戦時中に軍機保護法違反=スパイ容疑で投獄された宮沢弘幸さんは、極寒の網走刑務所で栄養失調から結核になり、終戦後に釈放された1年4ヶ月後に27歳の命を閉じました。
北大2年生の宮沢さんが、樺太旅行時に偶然見かけた根室の海軍飛行場のことを、北大英語教師のレーンさんに話したことが国家機密の漏洩に当たるとされたもので、日米戦争の開始当日に逮捕されました。
その飛行場は当時の絵葉書にも載っていたもので完全な冤罪でした。
逮捕の根拠となった軍機保護法こそは特定秘密保護法の前身に当たるものです。
宮沢さんの妹の秋間美江子さん(87)は、「レーン・宮沢事件」と呼ばれた事件の「スパイの家族」としてその後を生き、いまは米国に滞在しています。
彼女は、弘幸さんの命日の22日に東京都内で開かれる集会で、特定秘密保護法の廃止を訴えるために、病身を押して車椅子で来日しました。
成田空港に降り立った秋間さんは、「日本はせっかく民主主義の国になったのだから、人を黙らせる法を廃止してほしい。今からでも間に合う」と語りました。
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東京新聞の集会報告記事を追加
(関係記事)
2013年12月3日「宮沢・レーン事件」
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レーン・宮沢事件:元北大生の妹が来日…秘密保護法を危惧
毎日新聞 2014年02月21日
「私たちのような人間が再び出ないようにしてほしい」。
太平洋戦争開戦当日の1941年12月8日、スパイ容疑で逮捕され、27歳で亡くなった元北海道帝国大生、宮沢弘幸さんの妹で、米コロラド州に住む秋間美江子さん(87)が病身を押し21日、来日した。国家機密の漏えいに厳罰を科す特定秘密保護法の成立(昨年12月)に心を痛め、弘幸さんの命日の22日、東京都内で開かれる集会で、同法の廃止を訴える。
兄の悲劇は「レーン・宮沢事件」と呼ばれる。秋間さんらは「スパイの家族」として生き、「苦しみは経験した者にしか分からない」と話す。
秋間さんは近年、病気で手術を繰り返してきたが、集会を知り急きょ駆けつけた。車いすに乗って成田空港に降り立った秋間さんは約13時間の長旅に時折、疲れた表情を浮かべながらも、「日本はせっかく民主主義の国になったのだから、人を黙らせる法を廃止してほしい。今からでも間に合う」とはっきりとした口調で語った。【青島顕】
◇レーン・宮沢事件◇
1941年、宮沢弘幸さんと英語教師のレーンさん夫妻が当時の軍機保護法違反容疑で特高警察に逮捕され、懲役15〜12年が確定した。レーン夫妻は戦争中に交換船で帰国したが、宮沢さんは戦後釈放されたものの、47年2月22日に肺結核で死亡した。90年代になって、主な容疑は「根室に海軍飛行場が存在することなどをレーン夫妻に話した」であることが判明した。飛行場の存在は、新聞報道などで当時広く知られていた。
スパイ嫌疑学生の追悼集会 「悪夢再来、許さない」
東京新聞 2014年2月22日
太平洋戦争中、軍の飛行場の場所など周知の事実を米国人に伝えたことで、軍機保護法違反罪で懲役刑を科された北海道大学生の宮沢弘幸さんが死去してから67年を迎えた22日、宮沢さんが眠る東京・新宿の常円寺で追悼の集いが開かれた。約140人が「悪夢再来の特定秘密保護法を許さない」と法廃止を訴えた。
集会は「北大生・宮沢弘幸『スパイ冤罪事件』の真相を広める会」が主催。宮沢さんは1941年12月8日に摘発を受け、網走刑務所に収監された。敗戦で軍機保護法が廃止になった45年10月に釈放されたが、衰弱しており47年2月22日に27歳で病死した。(共同)