2019年8月18日日曜日

戦後最大の冤罪 福島・松川事件70年

 8月17日は、福島市松川町で起きた東北本線の貨物列車脱線転覆事件(死者3名)=松川事件から70年目に当たります。
 この事件は、二審まで死刑を含む全員有罪の判決を下された20人が、最高裁で無罪が確定した、戦後最大の冤罪事件でした。
 それは周辺に居た少年を別件逮捕したうえで、脅迫や拷問まがいの取り調べで自白を強要し、それに基づいて20名の被告を起訴したものでしたが、後に彼らが事件の同時刻帯に団体交渉に参加していたことを示す会議メモ(諏訪メモ)を検察が隠蔽していたことが判明し、アリバイが証明されたことで仙台高裁差し戻され全員無罪となりました。
 
 そこにあるものは、ある一人を強引に虚偽の自白に追い込むことで、他の無実の人たちを有罪にしてしまうことの恐ろしさと共に、被告らに有利な証拠を平然と隠蔽して愧じない検察のこれ以上はない罪深さ・人非人ぶりです。
 
 松川事件は、当時連続して起きた下山事件、三鷹事件と並んで戦後の「国鉄三大ミステリー事件」のひとつで、作家の松本清張氏が1960年に「文芸春秋」に連載した「日本の霧」シリーズで取り上げて大変な評判となりました。
 この事件でも、事故直前に現場を通過する予定であった貨物列車の運休になったこと、警察があまりにも早く現場に到着したこと、事件後に現場付近で不審人物を目撃したという男性が変死したことなどは、謀略事件であることを示唆するもので、当時GHQ配下の謀略機関と官憲が組んで国鉄の労組活動を弾圧するために起こされたと見られています。
 
 東京新聞の記事と「諏訪メモ」の所在を追及して遂に検察が秘匿していることを明らかにした元毎日新聞記者倉嶋氏の述懐(記事)を併せて紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戦後最大の冤罪 福島・松川事件70年 元被告「自白頼み脱却を」
東京新聞 2019年8月17日
 福島市松川町で起きた列車転覆を巡り、被告二十人全員が最終的に無罪となった戦後最大の冤罪(えんざい)事件といわれる松川事件が十七日で七十年を迎えた。無罪確定まで十四年間の法廷闘争を経験した阿部市次(いちじ)さん(95)=福島市=は「検察や裁判官が自白を『証拠の王』とする限り、冤罪はなくならない」と自白に依存した捜査からの脱却を訴えた。
 
 一九四九年八月十七日未明、東北線の線路が外され列車が転覆し、乗務員三人が死亡した。一人の「自白」をきっかけに国鉄の組合員ら計二十人が逮捕され、福島地裁は全員に死刑を含む有罪判決を下した。その後、事件の謀議を行ったとされる同時刻帯に被告が団体交渉に参加していたことを示す会議メモを検察が隠蔽(いんぺい)していたことが判明。アリバイが証明され、六一年に仙台高裁差し戻し審で全員無罪となった
 
 一審判決後、公正な裁判を求める運動が全国に拡大。市民の力が冤罪救済に寄与した先駆的な事例となった。
 「無実と知りながら時の権力に迎合して(司法が)有罪を求めることの不当さ」を世に伝えることこそが、今も事件を語る意義だと、七十年を迎えるに当たり公表した談話で阿部さんは記した。
 二十人で存命するのは阿部さんともう一人だけ。阿部さんはこれまで冤罪がもたらす被害を訴えるため、講演会などで獄中での思いを語ってきた。
 事件の約一カ月後に連行された阿部さんは「何もやっていない」と聴取や公判で繰り返したが、一審判決は死刑。刑務所から週刊誌に冤罪を訴える手紙を送っても、大部分がそのまま戻ってきた。「世間は私たちが犯人だと信じている」と悲しみが募ったという。「大事な青壮年期を奪われた」。阿部さんは談話で悔しさをにじませた。
 
◆世界記憶遺産に再申請へ 支援運動 社会に影響
 事件では一審の有罪判決が出た後、公正な裁判を求める署名運動が全国に広がり、その後の冤罪事件の支援運動に影響を与えた。同事件の資料室を設けている福島大(福島市)などが裁判記録の保存や収集活動を継続。福島大や関係者は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)への資料の登録を目指している
 
 資料室は獄中の被告と支援者らの往復書簡など約十万点を保管。室長を務める初沢敏生(としお)教授(57)は八月上旬「当時の紙は酸性が強く、劣化が進んでいる」と、黄ばんだはがきを手にしながら説明した。
 資料室は今年から保存体制を強化し、劣化防止のための処理を業者に依頼。被告のアリバイを証明し、無罪判決を獲得する鍵となった会議メモも傷みがひどく、優先的に処理した。だが予算に限りがあり、全てに同様の手当てをするのは難しい。
 資料収集に協力してきたNPO法人「福島県松川運動記念会」は昨年、福島地検が保管する事件の記録を閲覧し、供述調書などを写真に収めた。吉田吉光事務局長(72)は「再発防止の観点から、専門家に分析してもらう必要がある」と話す。
 
