2013年12月16日月曜日

書評 「いま『憲法改正』をどう考えるか」 (樋口陽一著) 

 BLOGOS 2013年12月15日号に町村泰貴氏による題記の書評が載りました。
 
 アマゾンの書籍欄では同書を、「安倍首相が意欲を示す『憲法改正』の特徴はどこにあるか。これまで何度となく繰り返されてきた改憲論と比べていかに評価されるべきか。明治、大正、昭和時代を通じて積み重ねられてきた憲法論議の成果や戦後社会に日本国憲法が果たしてきた役割などをふり返りながら解読する。現在主張されている改憲論はこの社会をどのような方向に連れて行こうとしているのか」と紹介しています。
 
 町村泰貴氏の書評は短いものですが、硬質な文章の含蓄のあるものです。
 
(特に掲載したいニュースが見つからなかったので書評を掲載します)
 
樋口 陽一(ひぐち よういち、1934年9月10日 - ) (ウィキペディアより抜粋)
 日本の法学者。専門は比較憲法学。東北大学名誉教授、パリ大学名誉博士、東京大学名誉教授。法学博士(東北大学、1964年)。日本学士院会員。日本学士院賞受賞。宮城県仙台市出身。
 
来歴
 父親も東北大学教授であった関係で、生まれも育ちも宮城県仙台市。仙台第一高等学校卒業後、東北大学法学部法学科入学、憲法学者清宮四郎の門下。英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語等の語学に堪能で、それを生かして比較憲法学に取り組んだ。「近代立憲主義と現代国家」によって、41歳で日本学士院賞を受賞。
 当時は東大の植民地と揶揄されていた東北大学法学部にあって、数少ない生え抜き教授となった。藤田宙靖(東北大学名誉教授・元最高裁判所判事)によれば、樋口が大学院修了により東北大学教官に採用される時には、「講座人事上の無理をして」という内幕があったようである(樋口古希記念・藤田、樋口陽一さんと私 : あとがきに代えて)。
 1980年には、逆に当時他大学出身者がほとんどいなかった東京大学法学部の教授に就任、憲法や国法学を講じた。退官後、上智大学法学部教授、また2005年3月まで早稲田大学法学部特任教授を歴任した。
 一橋大学名誉教授の杉原泰雄や名古屋大学名誉教授の長谷川正安との国民主権論争は有名。論壇でも精力的な活動をしている。
 いくつかの共著がある作家の井上ひさしは、仙台一高の同級、菅原文太は一年先輩である。
 思想は自由主義に属するが、「文化的国粋主義者」を称し、和服を通している。
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いま「憲法改正」をどう考えるか
町村泰貴 BLOGOS  2013年12月15日  
 
 いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味(岩波書店 1575円)
 
 
 樋口陽一先生の自民党憲法改正草案に対する論評である。
 
 樋口先生は言うまでもなく正統的な憲法学者であり、立憲主義の系譜をしっかりと示してくれる。
 戦前の憲法をめぐる議論についても、以下の様な言葉が紹介されている。
 
井上毅「立憲政体ノ主義ニ従ヘハ君主ハ臣民ノ良心ニ干渉セス」
伊藤博文「憲法ヲ創設スルノ精神」とは、「第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」
 
 伊藤博文の上記の言明は、森有礼の権利条項不要論に対するものであったが、その森有礼の論拠は天賦人権説に立ち、憲法においてはじめて臣民の権利が生じるものではないはずというものだったわけである。
 憲法が国民の義務を定めるという自民党憲法改正草案の発想は、いかにも前近代的というべきであろう。
 戦後の憲法状況においても、個人の解放がテーマとなっていたと樋口先生は書かれる。この個人の解放は明治の知識人たちが苦しんだテーマでもあり、夏目漱石の個人主義、中江兆民の人間個人の精神の自立論、小野梓の「一団の家族を以て其基礎となす社会」ではなく「衆一箇人を以て基礎となす社会」を目指す立場など、明らかであった。これこそは日本国憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される」と趣旨を同じくする考え方であり、日本国憲法が体現した価値である。
 
 樋口先生は、こうした個人の尊重という明治以来の観念が「自民党改正草案の家族国家型の発想と、鮮やかな対照を見せている」と評される。
 そして、自民党憲法改正草案そのものについても、天皇の元首化、戦争放棄から安全保障と国防軍へ、表現の自由と公益・公序との逆転、政教分離と社会的儀礼や習俗の許容性明示、公務員の労働基本権に対する制限の明文化、前文から人類普遍の原理の削除、個人から人へ、社会の自然かつ基礎的な単位としての家族の重視、憲法の尊重擁護義務を負う者の変質、緊急事態に対する協力から義務へ、憲法改正の容易化、こうした諸点について批判的に検討している。
 その上で、自らのご意見を述べられている。
 憲法改正を論じるには不可欠な参考文献である。