2025年8月21日木曜日

21- 戦後80年の終戦の日 - 高橋哲哉の『靖国問題』を再読して考える

 世に倦む日々氏が掲題の記事を出しました。
 参院選で躍進した参政党は15日、地方議員を合せた80人余りの大部隊を組んで靖国神社に参拝するなど、靖国神社は大盛況だったということです。
高橋哲哉靖国神社建立の趣旨について、本来なら戦死者を出した遺族の感情は悲しみでしかないはずなのに、その悲しみが、靖国信仰の国家的儀式を経ることによって喜びに転化し、不幸から幸福へと変わってしまうもの」と述べ、この遺族感情の逆転を「感情の錬金術」と呼んで論理化し、「戦死者とその遺族に最高の名誉を与える国家宗教のイデオロギーを暴露し批判した」と 世に倦む日々氏は解説します。

 そして「いま靖国神社に参拝している人間の中には、こうした素朴で清浄な滅私奉公の者はいない。まず悲しみの実感や体験がない。したがって悲しみから喜びへの化学変化もない」と述べ、一部の政治家が靖国参拝にこだわる理由・動機は何なのかと言えば、「それはきわめて政治的な思想信条からの行動であり、参政党や保守党や高市早苗が代表する毒性の政治運動」であり、「反中・反共・反9条の主張をデモンストレーションし、東京裁判で否定された戦争を正当化し、敗戦前の帝国日本の復活をアピールすることが、政治祭典の場としての 8/15 の靖国参拝の目的であり本質に他ならないと断言します。

 そして9条改憲と同時に立ち起こす日本の戦争政策の4本柱として  スパイ防止法、 徴兵制、 核武装、 靖国国営化 を挙げ、その中で支配国のアメリカが最も逡巡し慎重になるのは  だろうと述べます。
 今の日本の社会は 既に「靖国の母」の世界とは遠く、親たちも子供たち(青年たち)も御国のために死んでくれてありがたいとか、天皇の盾となって死ねて嬉しい」というような心理は寸毫もないので、そうした精神構造を作るには何十年も期間が必要、なのでこの点が軍国主義化の最大の矛盾点になると述べます
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戦後80年の終戦の日 - 高橋哲哉の『靖国問題』を再読して考える
                       世に倦む日日 2025年8月20日
戦後80年の終戦記念日が過ぎた。石破茂が全国戦没者追悼式の式辞で13年ぶりに「反省」という言葉を復活させ、日本テレビが7年ぶりに『火垂るの墓』を地上波放送した。それが話題になったが、たったそれだけ。戦後80年という記念の年なのに、過去の戦争と真摯に向き合う十分な催しがない。戦争の惨禍や誤りについて顧み、平和の意味や価値を考える機会が足りない。熱がない。一方、8/15 の靖国神社は大盛況で、早朝開門前から長蛇の列ができ、本殿参拝まで2時間待ちとなり、その様子をNHKの7時のニュースが報道した。言うまでもなく、靖国神社は日本の軍国主義の精神的支柱(野中広務)であり、いわゆる超国家主義(丸山真男)のイデオロギーの中核装置の存在であり、平和憲法の原則に対する反動の政治的象徴である。日本国の基本理念と真っ向から対立するところの、戦争を肯定する思想と宗教の施設だ。

その国家神道の施設への参拝が、お盆の日の伝統的祭事のように意味づけられ、終戦の日の国民的な慣行と風景として位置づけられ、NHKで積極的に紹介されるようになっている。嘗てはそうではなく、8/15 に靖国に参拝する者は異形の右翼であり、市民社会の常識と理性を持った者という視線では見られなかった。30年前の 8/15 に靖国に参拝した者も、今年の 8/15 に2時間待ち行列した者も、その動機や政治思想は同じであって特に差異はない。世の中の価値観が大きく変わり、人々の政治思想が変わり、日本社会は憲法の理念と真逆の生き方を志向する者が住む世界に変わり果てた。その変化は急激なものではなく、一年一年の経過と場面を私はよく知っているので、この変化に驚くことはない。ブログを書いてきた20年は、この反動を批判し続けた過程であり、平和憲法が生きていた日本社会に戻そうと抵抗し、挫折感に苛まれた日々の連続だった

高橋哲哉のちくま新書『靖国問題』を読むと、その第一章に、日中戦争で息子を戦死で失った遺族の母親たちが、1939年の靖国神社臨時大祭に参列するべく上京し、次のように会話するくだりがある(P.22)。「動員がかかってきたら、お天子様へ命をお上げ申しとうて申しとうてね、早う早うと思うとりましたね。今度は望みがかなって名誉の戦死をさしてもらいましてね」。「あの白い御輿が、靖国神社に入りなはった晩な、ありがとうて、ありがとうてたまりませなんだ。間に合わん子をなあ、こない間にあわしとてつかあさってなあ、結構でございます」。「お天子様のおかげだわな、もったいないことでございます」。「よろこび涙だわね、泣くということは、うれしゅうて泣くんだしな」。「私らのような者に、陛下に使ってもらえる子を持たしていただいてな、本当にありがたいことでございますわな」。「靖国さまへお詣りできて、お天子様を拝ましてもろうて、自分はもう、何も思い残すことはありません」

