朝日新聞の「天声人語」(19日)によると、17日の衆院憲法審査会で自民党の安藤裕議員がなんと、「天皇の地位は日本書紀における『天壌無窮の神勅(しんちょく)』に由来するものだ」と発言したということです。
まるで異次元の空間が出現したかのような感覚に襲われますが、勿論本人は大真面目だった筈です。というよりもそういうことを口にしても格別の違和感がないという状況が自民党内にあるのでしょう。
彼らの多くが所属している日本会議あるいは日本会議国会議員懇談会は、確か「万世一系の天皇を元首にする」ことを謳っています。現に11月1日に国会内で開かれた「11月3日を ”明治の日”に」しようとする団体の集会で、稲田防衛相は「神武天皇の偉業に立ち戻り、・・・明治維新の精神を取り戻すべく心を一つに頑張りたい」と演説したということです。
稲田氏とは特に波長が合っていると言われている安倍晋三氏も下野時代に、「私たちの先祖が紡いできた歴史・・・の中心となる縦糸こそが、まさに皇室であろう」、 「二千年以上の歴史を持つ皇室と、たかだか六十年あまりの歴史しかもたない憲法や、移ろいやすい世論を、同断に論じることはナンセンスでしかない」(「文藝春秋」12年2月)と述べています。
ここで「二千年以上云々」というのは明らかに神武天皇(初代天皇=紀元前660年に即位したと言われている)を意識したものです。
自民党の三原じゅん子議員も以前にTVで神武天皇は実在したと思うと発言しています。
戦前の教育では定めし「初代天皇は神武天皇」と強調されたことと思いますが、紀元前660年といえばまだ縄文式土器の時代です。”草薙の剣” があろう筈がありません。今日大多数の人たちは、「神武天皇の東征」などは8世紀ごろに確立された朝廷に権威を持たせるために作られた「記紀」の世界の神話であると理解しています。子供でも実際にあったこととは思わない筈です。
それなのに政治家の中にそれを史実として疑わない人たちが沢山いるというのは実に異常なことです。
冒頭の安藤裕議員の発言は、それがいよいよ実際の政治の中に入り込もうとしていることの現れなのかもしれません。
それとは別に、東京新聞は「改憲のための改憲」を目指しているかのような、自民党が主導するいまの憲法審査会のあり方を批判する社説を掲げました。
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「社説」 憲法審査会 権力が鎖を解かぬよう
東京新聞 2016年11月19日
「改憲のための改憲」であってはならない。衆院の憲法審査会でこの原点が確認されたとは言い難い。多くの国民から要望が出ているわけでもない。目的があいまいな議論を進めるのに反対する。
みんなで憲法を議論しましょう。よりよい憲法をつくりましょう-。もっともらしい理屈だが、この考え方は実に危険だ。何のために憲法を改正するのか明示せず、「改憲ありき」の議論のスタイルだからだ。
とくにいわゆる「お試し改憲」は権力の目的外使用にあたる。権力の乱用であると憲法学者は指摘している。まず、この点を押さえるべきである。
実際に「よい憲法」とは、十人いれば十通りの考えが出るものであろう。収拾のつかない空想的なテーマ設定といえる。実際に憲法審査会でも各党がばらばらの意見を述べ合うだけにとどまった。
自民党は九条などを、民進党は立憲主義から、公明党は新たな条文を加える「加憲」、共産党と社民党は改憲反対、日本維新の会は統治機構改革や憲法裁判所…。各党の問題意識は理解するが、何のための審議かわからない。
こんな事態になるのは、そもそもなぜ現行の憲法を変えなければならないか、喫緊の事態がないからである。具体的な改憲の必要性に迫られていないからである。
自民党から「国民は今の憲法では家族や国家を守れないと考え始めている」との指摘があった。果たしてそうだろうか。
国民の側からみても今、改憲しないと平穏な暮らしが脅かされる事態が起きているわけでもない。改憲とは幅広い国民層からそれを求める声が湧き上がって初めて着手するべきものである。
むしろ改憲を求めているのは、「改憲派」の国会議員本人たちだ。衆参両院で三分の二以上に達した今、いよいよ改憲発議に向けて動きだしたというのが真相であろう。
いわゆる「押し付け憲法論」を自民党はいうが、同じ与党でも公明党はこの考え方を否定している。占領軍という外圧を利用しつつ、帝国議会で議論し、自らの憲法をつくり上げたと考えるべきである。公布から七十年、連綿とこの憲法は守られ続けている。その重みをかみしめるべきだ。
憲法とは権力が暴走しないように発明された制御装置である。その政治権力者たちが鎖を解くがごとく、自ら装置の改変に没頭すること自体に矛盾がある。