「生活保護費受給者は一切の『贅沢』をしてはならない」、「生活保護費受給者には『死線をさまよう』ことしか許されていない」、「そこまで落ち込んでいないままで生活保護費を受給するのは詐欺である」。
片山さつきら 貧困者をバッシングする人たちの主張は 結局そういうことに帰着します。そんないわば冷酷非道な論理に自らが陥っているという自覚はあるのでしょうか。
雨宮処凛氏が社会学者の入江公康氏から聞いたとして、「犠牲の累進性」の論理を紹介しています。
それはある人が窮状を訴えると、「より過酷な状況に置かれている人」と比較することで、「お前の苦しみなんて大したものではない、甘えるな」と口を封じていくやり方ということで、ブログではより具体的に且つ鮮やかにその実例を示しています。
弱者をバッシングする人たちはそれを読んで自分の立ち位置を認識すべきです。
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すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ
〜「犠牲の累進性」という言葉で対抗しよう〜 の巻
雨宮処凛がゆく!第387回 2016年8月31日
(マガジン9より転載)
「生活苦しいヤツ声上げろ!」
「貧困知らない政治家いらない!」
「片山さつきは議員をやめろ!」
「貧困叩きは今すぐやめろ!」
8月27日、新宿の街に、そんなコールが響き渡った。
この日開催されたのは、「生活苦しいヤツは声上げろ 貧困叩きに抗議する新宿緊急デモ」。主催は最低賃金1500円を求めて活動を展開するAEQUITAS(エキタス)。前回の原稿で書いた、NHKニュースの「子どもの貧困」に登場した高校生へのバッシングに抗うため、この日、緊急にデモを企画してくれたのである。
集合時間の19時少し前にアルタ前に行くと、雨だというのに多くの人が集まっていた。
出発前集会で、AEQUITASの栗原氏は、なぜこのデモを企画したかについて話した。
「権力を持った政治家が貧困を訴えた人に対して、金の使い方に文句をつける、これは人権問題だと思います。貧困は恥ずかしいことだ、そういう風潮を更に強め、当たり前の権利を訴えることを更に困難にする行為です。それは生死につながる行為です」
「生活に困ってたら、ライブや映画に行っちゃいけないのでしょうか。友達と飲みに行ってはいけないのでしょうか。そんなことはないはずです。生活に困ってたって、いや、困ってるからこそ、明日なんとか生きていくための糧を得たい。そう思うのは自然なことでしょう。そのささやかな余裕は人間らしい生活に不可欠な当たり前のものなはずです」
「貧困を訴えた高校生は今どんな気持ちでいるでしょうか。僕にはわかりませんが、とにかくあなたは何も間違っていない。間違っているのは片山さつきと、そして一緒になってあなたを叩く人たちだと伝えたいです」
デモ前集会では、ジャーナリストの安田浩一氏、社民党の福島みずほ氏もスピーチ。私も少しお話しさせて頂いた。そうして19時15分、デモ隊はアルタ前を出発!
この日はAEQUITAS初めてのドラムデモ。横断幕を先頭に、「怒りのドラム隊」が迫力のドラムを打ち鳴らす。先頭では、AEQUITAS名物コーラーのこばしゅん氏が「貧困叩く政治家いらない!」などとリズムに合わせてコール。デモ隊も声を張り上げる。雨天の中、決行されたデモは1時間かけて新宿の街を周り、解散地点についた時には参加者は500人に膨れ上がっていたのだった。
たった数日の告知期間だったのに、これだけの人数が集まったデモに大きな勇気を貰ったわけだが、デモに参加して、改めて思い出した言葉がある。
それは「犠牲の累進性」という言葉。
私が社会学者の入江公康氏からその言葉を聞いたのは、もう10年も前のことだ。
この連載でも何度か書いてきたが、どういう意味かというと、以下のような時に使われる。
例えばこの国の正社員が長時間労働で過労死しそうで大変だったとする。が、「大変だ」と言った途端に「低賃金で不安定な非正規労働者の方が大変だ」と言われる。一方で非正規の人が非正規ゆえの苦労を口にすると、「ホームレスの方が大変だ」などと言われる。しかし、ホームレス状態にある人がその状況の過酷さを口にしたところで、「もっと貧しい国の餓死寸前の人の方が大変だ」「紛争から逃げている難民の方が大変だ」なんて言われてしまう。結局、そうやって「より過酷な状況に置かれている人」と比較することで「お前の苦しみなんて大したものではない、甘えるな」と口を封じていくようなやり方。これを「犠牲の累進性」と呼ぶのである。
今回の高校生バッシングも、悲しいくらいに同じ構図だ。映画を観ている、外食している、アニメグッズを持っている。だから「お前なんて大変じゃない」「甘えるな」とバッシングする。しかし、そんなことをやっていると、一応先進国であるこの国で「貧困問題について発言する権利がある当事者」はおそらく一人もいなくなってしまうだろう。
この日のデモ前集会で、安田浩一氏がスピーチしたことが印象に残っている。安田氏は、週刊誌で片山さつき氏と対談した時のことに触れ、言った。
「その時、生活保護に関する話をしました。片山さんなんとおっしゃったかと言うと、『最近ね、生活保護の申請にくる女性の中にアクセサリーをしている女性がいるのよ』と」
さて、この片山氏の発言について、あなたはどう思うだろうか。「なんだと、アクセサリーなんてけしからん!」と思った人、その理由を論理的に説明できるだろうか。アクセサリーをつけているという事実は、どの法律のどの部分に抵触するのだろう?
