ドイツのいわゆる憲法は、東西に分断されている段階で西側の各州の代表65人が集まって1949年に制定されました。それはドイツが再統一されるまでの暫定的な憲法としての建前を持っていたので基本法と呼ばれましたが、ドイツが漸く再統一を果たしたときにはその基本法がそのまま統一ドイツに適用されました。
基本法の制定当初は、いずれ統一したあかつきには正式なものを制定するという考えのもとに、必要不可欠な規定のみを定めました。しかし分断状態は実に制定後も40年余にもわたりました(東西ドイツが統一したのは1990年)ので、改正によって基本法を補足していかなければならず、いわゆる技術的事項の修正が多発しました。前回触れた50年代に再軍備を明記したのは大きな改正でしたが、それは東西冷戦の最前線にあった分断国家が必要に迫られてのものでした。
こうした事情からドイツ基本法はこれまで60回の改正が行われましたが、「人間の尊厳の不可侵」、「民主的な法治国家」、「国民主権」、「州による連邦主義」などの基本法の根幹部に触れる改正はありませんでした。それは基本法自体がそう規定していたからでした。
日本国憲法にも勿論変えてはならない原則があります。
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(社説)今、憲法を考える (7) 変えられぬ原則がある
東京新聞 2016年9月6日
基本法(憲法)を六十回改正したドイツを例に挙げ、日本国憲法改正を促す声もある。国の分断時に制定された基本法の暫定的性格が改正を容易にした面もある。
ドイツは、人間の尊厳不可侵など、基本法の基本原則は曲げてはいない。
芸術を愛したバイエルン国王ルートウィヒ二世が築いた城があるヘレンキームゼー島。敗戦後、湖水にうかぶ景勝地に州首相らが集まって、草案をまとめた。
草案をもとに、各州代表六十五人による議会評議会は、西ドイツの首都ボンで、八カ月かけて基本法を制定した。日本国憲法施行二年後の一九四九年だった。
戦勝国の米英仏は、基本法に盛り込むべき人権、自由の保障などの基本原則を示した。
しかし、議会評議会議長アデナウアー(のちの首相)が主導権を握り、「押し付けられた」との意識はない。
占領下だった。将来の東西統一後、選挙で選ばれた代表によって「国民が自由な意思で」憲法を制定するとし、基本法と名付けた。分断を固定させまいとの思いを込めた。
しかし九〇年、新たな憲法制定より統一を急ぐことを優先し、基本法を旧東ドイツ地域にも適用する手法を採った。
基本法の呼称のまま、国民に定着している。
改正には上下両院の三分の二以上の賛成が必要だが、日本と違って国民投票の必要はない。
国の根幹に関わったのは、軍創設と徴兵制導入に伴う五〇年代の改正、防衛や秩序維持など「非常事態」に対処するための六八年の改正だった。
冷戦の最前線にあった分断国家が必要に迫られてのものだった。
改正が許されない基本原則もある。基本法七九条は、人間の尊厳の不可侵、民主的な法治国家、国民主権、州による連邦主義などに触れることは許されていない、と規定している。
いずれも、ヒトラー政権下で踏みにじられてきたものだ。ナチスのような暴政を繰り返すまいとの決意表明である。国是と言ってもいいだろう。
日本にもむろん、守るべき憲法の精神がある。