全国初の本格的公害裁判となった新潟水俣病第1次訴訟で、71年、原告側が勝訴(判決は1審で確定)してから29日で50年となります。この勝利をもたらしたものは、弁護団(幹事長・坂東克彦弁護士)の健闘は勿論ですが、「県民主団体水俣病対策会議」に結集した労組などの応援に加えて、新に配置された裁判長の英断も大きかったのでした。
判決で示された補償は不十分なものでしたが、その後何回にも渡って行われた昭和電工との個別交渉の結果、73年に昭和電工と一時金や年金などの補償協定が結ばれたことでそれをかなり補うことが出来ました。協定の前文では、「すべての被害者に救済の手を差し伸べるのが人間の道」と謳われました。
しかしその後政府は77年、新潟水俣病の認定基準を「水銀の影響を受け、複数の症状の組み合わせがある」(椿認定基準)ことに改悪した結果、多くの被害者が患者として認定されなくなりました。
そもそも水俣病は熊本のチッソの排水によって生じました。九州大学はいち早く排水中の有機水銀に起因していることを突き止めたのですが、政府はそれを認めず、委員会を作って否定させるなどして原因の確定を妨害しました。その結果長期間に渡ってチッソの排水を水俣湾に流し続けさせ、多数の住民を水俣病に罹患させたのでした。。
新潟や九州の水俣病患者たちの多くは、水俣病患者と認定されないまま亡くなりました。認定された人たちはそれなりの補償は受けられましたが、症状が治るということはありませんでした。
水俣病の深刻さと政府の犯罪的な冷酷さを改めて想起させられるこの70年です。
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「画期的勝訴」光と影
新潟水俣病1次訴訟判決50年 被害者救済道半ば
新潟日報 2021/09/21
全国初の本格的公害裁判となった新潟水俣病第1次訴訟で、原告側が勝訴してから29日で50年となる。漁師らが国策を推進する大企業を相手に勝訴したことは、他県での公害被害者の勝訴につながり、公害根絶の機運を高めた。一方で国は補償を受けられる被害者を絞り、症状があっても救済されない人が多く生まれた。それは「認定問題」として今も根深く残る。当時を知る人とともに、「画期的」と評された判決がもたらした光と影を見つめた。(報道部・坂井有洋)
阿賀野川のほとりで静かに暮らしていた人たちが、大企業に立ち向かった。新潟水俣病の公式確認から2年後の1967年6月、新潟市などに住む3家族13人が昭和電工を提訴した。
手足がしびれる、ふらつく、大声を出して暴れる…。川魚を食べていた人の体に起きた異変は、昭和電工鹿瀬工場(現阿賀町)が流した水銀を含む廃水が原因とみられた。しかし昭和電工は一貫して否定。裁判は原因究明と加害責任を問う場になった。
周囲からは「勝てるわけがない」と言われた。しかし、医師や弁護士、労働組合などで結成した「県民主団体水俣病対策会議」が全面支援。原告は77人に増えた。四日市公害など全国の公害裁判も後に続いた。
71年9月29日、新潟地裁は昭和電工の排水が原因と認め、「住民の生命、健康を犠牲にしてまで企業の利益を保護しなければならない理由はない」と断じた。
「企業の加害責任を認めた画期的な判決だった」
医師や弁護士、労働組合などで構成する「県民主団体水俣病対策会議」の議長だった医師の斎藤恒さん(90)は法廷の最前列で判決を聞いた時の記憶を振り返る。
被告の昭和電工は控訴せず、原告の勝訴が確定。全国の裁判でも原告の勝訴が続いた。被害者救済の声が高まり、1971年の環境庁発足とともに公害対策も加速した。
73年、昭和電工と一時金や年金などの補償協定が結ばれた。前文では、すべての被害者に救済の手を差し伸べるのが人間の道、とうたわれた。
「これで終わりだ」と、誰しもが思った。しかしそれは、今に続く「認定問題」の始まりだった。
補償は国に患者認定されないと受けられないが、補償協定以降、棄却者が認定者を上回るようになった。77年には認定基準が「水銀の影響を受け、複数の症状の組み合わせがある」とする厳しいものに変わった。
熊本の水俣病訴訟も原告が勝訴し、認定申請者が多い時期と重なる。1次訴訟弁護団だった中村洋二郎弁護士(86)は「国は補償金を払う原因企業の財務を考え、患者数を絞った。被害者より加害企業を擁護した」と批判する。
症状による線引きで補償されない人たちが、司法に解決を求め、現在も続く訴訟もある。斎藤さんは「水俣病という公害はいま、水銀による神経症状は何かという難しい医学論争に変わった」と指摘する。
「水俣病は汚染された川魚が原因の食品中毒。魚を食べて症状が出た人はみんな被害者だ」と強調する斎藤さん。ただ1次訴訟当時にそうした公衆衛生的な知見は少なく、主張できなかったことを悔やむ。「50年もたってしまった。何とか全被害者救済で問題を解決してほしい」と願った。
◎教訓として社会を守らねば 写真で記録を続けた曽我浩さん(新潟市北区)
1971年9月29日、ごった返す新潟地裁前。「原告の勝利確定」と書かれた白い垂れ幕が掲げられると、万歳三唱が繰り返された。その中で、曽我浩さん(74)=新潟市北区=は夢中でシャッターを切っていた。
曽我さんは旧豊栄町の農家の長男。写真が好きだったため、1次訴訟の原告だった伯父に、訴訟の記録を撮影するよう頼まれた。
被害者には農家や漁師が多く、保守系が大半。伯父も自民党員で、当時の塚田十一郎知事の後援会にいた。「知事に頼んで何とかしてもらう」と話し、裁判は考えていなかった。
しかし、色よい返事は得られず、「高度経済成長期にあって、知事も企業寄りだと感じたようだった」。その後、伯父は1次訴訟に参加。それ以来、行動を共にするようになった。
地域内の分断もあった。「魚の値段が下がるから患者を出すな」という地域もあり、「裁判をするなら村八分にしてやる」と言われた人もいた。政治的な介入で裁判をさせないようにする動きもあった。曽我さんは「裁判を闘う人に意思確認して回る毎日だった」。
重症患者の家を訪ねた時、曽我さんは手を握られ、うまく開かない口で「自分をこんな体にしたやつらを許さない。何とかしてくれ」と懇願された。
曽我さんは原告ではなかったが、「被害者が救済されないのはおかしい。病気を引き起こした責任を認めない昭和電工を許せない気持ちになった」。
判決の日、喜ぶ人の表情を撮り続けた。鳴りやまない拍手に「公害を許さないという思いで、患者と支援者、世論が一体となった勝利だ」と感じた。
曽我さんは当時のフィルムを見返しながら思う。「環境を破壊しては人間は生きられない。水俣病を教訓に、将来に続く社会を守っていかないといけない」