原爆投下から80年になる6日、広島市の平和公園で午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、石破総理大臣のほか、過去最多となる120の国と地域の大使などを含むおよそ5万5000人が参列しました。
式典では、広島で被爆し、この1年に亡くなった人や死亡が確認された人、あわせて4940人の名前が書き加えられた34万9246人の原爆死没者名簿が、原爆慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に、参列者全員が黙とうをささげました。
NHKの記事を紹介します(長文のため一部を割愛しました)。
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広島 原爆投下から80年 核兵器廃絶を訴える1日に
NHK NEWS WEB 2025年8月6日(12時02分)
広島への原爆投下から、6日で80年です。被爆者が高齢化し、体験を直接聞くことが次第に難しくなる中、核兵器をめぐる国際情勢は厳しさを増しています。被爆地・広島は、6日、被爆者たちが一貫して繰り返してきた核兵器廃絶の声を、改めて国内外に強く訴える1日となります。
平和記念式典に5万5000人が参列
広島市の平和公園で午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、石破総理大臣のほか、過去最多となる120の国と地域の大使などを含むおよそ5万5000人が参列しました。
式典では、広島で被爆し、この1年に亡くなった人や死亡が確認された人、あわせて4940人の名前が書き加えられた34万9246人の原爆死没者名簿が、原爆慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に、参列者全員が黙とうをささげました。
《追悼に訪れた人々の声》
広島に原爆が投下されて80年となる6日、広島市の平和公園には朝早くから被爆者や遺族が訪れ、祈りをささげていました。
被爆者の90歳女性 “被爆当時の光景 言葉にできない”
姉2人と弟1人を亡くしたという広島市西区に住む90歳の被爆者の女性は「原爆のことはずっと考えたくありませんでしたが、もう、私も90歳でこれが最後だと思って供養塔に来ました。被爆当時の光景は言葉にできません。今、世界では戦争がたくさん起こっていますが、こうした現状はなんとかならないのか。そうした思いで祈りをささげました」と話していました。
入市被爆した94歳男性 “私のような思いする人 二度と出ないで”
原爆で両親と2人の姉、それに祖父母を亡くし、自身は入市被爆した94歳の男性は、広島市西区からひとりで原爆慰霊碑を訪れました。
男性は「学徒動員で広島市外にいて、翌日に市内に戻ると、川で亡くなっている人がたくさんいて、水を求めながら亡くなったんだと思いました。あの日のことを思い出すと、悲しくて悔しくて、子どもや孫にも話せない。私のような思いをする人が二度と出ないように、この地球から核兵器をなくしてほしい」と話していました。
両親と兄が被爆 75歳女性 “原爆に足引っ張られ 苦しんできた”
両親と兄が被爆したという京都府の75歳の女性は「兄は1歳半で被爆してすぐに亡くなりましたが、いまも生きていれば81歳で、ふつうに生きてほしかったとずっと思い続けています。自分は被爆2世で、原爆によって足を引っ張られ、苦しんで生活してきました。核兵器は絶対に使ってはいけないですし、解決は話し合いで行うべきだと思います」と話していました。
夫が被爆者 79歳女性 “亡くなった夫の分まで生きる”
夫が被爆者で30年前に亡くなったという広島市中区の79歳の女性は「亡くなった夫の分まで生きようと思ってきて、きょうも手を合わせました。原爆の影響は先々まで尾を引いて亡くなる方もいます。夫がその後も生きていれば、一緒に旅行に行けたり食事ができたりしたと思います。世界の核兵器がなくなるよう祈るしかないです」と話していました。
親族が被爆した46歳男性 “積極的に平和への活動を”
原爆で祖母や親族が被爆したという広島市中区の司法書士の46歳の男性は「8月6日には休みが取れる限り毎年来るようにしている。核抑止力を訴える政治家が出てきていることに憂いを感じている。平和教育を受けてきたわれわれ世代が積極的に平和への活動をしていきたい」と話していました。
両親が被爆した69歳女性 “核兵器は使わないことが一番”
原爆で祖父を亡くし、両親が被爆した広島市の69歳の女性は「広島はずっと平和を訴えていますが、世界中で戦争が起きていて、訴えが伝わらないことが悲しいです。戦争は二度と起きてほしくない。核兵器は使わないことが一番だと思います」と話していました。
父親が被爆者 61歳男性 “ウクライナとロシアの状況は残念”
亡くなった父親が被爆者だったという広島市南区の61歳の男性は「亡くなった方に静かに安らかに眠ってくださいという思いで手を合わせました。ウクライナとロシアの状況などを見ていると、生まれたばかりの子どもが亡くなったりしていて残念ですし、どこに怒りをぶつけていいのか分からないです」と話していました。
