世に倦む日々氏の掲題の記事を紹介します。
南丹市で11歳の男児が行方不明となった事件は、16日に大方の予想どおり継父が逮捕されました。このところのイラン戦争をめぐるマスコミの親米プロパガンダの洪水に辟易とし、その「情報戦」への抵抗や反論を続けて疲れた同氏にとって「この事件は語弊があるが気分転換の一助になった」という趣旨のことを述べています。
そして容疑者である37歳の継父の犯行の杜撰さ稚拙さ粗放さ、人格の不全さ、知性と想像力のレベルの低さを指摘し、犯行の手口があまりに杜撰で短慮で軽率であるにもかかわらず「容疑者は自分の中では『完全犯罪』を遂行したという意識」にあり、失踪事件で迷宮入りさせられると想定していたと推測します。
思いもしなかった指摘ですが、そう考えないことには「理解できない事件」でした。
そして容疑者が男児を殺害した動機は、男児の存在が新たな新婚生活にとって邪魔で将来の人生にとって障害だったということで、その身勝手さも犯行そのものの幼稚さにマッチしています。
さらに、容疑者が勤務する企業で工場の品質管理課長に抜擢されていることについて、その職位は会社に貢献するマネジメントの役職であり、資質能力の選考と審査を経て「抜擢」された筈なので、そうであれば「日本の若い世代一般の知性劣化」という問題であり、「マンガやアニメやゲームで育ってしまった大脳の機能不全」ということが懸念され、こうした知性と想像力だから、高市自民や維新や国民民主や参政やみらいに投票し「右翼リバタリの思想に共鳴し支持してしまう」のではないか、と想像を広げます。
そこには、単に知性が弱い・思考が浅いというだけでなく、リバタリアン的な害意と凶悪さが宿り、自己にとって邪魔な弱者は抹殺すればいいという発想の体質がある・・・とも。
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南丹市の男児遺体遺棄事件 - 警察はもっと早く逮捕できていたのではないか
世に倦む日日 2026年4月19日
3/23、南丹市園部町で11歳の男児が行方不明となった事件は、4/13 に遺体発見となり、4/16 に大方の予想どおり継父が逮捕された。この3週間ほど、イラン戦争に替わってこの事件がテレビ報道の主役に座り、SNSでも関心が盛り上がった状態が続いている。この事件に人々の注目が集まるのは、素人目にも犯人が最初から分かっていて、犯人による偽装工作が呆れるほど見え透いており、テレビの刑事ドラマを見る如き単純系の物語が進行したからだ。誰も迷宮入りになるとは思わなかったし、警察は早く犯人を捕まえろという空気感で刻々が過ぎていた。さらに言えば、親族に共犯者がいるのではないかという疑念も自然に惹起される構図になっていて、暫くは警察の捜査に熱い視線が集まるのは間違いない。失踪6日目の 3/29 に男児のランリュックが発見された時点から、誰が犯人かは明確になり、警察がいつ詰めの捜査に踏み込むか、証拠をどう押さえるかが焦点となった。
テレビがこの事件にばかり無暗に報道時間を割き、Xタイムラインがこの問題にばかり熱中する状況に対して、不満や批判の声が上がっている。尤もな反応だ。が、私の意見は異なり、この過熱現象を無意味とは思わない。一つは、事件が継父による児童の殺人で、虐待やDVや性被害を含めて、今の日本で頻繁に目にする不幸な社会問題が典型的に形になった問題である点だ。現代日本の社会的病理が凝縮され反映された深刻な事件で、心が傷まされ、目を背けようとしてもできない。個人の自由を至上視するリベラリズムの猛威のため、そのイデオロギーの氾濫と支配と放縦のため、あまりにも弱者である子どもが犠牲になるケースが増え、人権が蔑ろにされ、不幸を背負わされる仕組みになっている。と、私は認識し、中野信子とは逆の思想的立場でこの事件を凝視している。リベラリズムの奔流と風潮に乗って自由を享受する大人たちの行動が生む矛盾が、弱者の子どもに皺寄せされている。
