ロシアのウクライナ侵攻に対する批判が高まる中で、同調圧力の強い日本では異論は許されないという雰囲気が一層強まっています。結論は明白であり、問題はそれを如何に手厳しく論じるか、いかにそれを広げていくかである というような ・・・ 。
言論空間はより広くあるべきなのに対して、日本の現況はやや偏っているのでは、という感を抱きます。
大原浩氏が「いつの間にか大政翼賛会が形成されてないか ― 恐ろしい戦時体制ムード 『ロシア叩き』『反露無罪』の意味とは」とする記事を出しました。
タイトルはやや過激に聞こえますが、内容はそうではなく、日本の言論(界)の在り方に対する考察が穏やかに述べられています。
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いつの間にか大政翼賛会が形成されてないか ― 恐ろしい戦時体制ムード
「ロシア叩き」「反露無罪」の意味とは
大原 浩 現代ビジネス 2022.04.01
人間経済科学研究所
大宅壮一氏の鋭い指摘
1950年代と言えば、テレビはまだ目新しいメディアで街頭テレビも存在した。現在では想像しにくいだろうが、渋谷・神南一丁目交差点のソニービジョンのような感覚で、ごく普通の白黒(後にカラー)テレビが設置され、力道山が登場するプロレス中継などには黒山の人だかりができていた。もちろん、多くの人々の家にはテレビがまだなかったからである。
そのような状況の中で、大宅壮一氏が生み出した流行語が「一億総白痴化」である。
「テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いだ。
もちろん、当時は「ニューメディア」であったテレビに対して、すでに「オールドメディア」であった新聞側からの「対抗意識むき出しの批判」という側面は否定できない。
だがそれでも、この言葉が当時の一大流行語となったのは、「核心」をついた言葉であったことの証明だといえよう。
ところが、それから60年以上経過した現在「一億総白痴化」という言葉は耳にしない。
大宅氏の心配は杞憂でしかなく、現在の我々は「充分な想像力や思考力を身に着けた」から、不必要なこの言葉が消え去ったのであろうか。
それとも、大宅氏の心配通り「一億総白痴化」が進行し、「当たり前」になってしまったから、だれも気に留めず「死語」になったのであろうか。
昨年12月6日公開「脱炭素原理主義が今の『自業自得エネルギー危機』を招いている」に至る、一連の記事で述べた「(人類の排出する二酸化炭素による)地球温暖化問題」、1月24日公開「恐怖の大王は去った-オミクロン株という風邪で大騒ぎする必要はない」というパンデミックに対するパニックともいえる反応、さらには3月18日公開「プーチンだけが悪玉か―米国の『幅寄せ、煽り運転』がもたらしたもの」における「反露無罪」、「鬼畜ロシア」とでも表現したいような一方的論調があふれる言論空間を見ると、残念ながら後者だと考えざるを得ない。
もちろん、問題は(地上波)テレビだけの問題だけではない。1950年代にはテレビを攻撃する側にあった新聞、さらには多数の情報を提供し情報の非対称性を改革するはずのネット空間でさえ、「一億総白痴化」を推進しているように思える。
我々自身の「想像力や思考力」がいつの間にか低下していないか、よく考えるべき時期に来ているのではないだろうか。
危惧している人は多い
沼田功氏の「ウクライナ情勢から⾔論空間を読む」は、「世の中の情報の偏り」に対する優れた論考だ。
沼田氏は、これまでも私の記事で何回も登場してきたが、楽天・サイバーエージェントなど70社強の株式公開を実現、「伝説の株式公開請負⼈(⽇経新聞記事より)」と⾔われる人物である。
また、⾼野⼭真⾔宗⼤⽇寺(代々⽊⼋幡)で得度、紫雲⼭宝瑞院(仏教寺院)副住職(就任予定)の僧侶でもある。
そのような多面的な思考を行う沼田氏が、「現代の情報の偏り」に危機感をいだき、普段は触れないテーマで筆をとったのだそうだ。
もちろん、その他にも多くの人々が、ウクライナ危機を中心とした「現代の情報の偏り」に対する論考を執筆しているのだが、まるで戦前の「1億玉砕」のような熱気に掻き消されて、人々の耳に届かないのは非常に残念だ。
「大政翼賛会」とは名乗ってはいないが、メディア全体が「一方向からしか報道しない」のであれば、そのように名乗るべきだと思う。
デジタル検閲が「白痴化」を助長する
1990年代のインターネット黎明期、これまで苦労してもなかなか手に入らなかった情報が一瞬にして手に入ることに驚嘆した。
もちろん、今でもインターネットの利便性は素晴らしいと思う。
しかしながら、インターネットが急速に普及し始めてからおおおよそ四半世紀がたち、黎明期にはごく普通に存在した「自由」が失われたように思える。
例えて言えば、校則が無い「自由学園」に、いつの間にか「ブラック校則」が導入された感じである。
「地球温暖化」、「大統領選挙」、「ワクチン」などに関する「ブラック規制」が、ここ数年次々と行われてきた。
そもそも「何が正しいのか」などということは簡単には判断ができない。だからこそ「議論」が必要であり、それが民主主義の根幹だ。民主主義とは単なる多数決ではない。お互いに十分議論をした後に採決を行うから民主的なのである。採決を行うだけであれば、「単なる多数派の横暴」にしか過ぎない。