もちろん、どこにも抵触しない。なのに、私たちの中には「生活保護を申請する人がアクセサリーをつけている」=「贅沢」と思ってしまうような思考回路がいつの間にか刷り込まれていないだろうか。おそらく、今の日本は、普通に生きているだけでそんな思考回路が条件反射的に染み付いてしまうほどに異常な社会なのだと思う。
だからこそ、そんな「条件反射」に自覚的になるべく努力していないと、たちまち人権侵害に加担してしまうおそれがある。もちろん、自分自身も含めてだ。
例えばアクセサリーを問題にするなら、化粧は? 髪を染めていることは? 飲酒や喫煙は? 古着屋で安く買った服を自分なりにコーディネートすることは?
そんなことをいちいち問題にする社会は、突き詰めると「見るからにズタボロの身なり」をしている人しか生活保護の申請すらできないということになってしまわないだろうか。その次に待っているのは、その服装が「どれくらいボロボロか」がいちいち評価の対象となる社会だ。
そんな社会は、病んでいると私は思う。
これまで貧困問題を追ってきた身として思うのは、格差や貧困が深刻化すると、貧困バッシングも深刻化するという事実だ。そして、手を替え品を替え様々な言葉でなされる貧困バッシングを直訳すると、ただ一言、「黙ってろ」という言葉になる。
しかし、「黙れ」「お前の苦しみなど大したことがない」と当事者の口を塞ぐことによって、結果的に得をするのは誰なのか。そういった世論が作られることによって、メリットがあるのは誰なのか。国であり、貧困対策をしたくない一部の国会議員であることは間違いないだろう。
そして複雑なのは、貧困バッシングをしている人の一部が、貧困当事者であるということだ。ライブなんて、映画なんて贅沢、とバッシングする人々の言い分を見ていると、ギリギリの収入で、本当に文化的なものから切り離された生活を送っている層の悲鳴に聞こえてくる。結局、貧しい人が「自分よりマシに見える人」を叩くことによって、貧困対策をしたくない政治家を利するような状況を作り出しているという「ねじれ」。こんなことが、もう10年間も続いているのである。
だからこそ、貧困バッシングをする人の気持ちがどこかわかる、という人に対して、言いたい。
あなたが条件反射的に、「なにが貧困? ムキーッ」となったその3段階、5段階先に起きることはなんなのかを、想像してみてほしい。それは結果的に、自分の首を締め、権利を切り崩すものにならないのか。時には5年後、10年後に起きうることまで想像してみてほしいのだ。これは私自身が、常に自分を戒めるために自らに課していることでもある。
同時に、「犠牲の累進性」という言葉も思い出してほしい。
「もっと大変な人がいる」と誰かの口を塞いだ果てに起きることはなんなのか。誰かの苦しみを、私たちは勝手に低く見積もることはできないし、自分の苦しみも誰かに「大したことない」なんて言われたくない。「甘えるな」。よく言われる言葉だが、その言葉は、貧困対策をせず、安易にバッシングに走って問題をすり替えている政治家にこそ向けられるべきものではないのか。
それにしても、十数年前までは、「バッシング」の対象は、もっと強くて、権力性を帯びているものだったように思う。もっと見るからに「得」をしていて、「利権」や何かが絡んでいるようなものだったように思う。
それなのに、生活保護受給者ですらない高校生の女の子をよってたかってバッシングする社会。
そう思うと、この社会の底の抜け具合に、「ここまで来たか」と言葉を失ってしまうのだ。