もう一つは、イラン戦争をめぐるマスコミの親米プロパガンダの洪水に辟易とし、その「情報戦」への抵抗や反論を続けて疲れた自分があり、そこにこの事件が登場し、語弊がある表現かもしれないが、いわば〝箸休め” のような気分で視線を移動させている自分に気づく。この事件への観察を〝止まり木”にして心の一時的休息を得ている。晩春から初夏へ移ろう園部町の里山の風景が、日本のゆかしい四季を感じさせ、心を落ち着かせ和ませてくれる。3月からずっと、乾いた砂漠の大地が海を囲む、荒涼とし茫漠とした地表と海面のホルムズ海峡の絵ばかり見せられ、その地で行われている非道きわまる殺戮と破壊に立ち会わされ、アメリカの狂気を正当化する小谷哲男と報道キャスターの「情報戦」に漬け込まれ、精神はすっかり荒んでいた。園部町の静かな田園地帯がテレビ中継で撮られる度、自分は日本人なんだと思い、観光地でもない普通の郷邑なのに、風格があり価値のある景観に思えてしまう。
三つ目に思うのは、容疑者である37歳の継父の犯行の杜撰さ稚拙さ粗放さと、その人格の不全であり、知性と想像力のレベルの低さである。この容疑者は自分の中では「完全犯罪」を遂行したという意識にあり、失踪事件で迷宮入りさせられると想定していた。この事件は、決して 3/23 に突発的に起きた凶行ではなく、容疑者が計画的に狙って決行した殺人事件だ。あの大河内の自宅から小学校への登校は、男児は普段はスクールバスを使っていて、祖母が朝の見送りをしていたと報告されている。昨年12月に母親と結婚(再婚)して以降、母親の実家である大きな屋敷に住むようになり、そこから京丹波町の会社工場へ通勤する生活となったが、容疑者が毎日男児を学校に送り届けていたわけではない。そのことは、通勤経路の途中で自動販売機に立ち寄る容疑者を日常目撃していた者の証言からも窺える。黒のカローラに男児が同乗していたという様子はなく、容疑者一人が乱暴な運転をしていたという説明だ。
容疑者には男児を殺害する動機があった。それは男児の存在が新たな新婚生活にとって邪魔で、将来の人生にとって障害だったという点だ。容疑者は、男児が失踪した(誰かに誘拐されて姿を消した)ように見せかけて殺そうと考え、実行するタイミングを狙い、アリバイ工作を練って計画を立てた。最もベストな計画が、朝、車で学校に送り届けたことにして、男児を殺害し人目につかない場所に遺棄することだ。死体が発見されない限り、世間が何と言おうと警察に捕まって有罪になる事態はない。他の時間と空間は実行には使えない。「完全犯罪」が可能な条件がない。だからこのタイミングを選んだのであり、要するに犯行は計画的なものだ。マスコミ論者は容疑者の犯行について、突発的で衝動的という言葉を言いまくり、行為に殺人の動機が無かったように言い上げているが、それは誤りでありミスリードである。犯行が突発的で衝動的な印象になるのは、手口があまりに杜撰で墓穴だらけで、短慮で軽率だからだ、。
客観的には杜撰で粗放で、すぐに犯行が露呈する手口なのだけれど、本人の主観の回路では、「完全犯罪」が complete done(⇒完了)なのである。それがこの事件が世間の注目と興味を惹くポイントに他ならない。私は、今の日本の若い世代の特徴が示されているように悲観され、教育で涵養されるべき知性と想像力の欠如を看取してしまう。知性と想像力の低さが、容疑者をしてこの犯行を「完全犯罪」として楽観させ、安易かつ軽薄に妄想させてしまっている。実際は何もかも破綻していて、「ランリュックの発見」などは逆効果となる自滅行為そのものだろう。けれども、容疑者にはそれが理解できてない。すなわち、計画的殺人なのだけれど、知能犯としての知的水準が不足しすぎて、客観的に疑惑ばかり深める墓穴行動に終始している。偽装工作のアリバイはすぐに瓦解するものだった。きわめて未熟で幼稚な犯行だ。だが、文春の記事によると、容疑者は、勤務する京丹後市の企業で工場の品質管理課長に抜擢されている
この事実をどう考えるべきだろう。勤続年数からして中間管理職に昇進してもおかしくない立場だが、それなりの数の部下を動かして会社に貢献するマネジメントの役職である。この電気機器メーカーは日本の普通の企業に違いない。「抜擢」と言う以上、ある程度の競争もあり、資質能力の選考と審査もあったのだろうと想像する。これらの情報に接して否が応にも逢着するのは、日本の若い世代一般の知性劣化という問題であり、マンガやアニメやゲームで育ってしまった大脳の機能不全という懸念だ。結論を飛躍させて恐縮だし、偏見だと謗られるかもしれないが、敢えて苦言を呈させてもらうと、こうした知性と想像力だから、高市自民や維新や国民民主や参政やみらいに投票し、右翼リバタリの思想に共鳴し支持してしまうのではないか。そういう政治の判断力になるのではないか。単に知性が弱い・思考が浅いというだけでなく、リバタリアン的な害意と凶悪さが宿り、自己にとって邪魔な弱者は抹殺すればいいという発想の体質がある。
