4月28日は、サンフランシスコ平和条約と日米安保条約の発効から70年に当たります。
サンフランシスコ条約により、沖縄、奄美、小笠原が日本から切り離されて米軍の全面支配下に置かれました。また旧安保条約により、日本は世界に例のない対米従属の道を歩むことになりました。日本の主権があらためて問われています。
平和条約以降70年の歴史は、日米安保条約下の対米従属の歴史ということもできます。
しんぶん赤旗が「サンフランシスコ条約・日米安保条約発効70年 問われる主権と領土」という記事を出しました。
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サンフランシスコ条約・日米安保条約発効70年 問われる主権と領土
しんぶん赤旗 2022年4月28日
日本が形式的に主権を回復したサンフランシスコ平和条約と、日米安保条約の発効から28日で70年を迎えます。サンフランシスコ条約により、沖縄、奄美、小笠原が日本から切り離されて米軍の全面支配下に置かれ、千島列島を旧ソ連に奪われました。また、旧安保条約により、世界に例のない対米従属の道を歩むことになりました。日本の主権と領土があらためて問われています。 (竹下岳)
闇の交渉で押しつけ
1945年8月、日本は第2次世界大戦での無条件降伏を勧告した米・英・中・ソ連のポツダム宣言を受諾し、米軍を中心とした占領軍の支配下に置かれました。
ポツダム宣言では、日本に「責任ある政府」が樹立されたら、占領軍は「直ちに撤退する」と明記されています。ところが47年3月、米政府がソ連封じ込め政策(トルーマン・ドクトリン)を採用したことで状況は一変します。ソ連の核実験(49年8月)、中国革命(同年10月)、朝鮮戦争(50年6月~)などが続き、「反共のとりで」としての日本の重要性が飛躍的に高まりました。’
最終的に、米政府は50年9月8日、対日平和条約と一体で、日本との2国間協定(安保条約)を結び、米軍を維持する方針を決定。ポツダム宣言を公然と踏みにじるものでした。
しかも、安保条約は「必要な限り、(日本の)いかなる場所でも米軍を維持する」=いわゆる「全土基地方式」を採用。これが、日本が世界でも類を見ない「米軍基地国家」の元凶です。
平和条約締結をめぐっては中ソを合む全連合国との「全面講和」か西側諸国のみとの 「単独講和」かの論争がありましたが、当時の吉田茂首相は米国のダレス国務長官と密議を重ね、「単独講和」に踏み切り、日本は「西側」陣営に入りました。
51年9月8日、48力国の署名により平和条約が締結。その後、吉田氏はただ一人、米,政府高官に囲まれながら、サンフランシスコ市内の米軍士官クラブで安保条約に署名しました。他の日本側代表団は一切、条約の内容を知りませんでした。日本の占領を継続する安保条約が、闇の交渉で押し付けられたのです。
日本の防衛とは無縁
安保条約の本質は、日本の主権回復後も基地を置き、部隊を駐留させ、地球上のどこでも自由に出撃する「権利」を米軍に保証することにあります。゛
実際、条約の実質的内容は、第1条で「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与」すると明記しているだけで、米軍の駐留継続以外の内容は一切ありません。
安保条約は60年1月に改定されましたが、「全土基地方式」はそのまま維持。さらに、①核持ち込み密約 ②朝鮮半島への自由出撃密約 ③基地の管理権密約-などが同時に交わされ、国民の目に見えない密約で、米軍の特権が維持されています。
安保改定で新たに加わったのが第5条です。日本の施政下で日米いずれかに対する武力攻撃が発生した場合、「自国の憲法上の規定」に従い「共通の危険に対処するように行動する」というものです。外務省は「米国の対日防衛義務を定めたもの」だと説明しますが、米側は「われわれは地上にも空にも、日本の直接的な非核防衛に関する部隊は持っていないJそれ(日本防衛)は、完全に日本の責任である」(70年1月26日、米上院外交委員会の秘密会、ジョンソン国務次官)との発言を繰り返しています。
在日米軍の大半を占める海軍と海兵隊は1年の半分を海外遠征に、残る半年を、そのための訓練や休養、整備などに充てています。在日米軍は日本防衛とは無縁の海外派兵部隊なのです。