自宅で祈りをささげる被爆者も
両親を亡くし「原爆孤児」として生きてきた被爆者は、両親を思い出すとつらいとして今も平和公園には近づくことができず、自宅で静かに祈りをささげました。
広島市東区の被爆者、山田寿美子さん(82)は2歳のときに爆心地から1キロに満たない場所にいた両親を亡くし、「原爆孤児」として生きてきました。
父親は平和公園のある場所の近くで亡くなったとみられ、山田さんは80年たった今も、両親を思い出すとつらいとして平和公園に近づくことができず、毎年、平和記念式典を自宅のテレビで見ています。
6日は原爆が投下された午前8時15分になると立ち上がって手を合わせ、涙を流しながら黙とうしました。
山田さんは「あの日、両親が家族のことを思いながら亡くなったと思うとすごくつらいです。生きている私たちがしなければいけないことは、核兵器をなくすことだと思います」と話していました。
また、イスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘が続くパレスチナのガザ地区の深刻な食糧不足に触れて「食べるものがない孤児たちの写真をみたときに、自分の被爆の状況と重なって胸が痛みました。世界の人に被爆の実相やあの日の苦しみを伝えることが被爆者としての役割だと思っています」と話していました。
長崎 「二重被爆者」の女性が黙とう
同じ被爆地の長崎では広島と長崎で相次いで被爆した「二重被爆者」の88歳の女性が午前8時15分に黙とうをささげました。
長崎市の平島アヤノさん(88)は8歳のとき、家族で移り住んでいた広島で被爆し、さらに、原爆投下翌日の長崎に避難して入市被爆した「二重被爆者」の1人です。
6日、長崎市では、広島に原爆が投下された午前8時15分にあわせてサイレンが鳴らされ、平島さんは自宅で広島の方角に向かって手を合わせて黙とうをささげ、犠牲になった人たちを悼んでいました。
平島さんは広島の駅周辺で多くの遺体がリヤカーで運ばれる様子や、長崎の街なかで立ったまま黒焦げになっていた遺体など、当時目の当たりにした光景を今も忘れられないといいます。
平島さんは「ことしも、犠牲になった人たちに『成仏なさいますように、みんなに幸せをください、忘れていません』と祈りました。広島は私の最初の被爆地ですから、最後まで手を合わせないといけないと思っています」と話していました。
平島さんは8月9日の「長崎原爆の日」に平和祈念式典が開かれる平和公園を訪れる予定だということで「もしかしたら最後の機会になるのではないかなと思っています」と話していました。
東京都内で犠牲者を追悼する集い 強い危機感を示す声
(詳細は割愛します)
埼玉所沢で式典 平和への思いを新たに
(詳細は割愛します)
《海外からの反応や動き》
米国務省報道官 “平和と希望のメッセージを敬う厳粛な日”
アメリカが広島に原爆を投下してから80年となることについて、アメリカ国務省のブルース報道官は5日の記者会見で「6日は広島の人たちと彼らの平和と希望のメッセージを敬い、過去を顧みて追悼する厳粛な日だ」と述べました。
また「広島の人たちの強じんさは80年にわたって世界に感銘を与え、その和解の精神はアメリカとの同盟を強くしてきた。80年間、アメリカと日本は肩を並べ、太平洋地域の平和と繁栄を守ってきた。今日、両国は緊密な同盟国としてともにあり未来と向きあっている」と話しました。
アメリカのグラス駐日大使は6日、広島市で行われる式典と今月9日の「長崎原爆の日」に長崎市で行われる式典にアメリカ政府を代表して出席する予定です。
グラス大使は出席に先立ち「式典に出席できることを光栄に思います。広島と長崎の人々と両市民による平和と希望のメッセージは和解が持つ力を永続的に思い起こさせてくれます」とコメントしています。
ブラジルで原爆被害テーマの企画展
広島と長崎への原爆投下からことしで80年となるのにあわせて、日系人が多く暮らす南米・ブラジルで原爆の被害をテーマとした企画展が5日から開かれ、当時、撮影された写真などで被爆の実態を伝えています。
この企画展は、ブラジルの日本大使館が企画したもので、首都ブラジリアで5日から15日まで開かれています。
会場の連邦議会のホールには、原爆投下直後の広島と長崎を撮影した写真や、広島で被爆したあと12歳で亡くなり「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんのエピソードをポルトガル語で紹介するパネルなどが展示され、被爆の実態や平和の尊さを伝えています。
初日の5日は式典が開かれ、4歳の時に広島市内で被爆し、現在はブラジリアに暮らす東海林俊恵さん(84)が「おばの体からガラスの破片を取ったことを覚えています。戦争の無残さは身にしみています」と当時の記憶を語りました。
出席したブラジルの下院議員は「戦争をなんとしても避けることが重要だと思います」と話していました。
東海林さんは「平和の大切さと、過去を正面から見ることが大事です。起きたことは起きたことなのでそれをどうするかを世界が考えてほしいです」と話していました。