90年前の2月20日、小林多喜二が検挙され、築地署で凄惨な拷問を受けてその日の夕刻に死亡しました。29歳でした。多喜二の死体は全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていました。
多喜二は、北海道拓殖銀行勤務中の25歳のときに雑誌『戦旗』に『蟹工船』を発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め、日本のプロレタリア文学代表的小説家と評価されました。他にも『一九二八年三月一五日』、『不在地主』など、作品は多数あります。
澤藤統一郎氏が同氏のブログ『憲法日記』に、「多喜二虐殺から90年。忘れまい、多喜二と母の無念を。」という記事を発表しました。
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多喜二虐殺から90年。忘れまい、多喜二と母の無念を。
澤藤統一郎の憲法日記 2023年2月20日
90年前の今日1933年2月20日、小林多喜二が築地署で虐殺された。権力の憎悪を一身に集めてのことである。特高警察による野蛮極まる凄惨な殺人事件であった。母セキは多喜二の遺体にすがって、「もう一度立たねか」と泣き崩れた。29歳で殺害された多喜二と、その母の無念を忘れてはならない。そして、多喜二とセキに連なる、無数の無名の犠牲者のあることも。
一年前の当ブログにも多喜二のことを書いた。ぜひお読みいただきたい。
「本日が多喜二の命日。多喜二を虐殺したのは、天皇・裕仁である。」(22.2.20)
⇒ http://article9.jp/wordpress/?p=18590
有名作家だった小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道した。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけのものであった。
そればかりか、特高は、東大・慶応・慈恵医大に圧力をかけて遺体解剖を拒絶させた。さらに、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束した。これが、天皇制権力のやりくちであった。そのような権力の妨害にも拘わらず、詳細な多喜二の死体の検案ができたのは、安田徳太郎(医学博士)や江口渙(作家)ら友人の献身があったればこそである。
時事新報記者・笹本寅が、検事局へ電話をかけて、多喜二の死因を「検事局は、単なる病死か、それとも怪死か」と問い合わせると、「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の一人が大喝して電話を切ったという。
「これ以上文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」という脅しは、空文句ではない。1928年改悪の治安維持法は、新たに、目的遂行罪を創設した。「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」である。平たく翻訳すれば、「何であれ、共産党の目的遂行のために力を貸すようなことをした者には、最高2年の懲役または禁錮の刑を科す」という条文。要するに、警察・検察の一存で、共産党に関わったら、誰でもしょっぴくことができるとされていた時代のことなのだ。
この天下の悪法による逮捕者数は数十万人にのぼるとされる。司法省調査によると、送検された者7万5681人、うち起訴された者は5162人に及ぶ。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人。多喜二の虐殺もそのうちの1件であった。
警察も検察も報道もグルになって多喜二の虐殺を隠した。天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲し、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じた。何という狂った時代だったのだろうか。
1933年の2月と言えば、日本が国際連盟を脱退したとき(24日)であり、ベルリンで国会放火事件が起きたとき(27日)でもある。日本も世界も、戦争とファシズムへの坂を転げ落ちていたとき。その時代のもっとも苛烈な弾圧の矢面に立ったのが、多喜二であったと言えよう。とても真似はできないが、せめて、「あの時代にも困難であったけれど、多喜二のように抵抗する生き方があったと知ることは重要」という言葉を噛みしめたい。
(参考記事・07年2月17日、09年2月18日付「しんぶん赤旗」)