2025年8月14日木曜日

戦後80年の広島と長崎の原爆の日 - 石破茂の健闘、緊張感を失った外国代表団

 世に倦む日々氏が掲題の記事を出しました。
 今年の広島と長崎の原爆の日のハイライトだったのは石破首相の式典挨拶だったとして、6日の広島では式辞の最後に「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」と詠んだ正田篠枝の短歌を引用し「万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします」と結び、9の長崎では「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」と言った永井隆の言葉を引用し、「長崎と広島で起きた惨禍を二度と繰り返してはなりません」と誓ったことを紹介し、それは総理大臣の挨拶文として素晴らしく、国民の記憶に残り、歴史に刻まれるだろう 高く評価しました

 そして石破は防衛族議員で過去には核共有や核持ち込みの必要を発言した危険な経歴もあるけれども、これらの原爆忌における挨拶を聞くかぎりこのが首相の職にあって自衛隊最高司令官を務めている間は、核の先制攻撃を中国に仕掛ける愚はないだろうという安心安全の意識を持つと述べました。
 同氏がこのように現役の首相を高く評価するのは初めてのことではないかと思います。
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戦後80年の広島と長崎の原爆の日 - 石破茂の健闘、緊張感を失った外国代表団
                       世に倦む日日 2025年8月13日
戦後80年。広島と長崎の原爆の日を迎えて過ぎた。8/6 の平和記念式典での湯崎英彦のスピーチが秀逸で、テレビ報道でも特に注目されて取り上げられていた。この官僚上がりの保守系の広島県知事は、2009年の就任以来これまで15回、この式典に登壇して挨拶文を読み上げて来たはずだが、一度もマスコミで話題になった記憶がない。広島市長が述べる平和宣言に較べて熱のない平板な弁辞が並び、式典を中継する毎年の放送で無意味な脇役の存在感に止まっていた。人物や政治姿勢についてもあまりよい評判がなく、例えば、-5年前の「黒い雨」救済案をめぐる問題では、国の指針を安易に受け入れた早期決着の判断に対して原告団から批判の声が上がっている。この知事の間に広島は二度の大きな豪雨災害に遭い、多くの犠牲者を出したが、私の目から見て、その初動対応は杜撰で怯懦で泥縄的だった。責任感が薄弱で、後ろに引っ込んでいた。

その湯崎英彦が、人が変わったように模範的ステイツマンになり、画期的とも言える核抑止論批判のメッセージを堂々と発信して驚かされた。内容はすぐれて論理的で説得的であり、今日的意義が大きく、世界から反響が集まってよい言説だ。日本被団協がノーベル平和賞を授与された後、半年後の原爆の日に、被爆地広島のリーダーが世界に発して聴かせる価値のある演説だと言える。この演説を生中継のテレビで聞きながら、2年前に書いた『高橋杉雄の詭弁 - アメリカの大統領は核の意思決定で合理的判断ができる指導者なのか?』のを思い出した。ひょっとしたら、湯崎英彦はこの note を読んだのではないかと自惚れた想像を廻らせてしまう。湯崎英彦の今回の主張は、私と基本的に同じ視角と認識であり、同じ論法で核抑止論の陥穽と無意味を衝き、核抑止論に基づく安保政策の不当性を駁している。核抑止論に依拠した安保路線からの脱却の提言そのもの

保守系知事の核抑止論批判は心強いが、現状は残念ながら、佐藤正久や高橋杉雄が唱える、すなわち米軍CIAが主導する拡大核抑止”の軍事戦略が一方的に推進されていて、しかも配備のフェーズを超えて実戦使用の段階にまで至っている。7月の報道によると、自衛隊と米軍が昨年実施した「台湾有事」想定の最高レベルの机上演習で、中国が核兵器の使用を示唆する発言をしたという局面を敢えて設定し、自衛隊が米軍に「核の脅し」で対抗するよう再三求めたという「反撃」で進行させた経緯が明らかになっている。この事実について防衛省は公式には否定しているが、共同通信がスッパ抜いた報道ではなく、自衛隊が共同記者にリークした事案であり、要するに米軍と自衛隊が、核使用(核攻撃の応酬)を織り込んだ対中戦争をプログラムしている真相を日本国民に知らしめ、その軍事想定と作戦計画を容認させ、意識心理面で耐性を付けさせようという既成事実化の政治に他ならない