「植民地化するもの」
「要するに、この協定は日本を植民地化するものですナ」。当時、若手代議士だった中曽根康弘氏(のちの首相)がもらしたのが、日米地位協定の源流である日米行政協定(安保条約と同日発効)です。
同協定は米軍や軍属、その家族に、日本の国内法を上回る特権を与えていました。なかでも、刑事裁判権をめぐっては、「公務中」「公務外」にかかわらず、米側は米兵や軍属らの犯罪に対して、排他的な裁判権を有していました。さらに、米軍による基地の治外法権的な管理権や空域の使用、日本への自由な出入りなどの特権が明記され、これらは手つかずのまま、現行の地位協定に引き継がれています。
刑事裁判権については、53年9月の行政協定改定で、「公務外」の犯罪は日本側が第1次裁判権を有するとされましたが、その際「裁判権放棄」の密約が交わされました。安保条約に対する「思考停止」から脱却し、あるべき安全保障の姿を模索する必要があります。
沖縄県民「屈辱の日]
サンフランシスコ条約は第3条で、沖縄、奄美、小笠原諸島を、米国を「唯一の施政権者とする信託統治制度」の下におき、米国は「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」ことを定め、全能の支配者としての地位を得たのです。(その後、奄美は53年12月に返還、小笠原は68年6月に返還)
日本が少なくとも形式上、「主権」を回復したのに、沖縄が日本から切り離された4月28日は、沖縄県民にとっての「屈辱の日」とされています。
米軍は沖縄を本格的な軍事拠点とするため、53年以降、「銃剣とブルドーザー」によ る土地強奪を開始。さらに同年以降、核兵器の配備を開始し、ピーク時の67年には1300発が置かれ、県民は核と隣り合わせの生活を強いられました。
増強された基地はベトナム侵略戦争への出撃拠点となり、激しい訓練による事件・事故も相次ぎました。
また、米兵による殺人、交通事故、性的暴行といった凶悪犯罪を裁くこともできず、県民は無権利状態に置かれてきました。
こうした状況を打破するため、県民は「祖国復帰」を掲げ、たたかってきました。68 年には行政主席選などで本土復帰を掲げた勢力が圧勝し、日米両政府に、条約上不可能とされた「沖縄の施政権返還}を決断させます。
72年5月15日、沖縄の本土復帰が実現しました。しかし、屋良朝苗主席が政府に提出した「建議書」に明記された「基地のない平和な島」の願いは実現されず、むしろ増強が続いています。地位協定さえ踏みにじる米軍の横暴な訓練も増えています。復帰50年の今年、県民の願いを実現する政治への転換が求められています。
道理ある領土交渉を
サ条約はさらに、日露戦争でロシアから得た樺太の一部に加え、日本の領土である千島列島の放棄も定めました。(第2条)
千島列島は、1875年の樺太千島交換条約で日本の領土として確定しました。ところが1945年8月、ソ逓のスターリン政権が千島と北海道の一部である歯舞、色丹を軍事占領します。ソ連は、米英と結んだヤルタ協定(45年2月)で「千島引き渡し」が明記されていることを理由に領有を主張しました。しかし、この協定は秘密協定であり、当時、日本はその内容を知らされていませんでした。
米・英・中国が発表した43年の「カイロ宣言」は戦後の領土不拡大を宣言し、ポツダム宣言もこうした立場を引き継いでいました。ソ連の行為はこうした原則に反しており、明白な国際法違反の侵略行為です。ところが日本政府は、ソ連との交渉で国際法に立脚した立場をとらず、「南千島(国後、択捉)は千島にあらず」との立場をとります。これに歯舞・色丹を加えた「4島」を「北方領土」と呼んで返還を求めるというものです。
しかし、こうした立場に道理はなく、やがて頓挫。そこで安倍音三首相は「4島」から「2島返還」に後退させ、さらにプーチン大統領との「個人的な信頼関係」を構築するとの理由から、ロシアとの経済協力最優先、クリミア併合などロシアの覇権主義を一切不問にする屈従路線をとってきました。ロシアのウクライナ侵略により、そうした対ロ外交が大破綻に陥りました。今こそ、ロシアとの領土問題の原点に立ち返り、道理に立った交渉の立場に立つことが求められます。