たず、つくらず、持ち込まさずの非核三原則を遵守(じゅんしゅ)するとともに、沖縄返還時に適切なる手段をもって、核が沖縄に存在しないこと、ならびに返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきである」という国会決議が採択されます。その後、非核三原則を一国是」とする決議が、国会の全会一致で5回にわたって採択され、「国是」として確立しました。
 核固執勢力から繰り返し「核武装論」が持ち出されましたが、いずれもとん挫しています。非核三原則が大きな力を発揮していると言えます。また、原子力基本法には原子力の平和利用」が盛り込まれ、「原子力潜水艦保有」論を制約しています。
 一方、日米両政府は60年の日米安保条約改定の際、米軍の核持ち込みを認める「核密約」をかわし、国民をあざむいてきました。
 さらに、高市早苗首相は「非核三原則」のうち、「持ち込ませず」は、「日米同盟の邪魔」だと公言。安保3文書改定で、三原則見直しが議題になっています。米軍の核戦略に公然と参加するのか、非核三原則を維持、法制化し、核兵器禁止条約に参加するのか。大きな岐路に立っています


イチからわかる憲法9条 第3部 平和国家のルール4「非核三原則」
 海外で戦わない歯止め
                       しんぶん赤旗 2026年14
 自衛隊は1954年の創設以来、海外での武力行使に踏み込む危険に繰り返し直面してきました。それでも、外国人の命を奪うことも、自衛隊員が戦死することもありませんでした。その歯止めとして機能してきたのが憲法9条です。
 政府は、「戦力不保持」を明記した9条との矛盾を取り繕うため、自衛隊を「戦力」ではなく「自衛のための必要最小限度の実力」と位置づけてきました。これに伴い、「必要最小限度」を超える(1)海外での武力行使=いわゆる海外派兵(2)多国籍軍への参加や他国軍の指揮下に入る行為(武力行使との一体化)(3)集団的自衛権の行使―などを禁止。政府答弁(工藤敦夫内閣法制局長官、90年10月24日、国連平和協力特別委員会)でも明確にしました。
 50年代、米国は日本を含むアジアで、北大西洋条約機構(NATO)のような多国間軍事同盟を構想し、58年には日米安保条約の適用範囲を「西太平洋」まで拡大するよう要求。ベトナム戦争を含むアジアでの軍事行動に日本を組み込む狙いでしたが、当時の藤山愛一郎外相は「憲法上の制約がある」と拒否しました。9条がなければ、自衛隊がベトナム戦争に動員され、多くの犠牲を生んでいたかもしれないのです。

 90年代以降、日米同盟の地球規模化が進み、自衛隊の海外派兵が拡大していきます。92年の国連平和維持活動(PKO)協力法に基づく派兵、2001年以降のインド洋派兵、03年以降のイラク派兵と続きます。
 しかし政府は、「武力行使はしない」「海外派兵ではなく派遣である」などの詭弁(きべん)で合理化。このような説明を成り立たせるために、(1)活動は「非戦闘地域」に限定する(2)他国軍の指揮下には入らない(3)後方支援活動も他国の武力行使と一体化しない―という制約を設け、武器使用も基本的には「自己防衛」に限定しました
 戦後初の「戦地」派兵となったイラク派兵では、結果として自衛隊は1発の実弾も撃たず、1人の戦死者も出しませんでした。後の報道では、現地武装勢力の内部で、自衛隊の駐留には反対するが、攻撃はしないとの合意があったことが明らかになっています。ここでも9条の制約が自衛隊員の命を守ったのです。