本来なら、戦死者を出した遺族の感情は悲しみでしかないはずなのに、その悲しみが、靖国信仰の国家的儀式を経ることによって喜びに転化し、不幸から幸福へと変わってしまう。高橋哲哉は、この遺族感情の逆転を「感情の錬金術」と呼んで論理化し、戦死者とその遺族に最高の名誉を与える国家宗教のイデオロギーを暴露し批判した。と同時に、この「靖国の母」たちの感情が、宗教的信仰であるがゆえに純粋な主観的コミットであり、客観的論理的に相対化することが難しく、批判して容易に崩すことができないものだという見方を示していた。高橋哲哉の新書が出版されて話題になり、議論になったのは2005年のことで、小泉純一郎が2001年8月に首相として靖国参拝して以降、この問題は大きな政治問題になって論争が続いていた。2002年には国立追悼施設の検討が発案されて分祀問題が起き、2006年には富田メモが発見されて侃々諤々の状況となった。民主党政権ができて沈静化するかと思ったが、安倍晋三の時代となって今に至っている

思うのは、20年前に高橋哲哉が提起した「感情の錬金術」的な問題は、今の靖国神社のイデオロギー状況にはほとんど無関係で無介在ではないかという点だ。具体的に言えば、「靖国の母」的なマインドコントロールの類型は最早この国の地上にほとんど実在しないだろう。先の戦争に出征した元兵士が100歳を迎える時期である。つまり、いま靖国神社に参拝している人間の中には、こうした素朴で清浄な滅私奉公の者はいないまず「悲しみ」の実感や体験がない。したがって「悲しみ」から「喜び」への化学変化もない。それでは、いま靖国神社に群れなして参拝する人々は何者なのか。その動機は何なのか。それは、きわめて政治的な思想信条からの行動であり、参政党や保守党や石原慎太郎とか高市早苗が代表する毒性の政治運動である。先の戦争を侵略戦争と認めず、憲法9条の戦後日本の体制を認めず、東京裁判を認めない人々の集団行動だ。簡単に言えば右翼のイベント集会である

靖国に集合する者たちをよく観察すれば、参院選の投票結果の世代別傾向と同じで、比較的若い年代が多い事実を確認できる。彼らのマインドには「靖国の母」的なセンチメントの内実は無縁だ。そこには何かポジティブな価値があるわけではなく、「英霊」への「信仰」も深く濃く刺さる感情や心理を伴うものではないに違いない。むしろ軽い気分で一同が奉戴する、大義名分的なドグマでありレトリックに過ぎないだろう。彼らの思想の中身はネガティブなベクトルのもので、すなわち、共産主義や戦後民主主義や中華人民共和国に対する憎悪と否定と反発を神髄とするものだ。反中・反共・反9条の主張をデモンストレーションし、東京裁判で否定された戦争を正当化し、敗戦前の帝国日本の復活をアピールすることが、政治祭典の場としての 8/15 の靖国参拝の目的であり本質に他ならない。8/15 の靖国参拝は、年々その性格と実態が露骨になっていて、政治色が濃くなっている状況を指摘できる

30年前も、こうした一団あるいは個々が終戦の日の靖国に集まっていた。が、それは異端で少数派であった。現在は、イデオロギーは同じだが、数が増え、政治的にほとんど多数派と言える形勢になっているため、そこに異端の表象は被せられず、右翼というラベルすら貼られることがない。数年前、NHKのNW9で和久田麻由子が、8/15 の靖国参拝の絵を正月の初詣でに擬え、同質の国民的行事として報じ、日本の季節の風物詩だと言わんばかりの説明をしたことが印象に残っている。テレビの前で猛烈な憤慨を覚えた。あの頃以来、その定義と言説が日本社会にすっかり定着したのか、マスコミが微塵も靖国にアレルギーを感じる気配を見せなくなった。公式参拝か私的参拝かも訊かなくなった。少し前までは、8/15 の靖国の絵としてコスプレ写真が多く投稿・回覧され、批判的あるいは揶揄的な意味を帯びた世論を醸し出し、その異端性や異常性を浮かび上がらせていた。が、その動きも徐々にシュリンク⇒収縮)した

この情景や動向を、現在のアメリカCIAはどう分析しているだろう。反中・反共・反9条は大いに結構歓迎に違いない。だが、東京裁判否定はどうだろうか。そこまで進むとアメリカ否定の地平に繋がり、アメリカの戦争勝利が正義でなくなり、アメリカが日本に民主主義を与えた物語の意義が覆されてしまう。その意味で、アメリカにとって靖国は懸念と不安を孕んだ思想的実体に違いない。昨年の自民党総裁選の折、森本敏が急遽プライムニュースに出演し、高市早苗と石破茂の決戦投票が確実となった局面で、高市早苗を排斥する挙に出て全国の自民党員に影響を与える意見を発した時、私はその裏にアメリカCIAの意図と差配を感じ取った。日本の政治経済のシステム全般を支配し統御するアメリカCIAにとって、参院選での参政党の躍進とそれを押し上げた日本の空気は、順風と感じ満足を覚えつつ、同時に警戒の目を光らせるべき不穏な現実だろう。一歩間違えば、その空気は反米意識に転化し、対米自立を求望する運動に豹変しかねない