容疑者は、男児が邪魔だから暴力で排除した。簡単に殺害した。だが、警察の尋問を受けるや否や、あっさり何もかも白状し、一日で落城する(自己を崩壊させる)顛末となった。権威や権力には弱いのだ。自分の思うようにならない強い相手には歯向かわず、従順にその意向や要求どおりにする。弱い相手には私的な暴力を駆使して排除し、自分が欲望する快適で満足な環境を手に入れる。若い世代に顕著と思われる知性と想像力の無さ、思考力の弱さは、結局そういう性格とパターンの本質なのだろう。例えば、知能犯の要素がある者なら、携帯電話の位置情報の履歴で刻々の車の移動と停車場所が特定されているぞと刑事に証拠を示され、スニーカーと遺体の置き場所と一致するぞと詰められても、次のように釈明したかもしれない。私は深夜に山林に入って子どもを捜索していたのであり、位置情報の履歴は偶然の一致ですと。みえみえの嘘の弁解だが、この反論で否認の論拠を立てることはできる。警察の尋問を想定して、そういう理論武装を構えることもできた。
マスコミ報道によれば、遺体は3週間の間にかなり傷んでいて、死因を特定するための解剖と検証で時間がかかると言う。洛北医大の風丘先生が不眠不休で活躍しているに違いない。現時点で死因は不明で、絞殺だと断定する証拠は明らかになってない。遺体発見時に死因不詳と公表された事実は、当日 4/13 にマスコミ報道で伝えられており、容疑者もテレビで知ったはずだ。遺体を地中に埋めた状態なら、風雨の影響による傷みが少なく、即日に絞殺を特定できていた可能性がある。容疑者が遺体を地中に埋めず、表面に放置し、何度も運搬し移動させたため、遺体は風雨に曝されて傷み、即日の検視では死因を確定できない状態に至った。もし容疑者が否認を貫徹し、無実を主張し続け、そして法医の検案と科捜研の鑑定が不首尾に終わった場合は、警察はこれを殺人事件と断定し立証する根拠を得られない可能性があったのだ。容疑者が素直に自供したのは、府警にとって偶然の幸運だったと言えよう。
こうした状況から考えると、結果論としての総括だが、警察はもっと早い時点で容疑者(重要参考人)の事情聴取に踏み出し、自供を取るべきだったと思われる。4/7 に大規模な捜索が行われ、京都府警はこの日に捜査が大きく動くとマスコミに告知し、現場にカメラを動員して生中継のテレビ報道をさせていた。4/6 までにスマホの位置情報履歴が業者から開示され、取得して解析結果が判明し、自信を持って遺体発見場所のピンポイントを押さえた気になっていたのだろう。が、遺体が移動させられていたため、この日の捜索は空振りに終わった。推測するに、3/24 頃から 4/6 まで2週間、業者からのアカウントの履歴開示に時間がかかったと考えられ、開示と同時に科捜研が精査して場所を割り出したはずだ。令状等の法的手続きがどうだったかは今はよく分からない。警察側は、スマホの履歴情報が決め手になると当初から考え、時間をかけて捜査を計画したのだろう。だが、意外なことに、容疑者は遺体を山中の地面に直置きし、掘って埋めるという(常識的な)隠蔽工作をしなかった。
京都府警は慎重な捜査に徹し、客観的で科学的な証拠を挙げることを第一とし、全てが揃ってから取調室で自供を取る作戦に出たが、時間をかけたことで遺体の傷みという思わぬリスクとハードルを得た。冤罪を防ぐため、自供に頼った捜査で過失を避けるため、客観的証拠を何より優先した捜査手法は評価できる。だが、今回については、犯人の推定があまりに容易で、動機の要件もほぼ十分で、何より犯行手口が杜撰で稚拙で粗放である点を着目し重視して、もっと早く自供を取る捜査工程を組む判断に出てもよかったのではないか。犯行は矛盾だらけであり、プリミティブ(⇒幼稚)に破綻しており、取調べで否認する図はあり得なかったのではないか。つまり、簡単に落ち、遺体遺棄の最終場所もすぐに供述しただろうと思われる。
「湯の町湯沢平和の輪」は、2004年6月10日に井上 ひさし氏、梅原 猛氏、大江 健三郎氏ら9人からの「『九条の会』アピール」を受けて組織された、新潟県南魚沼郡湯沢町版の「九条の会」です。