熊本水俣病は、政府とチッソ(株)が原因を隠蔽したままアセトアルデヒドの生産を続けたために10万人といわれる患者を生み出しました。
そしてその9年後に、同じ生産設備を持つ昭和電工鹿瀬工場の排水によって新潟県阿賀野川流域で、第二の水俣病と呼ばれる新潟水俣病を発生させました。その責任は挙げて政府と昭和電工にあります。
政府は新潟水俣病「公式確認」の3年後に、ようやく原因を工場排水中のメチル水銀(有機水銀)と明らかにしましたが、しばらくすると水俣病患者の認定基準をより厳しいものにして、殆ど水俣病患者として認められないようにしました。
患者たちの長い闘いによって、2013年4月になってようやく最高裁は感覚障害だけでも水俣病と認める判決を出しましたが、1年後環境省が出した通知によると、一応感覚障害だけでも患者と認める一方で、当時魚介類を食べてメチル水銀を摂取した事実を客観的な資料で証明しなければならないとされていて、これ以上認定患者を増やさないという政府の方針は少しも変更されませんでした。
東京新聞が「新潟水俣病50年 償わないと恥ずかしい」とする社説を出しました。
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新潟水俣病50年 償わないと恥ずかしい
東京新聞 2015年6月8日
公式確認、未認定患者…。何と不思議な言葉だろう。少なくとも五十年、水俣病の患者、被害者は心と体に重荷を負って生きてきた。もういいかげん、水俣事件を本物の解決に導くべきではないか。
九州の水俣病は、チッソ水俣工場が、アセトアルデヒドという薬品をつくる過程で発生するメチル水銀という毒物を、水俣湾から不知火(しらぬい)海へと、垂れ流したのが原因だった。
魚の中にたまった毒が、それを食べた人々の中に蓄積されて、脳障害に至ったのであった。被害は、胎児にも及んでいる。
新潟水俣病は第二水俣病とも呼ばれている。九州との違いは、メチル水銀を流したのが、新潟県の昭和電工鹿瀬工場だったこと。流した先が阿賀野川だったこと。
新潟では、ニゴイなど川魚を食べた人たちが被害に遭った。新潟水俣病は、川の水俣病である。
高度経済成長真っただ中、政府は企業活動の規制に及び腰だった。水俣病という病気が「公式確認」されたのは、一九五六年五月一日。六三年には熊本大学が、メチル水銀中毒であるとの知見を公表した。
ところが、チッソが六八年五月にアセトアルデヒドの製造をやめるまで廃液は流され続け、当時の厚生省が「原因特定」と発表したのは、その年九月のことだった。
新潟水俣病の「公式確認」は、六五年五月三十一日だ。
政府として、患者・住民に真っすぐ向き合い、適切な時期に規制を加えていれば、被害はかなり少なくできたに違いない。
水俣病問題とは、政府の怠慢が拡大させた事件というべきものだ。国は責任を免れない。
それなのに今の環境省も、原因企業に配慮はしても、患者の救済には消極的とは言えないか。
最高裁の再度の指摘にもかかわらず、厳しい認定基準を掲げ続けて、これ以上患者を増やしたくないようにも見える。
水俣病とはどんな病気か。いまだ確定されていない。自分がそうだと気づかない潜在患者は多いに違いない。風評を恐れて、明かせない人も少なくない。
新潟水俣病半世紀。九州は来年六十年。長い歳月が求めるものは、国による積極的な患者の掘り起こしと救済だ。国の無責任は国民をはずかしめる。
何より命を大切にする国であれ-。3・11の重い教訓ではなかったか。切り捨てから救済へ、大転換の時である。