オバマ時代の2013年10月、国務長官のJ.ケリーと国防長官のC.ヘーゲルが、来日して二人で千鳥ヶ淵戦没者墓苑に献花するという一幕があった。安倍晋三の第二期政権が始まり、再び靖国問題の反動の気運が高まり、加えて、橋下徹が慰安婦問題で暴言を吐いて日韓関係が危うくなった状況下で、オバマ政権がマイルドな方向に事態を調整すべく手を打った政治だった。このとき、アメリカは靖国神社とそのイデオロギーを拒否する姿勢を示している。当時のヒラリー・クリントンの認識と判断はそこにあった。そこから情勢が変わり、2014年の集団的自衛権の解釈改憲、2015年の安保法制、2017年のG.アリソンの『米中戦争前夜』、2018年のペンス演説へと進み、2022年のロシアの侵攻を経て、米中新冷戦の構図が固まっている。オバマ時代のアメリカの東アジア政策は遠い過去のものとなった。それは間違いないが、かと言って、アメリカ大統領が靖国参拝するという地点には未だ到っていない

9条改憲と同時に立ち起こす日本の戦争政策の4本柱、①スパイ防止法、②徴兵制、③核武装、④靖国国営化の中で、支配国のアメリカが最も逡巡し慎重になるのは④だろうと思われるが、櫻井よしこや日本会議はこのジレンマをどう克服していく計画だろう。あるいは、①②③を実現した段階で対中戦争に突入し、甚大な戦死者を出した後で、最早議論も調整もなく泥縄的に、戦時体制下の混乱に乗じて④を実現する思惑だろうか。ただし、戦死した兵士に国家が名誉を与えるイデオロギー装置がどれほど必要で必須だと言っても、今の日本の社会は、上に高橋哲哉の著書から紹介した「靖国の母」の世界とは遠い。全く隔絶している。親たちもそうだし、子供たち(青年たち)もそうだ。御国のために死んでくれてありがたいとか、天皇の盾となって死ねて嬉しいとか、皇国に命を捧げて名誉で光栄だとか、そのようなメンタリティは寸毫もないだろう。そうしたエートス⇒道徳・倫理)を内面化させるためには、何十年も教育勅語を刷り込んで「国民」を作る期間が必要だ

それを前提として、天皇や皇国というプラスの価値に向けて命を捧げる心構えができる。今の日本には、そうした内的なプラス方向の価値実体がない。嘗ての現人神天皇のシンボルにはアメリカが位置する。皇国や国体の代わりが日米同盟である。八紘一宇の代役の神聖教義がリベラルデモクラシーだ。けれども、それらは現代日本の青年個人が命を捨ててまで帰一合一する価値にはならない。蓋し、彼ら右翼青年が火の玉となって戦争に奔る動機は、反中・反共という「悪魔退治」の政治価値に向けての欲望と疾駆であり、共産主義を地上から抹殺するため、CPC・PRCの打倒と壊滅を実現するための奮闘と挺身であって、9条左翼を殲滅に追い込むことが目標なのだ。勝共・脱9条の桃源郷を実現することが目的であり、その達成を見る瞬間が人生の至高の快楽と幸福なのである。シニカル⇒皮肉)に見れば、それは消費のゲームへの没入でもある。彼らの行為が客観的にプラスの作用と所産となるのは、その恩恵を享受するのはアメリカだ。アメリカの覇権維持に貢献するだけだ

ゆえに、④の次元で令和の日本軍国主義は畢竟の矛盾に直面する。どれほど日本人の血が流れても、それは日本の伝統には染み込まず、日本の聖なる物語にはならない。また、この問題は、深刻きわまる人出不足の中で、どうやって大量の青年を戦場に駆り出す制度と環境を作って回し、数年間の再生産を確実にするかという難問と重なる。どのような詐術と姦策を用いるか、右翼とCIAの手品が興味深い。注目しよう。少し先の話だが、アメリカが予告した台湾有事は2年後だ。例えば、台湾防衛隊や尖閣防衛隊に送られた彼らは、中国軍との戦闘を前に、自分は何のために死ぬのか答えを出さないといけない。それは嘗てのような、天皇や皇国や国体のためではない。反共産主義と反PRCのためであり、アメリカと属国日本と日米同盟のためだ。8/15 のBS日テレを見ていたら、河野克俊が出演して自衛隊の人員不足を嘆き、何やら徴兵制必要論の解禁に近い観測気球発言を放っていて、恐怖させられた