ところが、SNS、検索エンジンを中心としたビッグテックは、「意見を述べること」や「議論すること」そのものを禁じるという暴挙を行っている。このような行為は「民主主義に対する挑戦」とさえ言えよう。
しかし、「明確・公正な基準が公開され、具体的にどの基準に従って削除されるのか」が明示されているのであれば、その基準を「議論」することができる。
ところが、ビッグテックが「明確・公正な基準」を持っているとは思えない。
それを端的に示すのが、「FB、『ロシアの侵略者』への暴力的発言を一時容認」(3月11日、AFPBBニューズ)のように恣意的な行為だ。
別にロシアのウクライナ侵攻が正しいというわけではない。だが、「暴力的発言」は誰に対しても行ってはいけないというのが「明確・公正な基準」である。
フェイスブックの行為は、皇帝が「朕の支配する国では殺人は犯罪だが、朕の気に食わない輩はいつでも裁判無しで処刑する」と言っているのに等しい。
我々が「想像力や思考力」を高めるための情報を検閲し、「同じような情報を繰り返して流す」ことによって「国民を白痴化しようと試みる」のは、オールドメディアの専売特許ではない。ネット空間も同様なのだ。
人間は見たいものだけしか見ない
「人間には現実のすべてが見えているわけではない。多くの人間は見たいと欲する現実しか見ていない」は、ユリウス・カエサルの言葉だとされるがこちらも鋭い指摘だ。
実のところ、我々を「情報の非対称性」から解放したはずのネット空間で「白痴化」が進行しているのは、ビッグテックの検閲のせいだけではないと思う。
ネットには無数の情報があふれているが、多くの人々が見たいものだけしか見ない傾向にあることは否定できない。
特にSNSには、同じ傾向の人々が集まるからその傾向が助長される。
もちろん、ネット空間には「お互いを高めるための議論」ではなく、ただ自分の憂さを晴らしたり優位性を強めるためだけに「炎上」を虎視眈々と狙っている人々が存在する。したがって、そのような人々を排除するのは仕方がない。
しかし、自分と異なった意見を持っていても「立派な人格」を持つ人々はたくさんいる。そのような人々の意見を知ることができるのは、インターネットの多大なる恩恵の1つなのだからそれを活用しないのはもったいない。
ネット空間は、「ほとんどすべてのものに、数クリックで到達」することができる。その貴重なメリットを存分に生かすべきだと考える。
140字で議論できるか
ツイッターの140文字制限には、非常に優れた面もある。言ってみれば、俳句や和歌のように、字数の制限があるから、表現が凝縮・洗練されるのだ。
だが、和歌や俳句で「コミュニケーション」を行うことはできても「議論」は難しいだろう。
和歌や俳句は、限られた文字数から多種多様なことが読み取れるから芸術性が高いし、深いハートレベルでのコミュニケーションが可能だ。しかし、逆に1つの言葉が何通りにも解釈可能なのであれば、議論そのものが成り立たないはずだ。
「議論」には、「前提」「定義」「背景」などの説明が必要不可欠であり、そのためには一定の文字数が必要だ。
例えば、「現代ビジネス」の記事は4000字が目安だ。また、私が日常読む記事もおおむね2000字程度はある。
やはり、「議論」をするためには、その程度の文字数で丁寧に説明する必要があると思う。
言葉尻だけをとらえたり、ごく短い言葉だけが独り歩きしてしまうことが、「偏った情報」が蔓延する原因だとも思える。
確かに、現代人は忙しいから「短く簡潔」に表現することを求められるのは仕方がない。本の要約サービスが盛況なのもそのせいだと思う。
しかし、それが我々の「想像力や思考力」を高めることに役立つであろうか?
長々と書かれた文章を読んでみて「中身」がない場合にはがっかりするであろう。だが、それでも、一定量の情報(文字)なしに議論は成り立たないと思う。
短い文章のやり取りでは結局「感情のぶつかり合い」になってしまう。「炎上」という現象がその典型例では無いだろうか?
安易に信じてはいけない
3月4日公開「むしろ『他人を信じない人』の方が、ビジネスで成功するかもしれない理由」で、政府やメディアの話を鵜呑みにする危険性について述べた。
情報の正当性や真偽を判断すべきなのは読者(国民)である。検閲で偏った情報が流されることに声を上げなければ、「ビッグブラザー」(ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する架空の人物)の支配へとつながる。見たことも聞いたこともないものについて「考える」ことは我々にはできないからだ。
そして、ロシアの非道を「議論」するのではなく、「反露無罪」や「鬼畜ロシア」が蔓延する状態はいつか通ってきた道である。
非常に残念なことだが、昨年9月13日公開「第2次大戦前夜と酷似、『ポスト菅・バイデン』の時代を捉えなおそう」、同5月27日公開「日本とアメリカ、ここへきて『100年前の世界』と“ヤバい共通点”が出てきた!」のような状況だ。
我々が、偏った情報で短絡的な判断をしてしまうと「深い闇の時代」に後戻りしてしまう可能性がある。
今こそ、大宅壮一氏やユリウス・カエサルの言葉をかみしめるべきではないだろうか。