明治期、五日市町の教員 千葉卓三郎が、地元の青年たちと議論を重ねて起草した全204条の憲法草案:五日市憲法草案は、2013年、皇后さまが79歳の誕生日を迎えられたときに触れられてから一躍有名になりました。
それを発見した東京経済大の色川大吉ゼミナールの学生で、最初に草案を手にした元専修大教授の新井勝紘さん(70)が31日、あきる野市で講演し、基本的人権の尊重、法の下の平等、言論の自由、学問の自由など、現憲法にも通ずる、民主主義の原理が随所に盛り込まれていると語りました。
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あきる野五日市憲法に庶民の思い 草案発見時ゼミ生 新井元教授講演
東京新聞 2015年6月1日
五日市町(現あきる野市)で明治期に生まれた民間憲法草案「五日市憲法」。それを発見した東京経済大の色川大吉ゼミナールの当時のゼミ生で、最初に草案を手にした元専修大教授の新井勝紘さん(70)=福生市=が三十一日、あきる野市で講演した。現憲法との多くの共通点がある草案には当時の庶民の「熱き思い」が込められている、などと話した。 (榎本哲也)
あきる野九条の会(瀬沼辰正代表)十周年のつどいの記念講演として行われ、二百五十人が訪れた。
新井さんが色川ゼミ四年生だった一九六八年は明治百年の節目。日本の近代化百年を称賛する機運が高まり「バラ色論」などと呼ばれたが、色川氏が「本当にバラ色だったのか、足元の歴史から考えてみよう」と提案。多摩地区の歴史を掘り起こすことになった。
同年八月二十七日、ゼミで五日市町の深沢家土蔵を調査。二階に上がった新井さんは、小さな竹製の箱を発見、中の風呂敷包みを開くと、一番下に、二十四枚つづりの和紙があった。題名は「日本帝国憲法」。
「私は当時、大日本帝国憲法を書き写したんだな、『大』という字が虫に食われるか書き忘れたかしたんだな、と思っていた。今思えば恥ずかしい。目次を見ただけで、これが大日本帝国憲法じゃないと分からなければいけなかった」
目次には「国民権理(権利)」とあった。大日本帝国憲法に「臣民」(君主に支配される人民)はあるが「国民」はない。
五日市の市井の人々の考えが反映されている憲法草案を色川氏が「五日市憲法と呼ぼうじゃないか」と命名。新井さんは卒業論文の題材として、以来、五日市憲法と起草者の千葉卓三郎の研究に取り組んできた。
現憲法が「占領軍の押しつけ」との指摘について新井さんは、同じ明治期の植木枝盛の憲法草案などを参考にした、憲法研究会の案が連合国軍総司令部(GHQ)に提出され、現憲法に反映されたことに言及。「日本の先人の熱い思いが流れている。押しつけではない」と強調した。
<五日市憲法> 自由民権運動が盛んだった明治期、五日市町勧能学校(現・あきる野市立五日市小学校)教員、千葉卓三郎が、地元の青年たちと議論を重ねて起草した民間の憲法草案。全204条。基本的人権の尊重、法の下の平等、言論の自由、学問の自由など、現憲法にも通ずる、民主主義の原理が随所に盛り込まれている。皇后さまは2013年、79歳の誕生日を迎えられた際に宮内記者会の質問に寄せた回答文書で、五日市憲法草案に触れ、「長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と答えている。