日本と同じく敗戦国のドイツは軍備を放棄しましたが、1950年代に基本法(憲法)を改正し、軍を創設し、徴兵制を定め、派兵の範囲はNATO域内としました。
はじめは軍国ドイツの復活を警戒する米英仏に遠慮して自国防衛の規定を入れなかったということですが、一度歯止めを外してしまうとあと一瀉千里で、またたくうちに戦争をする国家に変身しました。
1991年に湾岸戦争が起きると、巨額の支援をしながらも日本と同様派兵を見送ったため国際的批判にさらされました(もともとイラクをクエート侵攻に誘ったのはアメリカなので、その批判に正当性はありませんでしたが)。
NATO域外のソマリアで内戦が起きるとPKOに参加し、旧ユーゴスラビア紛争では艦隊を派遣しました。
それに伴って国内では違憲・合憲の論争が激化しましたが、1994年に連邦憲法裁判所は議会の同意を条件に域外派兵は可能と判断しました。
このようにしてドイツはNATO域外においても戦争のできる国家に変貌しました。
日本は、このドイツの歩みを十分に心に留めておくべきです。
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(社説)今、憲法を考える(6)ドイツ「派兵」の痛み
東京新聞 2016年9月5日
日本と同じく敗戦国でありながら、ドイツは一九五〇年代、基本法(憲法)を改正し、再軍備を明記した。基本法を起草した西ドイツの議会評議会は、軍国ドイツ復活を警戒する米英仏を刺激することを避け、自国防衛の規定を入れなかった。
ところが、冷戦の激化で情勢は一転。米国など西側陣営は、朝鮮戦争に危機感を強め、ソ連に対抗する北大西洋条約機構(NATO)を設立、再軍備を認める。
基本法改正で軍を創設、徴兵制(最長時兵役十八カ月、今は凍結)を導入した。
ただし、派兵はNATO域内に限った。
さらなる転機は一九九一年一月の湾岸戦争だった。ドイツは日本と同様、派兵を見送り、巨額の支援をしながらも国際的批判にさらされた。
保守中道のコール政権は基本法は変えないまま、NATO域外のソマリア内戦国連平和維持活動(PKO)に参加し、旧ユーゴスラビア紛争では艦隊を派遣する。国内で激化する違憲・合憲論争を決着させたのが、連邦憲法裁判所だった。
九四年、議会の同意を条件に域外派兵は可能、と判断した。指針が示され、軍事力行使拡大への道が開かれた。
よりリベラルなはずの社会民主党・緑の党連立のシュレーダー政権は、ユーゴからの独立を宣言したコソボ問題でNATO軍のユーゴ空爆に加わった。「アウシュビッツを繰り返さない」-少数民族の虐殺を許さないという人道上の名目だった。
同盟国と軍事行動に参加し、国際協調を貫く-そんなきれいごとだけでは終わらなかった。さらに戦争の真実を知らしめたのは、アフガニスタンへの派兵だった。
ドイツが任されたのは安全とされた地域だったが、十三年間にわたる派兵で、五十五人の兵士が亡くなった。市民百人以上を犠牲にした誤爆もあった。
退役後も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむ若者の手記はベストセラーになった。独週刊誌シュピーゲルは、いやおうなく激戦に巻き込まれていった検証記事を掲載し、派兵を批判した。
戦場では見境もなくエスカレートし、命を奪い合う。政治の論理や机上の作戦では、修羅場は見えない。派兵への歯止めを外したドイツは今も苦しむ。