一人は新潟市在住の坂東克彦弁護士で、新潟水俣病第一次訴訟で弁護団幹事長を務め画期的な勝利に導いたほか、熊本水俣病事件でもチッソの欺瞞的な見舞金契約で眠らされていた患者たちを訴訟に立ち上がらせて、その法廷でもつねに決定的な役割を演じて勝利させました。
その後新潟水俣病第二次訴訟では弁護団長を務め、患者の認定を求めるとともに国の責任を追及しました。そして一審では原告91人中88人を水俣病患者として認定させてさらに控訴審に臨みましたが、その過程で水俣病全国連が熊本訴訟を中心に和解に動き出すと、新潟水俣共闘会議もそれに同調し一斉に和解に向けて動き出しました。
そうした奔流のなかで坂東弁護士は、新潟の訴訟は熊本とは違い①国と企業の責任がより重い②昭和電工には十分な賠償能力がある③原告の数が熊本よりもはるかに少なく裁判を継続することが可能 ということから、かつての見舞金契約の二の舞のような和解はできないと反対し、最後には弁護団長を辞任して信念を貫きました。
同弁護士は常々田中正造の生き方を高く評価し、第一次訴訟そして第二次訴訟を通じて、田中正造に学びながら闘いを続けました。
もう一人は京都大学 原子力工学研究者の小出裕章氏です。
小出氏はいまでこそ反原発運動に携わる人たちでは知らない人がいないほど有名になりましたが、京都大学に文部教官として赴任して以来約40年間、ずっと「助手」(現在は「助教」という名称に変わりました)の地位に留められました。当然給料もそれなりの額に留められるわけで、極めて冷酷な処遇です。反原発運動への見せしめだったのでしょう。
一度、TVのインタビューでそのことを聞かれた小出氏が、淡々と「何とも思っていません」と答えるのを見ましたが、強い信念がなくてはとても口にはできません。
「正造さんの生き方そのものが私の支えでした」も重みのある言葉です。
足尾から水俣、そして反原発へ・・・
足尾鉱毒問題と水俣病の共通点は言うまでもありませんが、水俣病と福島放射能禍の根源を貫いている類似性も多くのひとが指摘するところです。
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足尾から水俣、反原発へ 没100年を生きる田中正造
NHK NEWS web 2013年6月8日
公害の原点といわれる足尾鉱毒問題を追及した田中正造が死去して、ことしで100年。
徹底して被害住民の側に立って国や企業の責任を追及し続けた正造の思想や行動は、その後も水俣病などの公害闘争や市民運動などに大きな影響を与え、今、反原発を訴える研究者からも「正造の行動が支えになっている」との声が上がっています。
没後100年を経て今に生きる「正造」を追いました。
ゆかりの地巡るツアーに200人
ことしの4月29日、田中正造の出身地、栃木県佐野市では、正造ゆかりの地を巡るツアーが開かれました。
主催したのは、正造の業績を語り継ぐ活動などを続ける「渡良瀬川研究会」や「田中正造大学」などの市民団体。
県内外から約200人が参加し、正造の墓がある惣宗寺や、正造を支えた地元支援者の旧宅跡などを3時間かけて歩きました。
隣の群馬県館林市から参加した増山千鶴子さん(69)は「隣の市にいても意外と知らなかったことが多く勉強になりました。ほかの人にも伝えたいです」と話し、東京から訪れた松木弥栄子さん(68)は「祖父が正造と縁があったと知って6年位前からイベントがあるたびに佐野に来るようになりました」と話しました。
主催団体の1つ、「田中正造大学」の坂原辰男代表は「県外からの参加者が全体の3分の2です。正造から学ぼうという動きが今も広がっていると実感しますね」と話しました。
足尾鉱毒問題と被害住民救済にささげた生涯
田中正造は、1841年に現在の佐野市で名主の家の長男として生まれました。
青年時代から反骨精神をのぞかせ、県議時代には、強引に土木事業を進める三島通庸県令に徹底して対抗し、投獄されたこともありました。
1890年に衆議院議員に就任し、足尾銅山の鉱毒被害に直面しました。
渡良瀬川流域の洪水で鉱毒が広がり、農作物に深刻な被害を引き起こしたのです。
正造は被害者の救済と銅山の操業停止を求めて国会で政府を激しく追及、「押し出し」という住民の請願運動とも連動して活動を続けました。
しかし、政府は銅山の生産を優先して積極的な対策を取らず、正造は1901年、議員を辞職して天皇への直訴に踏み切りました。
直訴は失敗しましたが、死を覚悟したとされるこの行動は社会に衝撃を与え、当時、中学生だった石川啄木が新聞配達でためたお金を義援金として送ったというエピソードも残っています。
その後、政府や県が渡良瀬川の氾濫を防ぐ遊水池をつくるため下流の谷中村(現在は栃木県藤岡町)を強制的に買収する計画を進めると、正造は村に移り住んで村に残る住民と共に抵抗して闘い続けましたが、1913年8月、奔走中に病に倒れ、翌9月に死去しました。
