2024年4月15日月曜日

水俣病全被害者救済へ ノーモア・ミナマタ第2次新潟訴訟 判決前に決起集会

 九州の水俣地方で発生した水俣病は、1956年に原因不明の「奇病」として水俣市の保健所に届けられました。熊本大学はいち早く「チッソ」の工場排水中のメチル水銀が原因であることを突き止めました。それはアセトアルデヒドの製造工程で用いられる触媒の水銀が有機化したものでした。
 しかし重化学工業に必須物質であるアセトアルデヒドの生産を止めたくなかった政府はそれを認めず、多年にわたり工場排水が水俣湾に流され続けた結果、膨大な水俣病患者が生み出されました。
 新潟水俣病は約10年遅れの1965年に確認されましたが、訴訟は九州の水俣病よりも早く、全国初の本格的公害裁判となった新潟水俣病第1次訴訟で、71年原告側が勝訴しました。
 ところが政府は1977年に水俣病の認定基準を「手足の感覚障害に加え、視野狭窄や運動失調など2種類以上の組み合わせが必要」と改悪して、それによって多くの患者が認定されなくなりました。あからさまな企業の救済で、新潟水俣病の第1次訴訟が勝利したにもかかわらず、第2次訴訟以降多くの患者の救済が断たれてきたのはそのためです。

 新潟県のノーモア・ミナマタ第2次新潟訴訟18日判決が出されます。国と加害企業の昭和電工が裁判を不当に引き延ばしてきたこの10年で、原告149人中31人が亡くなりました。「生きているうちに解決を!」は被害者の切実な願いです。
 原告団と支援団体が13日、水俣病全被害者の救済と公害の根絶を求める判決前決起集会を新潟市で開き、160人が参加しました。
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水俣病全被害者救済へ ノーモア・ミナマタ第2次新潟訴訟 判決前に決起集会
                        しんぶん赤旗 2024年4月14日
 新潟県のノーモア・ミナマタ第2次新潟訴訟で、18日の判決日を前に、原告団と支援団体が13日、水俣病全被害者の救済と公害の根絶を求める判決前決起集会を新潟市で開き、160人が参加しました。

 新潟水俣病共闘会議議長の中村洋二郎弁護士は、国と加害企業の昭和電工が裁判を不当に引き延ばしてきた10年で、原告149人中31人が亡くなり、「生きているうちに解決を!」は被害者の切実な叫ぴだと強調。国に第二の水俣病を引き起こした責任を認めさせようと訴えました。
 水俣被害者とともに歩む国会議員連絡会の西村智奈美会長が連帯あいさつ。熊本、畿、東京の訴訟原告団代表もも駆け付け、すべての水俣病被害者の早期救済に向けて、とも勝 利判決を勝ち取る決意を訴えました。

 原告の加賀美節子さん(76)は、生きるため阿賀野川の魚を毎日のように食べてきた生活、手足のしびれや耳鳴りなど自覚症状の悪化、「偽患者」「金欲しさ」などの偏見・差別の攻撃で心を痛めてきた被害者の実情を告発し、偏見をなくし、すべての被害者を救済するため、裁判に勝利したいと訴えました。
 原告団長の皆川榮一さん(80)は、10年の裁判で原告の平均年齢は75歳以上になり、症択が悪化している一方で、偏見・差別から家族にも明かせない原告もいると話し、国と加害企業を全被害者の救済に向けたテープルにつかせるためには負けられないと述べ、「18日の判決は必ず勝ちます」と力強く決意を訴えました。