机上演習はリアルな実戦を想定したシミュレーションである。重大な軍事機密だから、通常は外部に漏れることはない。が、琉球朝日放送の記事では、核の脅しをアメリカに要求したのは統合幕僚長の吉田圭秀だと特定されていて、米軍もその脅しに合意したと明らかにされている。米軍・自衛隊は隠してない。報道が世間に示した恐ろしい意味は二つある。第一に、日米同盟と中国との戦争は、核使用か否かという決断の土壇場まで中国側を追い詰める作戦攻勢が想定されているということ。第二に、こうした机上演習の結果が出た以上、現場で臨機応変に核攻撃ができるよう同盟軍の陸海空で核の配備を進めるということ、である。琉球朝日の記事では、自衛隊はご丁寧に「12式地対艦誘導弾能力向上型」の配備計画までリークで付け加えていて、陸自の熊本市・健軍駐屯地とうるま市・勝連分屯地に配備すると言っている。この2拠点に中距離核ミサイルを置くべく準備を進行中という意味だろう

日本の核武装、すなわち自衛隊の核配備は、かなり現実の日程になっているということを、ここ数年ブログで説いて警鐘を鳴らしてきた。①スパイ防止法の制定、②徴兵制の実施、③核武装の解禁、④靖国神社の国営化、この4本柱が、憲法9条改定と共に達成目標となる戦争政策の課題だと論じてきた。参政党はこの4つすべてを要求し実現に向けて動いていて、自民党右派も同じであり、国民民主党も維新もほぼ同列の位置にある8/6 と 8/9 を含む慰霊の季節には、テレビで被曝の惨状がクローズアップされ、被爆者の苦痛と苦悩に心を痛め、核廃絶の声が高まるけれど、それを過ぎれば、報道1930に高橋杉雄や小泉悠が出演して拡大核抑止策をプロパガンダし、その「正当性」を松原耕二と堤伸輔がエンドース⇒裏書保証)するという図に旋回する。8/15 が過ぎた途端、マスコミで中国脅威論のボルテージが上がり、平和主義の世論が沈黙し、8月末の概算要求で防衛費大幅増が素通りするという展開になる

さて、今年の広島と長崎の原爆の日のハイライトだったのは、石破茂の式典挨拶だった。8/6 の広島では式辞の最後に「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」と詠んだ正田篠枝の短歌を引用し、「(その歌を)万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします」と結語した。8/9 の長崎では「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」と言った永井隆の言葉を紹介、「長崎と広島で起きた惨禍を二度と繰り返してはなりません」と誓った。内閣総理大臣の挨拶文として素晴らしく、よく稿を編んだと思う8/6 と 8/9 に石破茂がどんな言葉を発するか期待して見守ったが、予想どおりの理念的なステイツマン像を披露してくれた。国民の記憶に残り、歴史に刻まれる成果だろう。われわれ市民は、国民の代表である首相にこういう仕事をして欲しいのだ。これが指導者たる政治家の姿であり、本来の政治である。国のトップがかく行動することで社会がよくなる

石破茂は安全保障を専門とする防衛族議員で、過去にはタカ派で物議を醸してきた政治家だった。核共有や核持ち込みの必要を発言してきた危険な経歴もある。けれども、8/6 と 8/9 の演説を聞くかぎり、この男が日本国首相の職にあって自衛隊最高司令官を務めている間は、核の先制攻撃を中国に仕掛ける愚はないだろうという安心安全の意識を持つ。米軍・米大統領が中国相手に核使用する意思決定や指示にも反対するだろう。核戦争を始める人間になるのではなく、核戦争を止める人間になるはずで、その立場を選ぶだろうと確信できる。今、日本に必要なのは平和を守れる政治家や指導者だ。戦争を避ける方向に舵を取る首相だ。その観点から、野田佳彦よりもはるかに石破茂に信頼を置けるし、自民党と野党の中で石破茂以上に平和を託せるリーダーはいない。高市早苗、小泉進次郎、小林鷹之、玉木雄一郎、神谷宗幣、どれもこれも、アメリカと一緒になって台湾有事に奔る政治家ばかりで、戦争を避けようとする政治家がいない