 福島大は記念会などと連携し、二〇一七年にユネスコの国内委員会に記憶遺産登録に向けた申請をしたが、推薦は見送られた。記憶遺産の新規審査は二〇年以降となる見通しで再申請する意向だ。
 吉田さんは、松川事件が「(無実の)被告を守る組織をつくり、真実を多くの人に知らせるのが大切だと証明した」として、資料の貴重さを訴えている。
 
<松川事件> 「下山事件」「三鷹事件」と並び、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の1949年夏に起きた国鉄に絡む三大事件の一つ。GHQや政府が推進する人員整理を巡り、国鉄と労働組合の間で緊張が高まる中、国労と東芝労組の組合員計20人が汽車転覆致死などの容疑で逮捕、起訴された。当時、東芝でも労働争議があった。福島地裁は50年、5人の死刑判決を含め全員有罪とした。その後、被告を支援する「松川運動」が広がり、61年の仙台高裁差し戻し審で全員に無罪が言い渡され、63年に最高裁で確定した。
 
 
松川事件70年「諏訪メモ」スクープの元記者・倉嶋さん「冤罪終わらせて」
毎日新聞 2019年8月17日
 「例のメモ、検察に?」「あるよ」。福島地検の検事正は明快に答えた――。戦後最大の「冤罪(えんざい)事件」とされる松川事件。当時、毎日新聞福島支局の記者だった倉嶋康さん(86)=相模原市=は、死刑を宣告された元被告のアリバイを証明する「諏訪メモ」の所在をスクープし、逆転無罪のきっかけをつくった。事件は17日で発生から70年を迎える。「終わった出来事ではない。それぞれの立場の人が、情熱をもって仕事と向き合い、冤罪を繰り返さないでほしい」と訴える。【柿沼秀行】 
 
 事件は1949年8月17日未明に発生。福島市松川町の東北線でレールが外されて列車が脱線・転覆し、3人が死亡した。旧国鉄労組の組合員ら20人が逮捕された。裁判で検察側は、被告らが人員整理への不満から、共謀して列車を転覆させたと主張。1審で5人が死刑、5人が無期懲役など全員が有罪判決を受けた。 
 
 倉嶋さんが福島支局の新人記者として赴任したのは55年。事件は2審で3人が無罪となり、死刑4人を含む17人が有罪とされ、裁判の舞台が最高裁に移っていたころだ。 
 下宿近くの銭湯で、無罪となった元被告とよく顔を合わせていた倉嶋さん。ある日、背中を流し合っていると、ぼそっと「(死刑判決を受けた)1人の無罪が立証されるかも」と言われた。列車転覆を計画した「謀議」をしたとされる時刻、別の場所で団体交渉(団交)に出席していたことを示すメモが存在するという。後に記録者の名前から「諏訪メモ」と呼ばれるようになる。 
 その後、朝日新聞などがその存在を報じたが所在は不明で、実在するのか分からなかった。倉嶋さんは弁護士や福島地検を回り、所在を追い続けた。 
 
 地検を張っていた時のこと。郡山支部長が車で出て行くのを見た。親しい事務官に聞くと「例の件さ」と言う。確信した倉嶋さんは検事正の部屋に駆け込み「今帰った支部長、団交記録の件で?」と切り込んだ。検事正はその気迫に押されてか「そうだ」との返事。「記録は今、検察に?」とたたみかけると、正直に「あるよ」と答えた。メモは大学ノートに鉛筆書きで3、4ページほどという情報もくれた。 
 やはり検察が隠していたのだ――。地検を出た倉嶋さんは自転車で支局に帰った。その日のうちに書いた記事は57年6月29日付の毎日新聞福島版に「『諏訪メモ』発見さる/検事が保管/松川事件、被告のアリバイ立証か」と大きく載った。 
 
 反響は大きく、国会でも取り上げられるなどし、ついに最高裁に新証拠として提出された。検察側の主張は次々と崩され、検察のシナリオに符合するように自白を強要された冤罪成立の過程が明らかにされていった。最高裁は仙台高裁への差し戻しを命じ、高裁は61年8月、全員を無罪とし、63年に最高裁で確定した。 
 
 警察・検察の取り調べを巡っては今年6月、裁判員裁判対象事件などでの録音・録画(可視化)を義務づける改正刑事訴訟法が施行された。街中には防犯カメラも普及し、容疑者の検挙に貢献している。 
 ただ、倉嶋さんは「機械任せにしていると、人の心理を心得ない捜査官が出てくる。容疑者と平板に向き合っていると、大事なことを見逃し、冤罪が生まれる可能性がある」と心配する。さらに「弁護士もマスコミも行儀よくなった。でも、もっと正義感や信念をもって誠実に仕事に向き合っていいと思う」。なんとなくで済ませる。その空隙(くうげき)にこそ、冤罪の温床があると指摘する。