新潟水俣病訴訟の法廷に“登場”
(「坂東克彦弁護士写真」-ただし掲示期間を過ぎたため写真は非掲示)
志半ばで倒れた正造ですが、その行動と足尾鉱毒問題は、公害が深刻化した昭和30年代以降、改めて注目されました。
とりわけ水俣病問題は、原因究明に向けた行政の動きの鈍さや、僅かな見舞金で問題を終結させようとする企業など、企業と行政、被害者の構図が足尾鉱毒問題と酷似していると指摘されました。
四大公害訴訟の最初の裁判となった新潟水俣病訴訟に30年にわたって取り組み、熊本の水俣病訴訟でも指導的役割を果たした坂東克彦弁護士(80)は、正造に学びながら裁判を闘い続けたと振り返ります。
「裁判を通して公害の問題を調べれば調べるほど足尾に行き着きました。国や企業が被害者をつぶしていく構図が同じでした」と当時を振り返ります。
昭和46年に第1次訴訟で勝訴すると、仲間を連れて初めて足尾を訪れました。
以来、何度も足尾や佐野に足を運び、新潟水俣病第2次訴訟の最終弁論では、法廷で正造のことばを引用しました。
「被害者の声ノ立タザル原因一ノミニナシ(被害者が声を上げられない原因は1つだけではない)」。
水俣病の認定を求める被害者は、本来、結婚や仕事での差別をおそれて被害を受けたのに隠そうとする事情がある。
それなのに被害者として認定を求めると「ニセ患者」と言われる。
こうした状況に坂東さんは激しい怒りを感じ、足尾鉱毒事件から変わらない被害者の置かれた現状を法廷で訴えたのでした。
その後、政治的な決着の流れに反発して訴訟の最終盤で弁護団長を辞任した坂東さんは、今も水俣病問題を伝える活動を続けています。
「とにかく徹底した現場主義だったことは学ぶべきで、いつの時代も変わらない大切な姿勢だと思います」。
反原発の研究者「正造さんの存在が支え」
(小出裕章氏写真-ただし掲示期間を過ぎたため写真は非掲示)
大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所。
反原発を訴える代表的な研究者の1人、小出裕章さんの机には、約20年前から正造の写真が置かれています。
「正造さんの生き方そのものが私の支えでした」。
原子力に夢を求めて東北大学工学部原子核工学科に入学しましたが、女川原発の建設計画や反対運動に直面し、原発について考え抜いた末に「都会で引き受けられない危険を抱えているから過疎地に押しつけている」との結論に行き着きました。
1970年に反原発に転じ、大学闘争や水俣病問題が進行するなか、自然と足尾銅山や正造を学び、その生き方に強くひかれたといいます。
「名家に生まれて国会議員になり、出世街道をばく進できたのに、銅山を優先する国の流れに命を懸けて抵抗し続けた。自分に忠実に生き続けたその存在がずっと支えになっています」。
小出さん自身も40年以上にわたって一貫して反原発を訴え続け、福島の原発事故のあとは、毎週のように原発問題を考える集会などに招かれ、全国を駆け回っています。
小出さんは、原発事故を巡る国と企業、被災者の関係も「足尾鉱毒問題と違うところがあれば教えてほしいほど似た構図」と指摘します。
「加害者が加害者としての責任を取らず、国家が加害者を助けて被害者を見捨てる構図になってきている。福島の事故は今も進行中で、人々の苦難も進行中であることを忘れないでほしいと思います」。
研究室ではむだなエネルギーを使わない主義で、日中は電灯をつけず、夏もエアコンをつけず、時折、正造の写真を見ながら地道な研究生活を送っています。
「足尾の問題と同じで、原発も再稼働や原発輸出の流れになるかもしれませんが、私自身は研究者として責任を果たしたい。正造さんのようには到底できませんが、少しでも正造さんのように生きたいと思います」。
「真の文明は山を荒さず」
田中正造の地元の佐野市では、市役所と市民グループが連携して、去年から「没後百年顕彰事業」を進め、来年春までに56事業を行い、1万5000人の参加を目指しています。
100年前に正造の葬儀が行われた10月12日と13日には、記念式典や、当時の葬儀の列を再現するパレードを行い、正造の思想を未来につなげようとアピールします。
「田中正造大学」の坂原辰男さんは「一過性のイベントでなく、足尾鉱毒問題の環境汚染の爪痕が残った場所を語り継ぐなど、正造の思想や足尾の教訓を次の世代に伝えていきたいと思います」と話しています。
最後に、正造を慕い続ける坂東さんと小出さんが共に、強く印象に残っているという正造のことばを紹介します。
没後100年の今も輝きを増すことばは、さらに今から100年後、どう受け止められるでしょうか。
「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」
(ネット報道部 山田博史)