今年の慰霊の季節の日々は、石破おろしの熾烈な権力闘争、と言うよりも苛烈で陰湿な弱い者いじめの糾弾リンチの中で刻一刻が過ぎ、今も自民党内とマスコミで政局の謀略が続いている。同年齢でキャンディーズフリークの「同志」たる石破茂に同情を禁じ得ない。ところで、今年の広島・長崎の原爆の日の式典で気になったのは、招待され参列している諸外国の大使など代表たちの態度が、例年と比べてぞんざいと言うかルーズな印象が漂っていた点である。広島県知事の声明などは刮目すべき政治哲学の原理論であり、普通なら、顔を強張らせて真剣に聴き入る反応になるのが当然だ。だが、特にサングラス姿の欧州諸国代表と思しき男女の一団は、緊張感なく扇子をパタパタさせる姿をカメラに見せ、まるで、そんな理想論のお説教は聞きたくないよと言いたげな仕草で賓席に座っていた。例年その場面で見られる神妙な情景が消えていた。きのこ雲の下の世界を想像して一人一人が恐れ慄き、厳粛な気分になり、罪の深さに覚醒する様子ではなかった

そこには事情と背景が二つあるだろう。その一つは、今年になって急に盛り上がった欧州核武装の情勢の影響であり、対ロシア防衛の論理から扇動された欧州自前の核配備の気運と動向である。3月にマクロンがフランス保有の核兵器を欧州に拡大する検討を始めたと表明、アメリカに依存しない欧州独自の「核の傘」を対ロシア抑止力として広げる戦略案を公言した。メルツから2月に要請があった事実が明かされていて、ドイツのコミットの下での発表である。6月にドイツの世論調査機関が行った調査では、欧州がアメリカに依存しない独自の核抑止力を持つ構想に対して、64%が「支持する」結果が出ていた。7月には英仏首脳が会談して核兵器の運用で連携協力することを合意、両国で核政策を調整する実務グループを創設すると発表した。広島と長崎の式典に出席した欧州の代表たちは、こうした足下の状況を踏まえてその場に臨んだわけで、平和主義の核廃絶論や核抑止論批判には同意できない(本国の)立場をカメラの前で示唆したのに違いない

二つ目は、もっと深刻な問題としてガザの現実がある。イスラエルによるガザ虐殺の死者数は、8/5 時点で6万1000人超とされている。が、これはガザ保健省の統計値であり、研究者チームによる計算では今年6月時点で8万3000人を超えたと推計されている。昨年10月の Forbes の記事では、瓦礫に埋まったままカウントされていない犠牲者がいて、餓死者が6.7万人もあり、死者数は十数万人に上ると推定されていた。長崎の原爆の死者数は、1945年末までに7万4000人と言われている。ガザの死者数はこの数に並んだ。この世の地獄とか生き地獄とか、原爆の惨状を語る言葉のリアルは、ガザの地上で起きていて今も続いているのである。街の破壊の絵も同じだ。しかも、ガザには救援が入らず、アメリカとイスラエルが国連を無視して非道に救護を止めているアメリカとイスラエルがガザ住民の虐殺をあらゆる残酷な手段で続けている。そして、それを欧州諸国は容認し、ハマス叩きの詭弁や「反ユダヤ」云々の陳腐な屁理屈で正当化している

広島と長崎の式典会場で扇子をパタパタさせていたサングラス姿の男女の一団は、ガザ虐殺を事実上容認し加担している国々の代表であり、外交官(高官)である彼らの神経は正常を失って麻痺しているのだろう。アーレントの言う「凡庸な悪」に染まった人々であり、イスラエルによる毎日の悪魔的な虐殺執行を、最早感情を動かすこともなく事務的に眺めて、何事もないかの如くルーティン処理し、国際政治の中で正当化している実務者たちなのだ