中国の「人民網」が、今年10月に熊本県水俣市で水銀の排出に関する国際条約「水銀に関する水俣条約」が採択・調印されるのを機に、水俣市の現状について真摯に且つ好意的に紹介しています。
勿論世界最大の公害である水俣病の概要にも触れています。
水俣病の原因究明のなかで政府やチッソがおこなった隠蔽や欺瞞の工作の数々は、日本の公害史上でも最も恥ずべき事柄でしたが、そのことには何も触れていません。
しかしその後におこなわれた水俣湾の汚染海域の浚渫清掃については報告し、汚染海域の近くに建てられた水俣病資料館が「経済的利益のために環境を犠牲にしてはならないと警告を発している」ことや、蒲島郁夫熊本県知事が、「政府は事故の初期段階で思い切った措置を取り、被害を最小限に食い止めなければならない」と語っていることは、きちんと紹介しています。
記事のなかには、中国がいま悩んでいるに違いない恐るべき公害への言及はひと言もありませんが、記者の念頭には当然あったことでしょう。
中国政府はもはや一刻の猶予もなく公害の根絶に全力で取り組むべきです。
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環境保護都市に生まれ変わった水俣市
「人民網日本語版」2013年7月26日
国際連合環境計画(UNEP)が水銀の排出のコントロール・減少を狙いとして制定した国際条約「水銀に関する水俣条約」が、今年10月に日本の熊本県水俣市で採択・調印される見込みだ。水俣市は57年前、公害病の水俣病で世界に名を知られることになった小さな都市だが、今は「環境保護都市」という新たなイメージで、環境保護の教訓と経験を世界に発信している。水俣を訪れると、この都市が経験した災厄と再生を肌身に感じることができる。「人民日報」が伝えた。
水俣市は日本の九州・熊本県の水俣湾に面し、住民は代々漁業や塩業を生業としてきた。1908年に日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ)が化学肥料の工場を建設すると、人口1万2千人の小さな町は急速に人口を増やし5万人都市となった。
1950年代になると、水俣では奇妙な現象が相次いでみられるようになった。まず魚や貝類が大量に死に、次にネコやイヌなどの家畜がけいれんを起こしたり、走り回って死んだりし、最後はヒトに四肢のしびれや意識障害などの症状が現れた。生まれた時からこうした症状があり、生涯にわたって人の世話が必要な赤ちゃんもいた。68年になると、調査により、こうした症状の原因は長期にわたって汚染された水産物を食べた結果、体内のメチル水銀が基準値を超え、神経系が破壊されたためであることが確かめられた。汚染源は水俣に繁栄をもたらしたチッソで、長年にわたり高濃度の水銀を含む工業廃水を海に直接流していたことが原因だった。
世界でも典型的なこの公害病は「水俣病」と名付けられた。政府が認定した患者は2273人だけだが、日本の高度成長期に発生した環境問題の代名詞となった。
現地当局は77年から13年間の時間と485億円(1円は約0.06元)の費用をかけて、水銀汚泥を含む海域を埋め立て、水俣湾の水質を少しずつ改善してきた。87年には、汚染海域の汚泥の水銀含有量は水俣病発生当時の0.04ppm-553ppmから 0.06ppm-12
ppmに下がった。さらに3年間の連続モニタリングを経て、水俣湾では漁業が復活。埋め立てられた汚染海域の近くには「水俣病資料館」が建設され、経済的利益のために環境を犠牲にしてはならないとの警告を発している。
同資料館の島田竜守副館長は、「水俣病が残した最大の教訓は、経済発展では環境を尊重しなければならないということだ」と話す。熊本県の蒲島郁夫知事は、政府は事故の初期段階で思い切った措置を取り、被害を最小限に食い止めなければならない。人々の命や健康は非常に大切だと話す。
水俣市民の話によると、水俣病はかつて長らく原因が不明であったことから、伝染病とみなされて患者は隔離され、家族も就職差別や結婚差別にあった。40年以上もの長い時間の中で、水俣市民は患者の認定資格、賠償のペース、漁業禁止の是非、チッソの去就などで利害や要求がぶつかりあい、さまざまな衝突を繰り返してきた。
現在、水俣市の地域社会は相互に信頼しあっており、そのことは「環境保護にはみんなが責任を負う」という意識の中に特に強く現れている。日本の大部分の地域ではゴミの分類は3種類だが、水俣市は24種類に細分化されている。収集日の様子をみると、収集場所には24個のコンテナがずらっと並び、ごみ袋を下げてやって来た市民は表示に従って次々にゴミを入れていく。前田一碩町長によると、ゴミはちゃんと捨てれば資源になる。しっかり分類されたゴミは一斉回収して現地の資源回収会社に買い取ってもらい、得られた資金は地域活動に利用されているという。(編集KS)