2019年8月15日木曜日

日本軍がベトナムに「慰安所」設置 仏軍の公式資料に明記

 安倍首相は、旧日本軍による慰安婦の強制連行について、河野談話発表までに政府が入手した資料について「強制連行を示す証拠はなかった」(1327日、衆院予算委)ことを強調し、それを受けて修正主義者やネトウヨらは「強制連行はなかった」と主張しています。
 日本政府は敗戦が決まると、進駐軍が来日する前に極秘書類を昼夜を分かたずに焼却処分し、現地の軍部にも処分を命じているので、見つからなかったとしても不思議はありませんが、そのことをもって「強制連行」がなかったと言うことは出来ません。
 
 韓国の国家機関国史編纂委員会は12日、日本軍が1940年代にベトナムを侵略した際、複数の都市に「慰安所」を設置していたことを示すフランス軍の資料を確認したと発表しました。ベトナムにおける日本軍の慰安所の設置は、これまで口頭などで部分的に伝えられてきたが、公式の文書を介して確認されたのはこれが初めてです
 
 強制連行を証明するものに終戦直後のオランダの戦犯法廷があります。
 そこでは日本軍占領下のインドネシア各地の慰安所で働かされていたオランダ人女性は35人と認定されましたが、オランダ政府は1994年に入り、200300人とする報告書を出しました。
 その「バタビア臨時軍法会議」の裁判記録を、外務省が河野官房長官談話発表の前年に公式に入手していたことが共産党の赤嶺政賢衆院議員の国会質問14年4月23日)で明らかにされています。
 その点でも「強制連行を示す証拠はなかった」とする安倍首相の発言は不正確です。
 
 ベトナムニュースと14年4月24日付しんぶん赤旗の記事を紹介します。
 
  (関係記事)
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日本軍がベトナムに「慰安所」設置、仏軍の公式資料で初めて確認
 VIET JO ベトナムニュース 2019/08/14
 朝鮮の歴史を研究する韓国の国家機関である国史編纂委員会(NIKH)は12日、日本軍が1940年代にベトナムを侵略した際、北部の複数の都市に「慰安所」を設置していたことを示すフランス軍の資料を確認したと発表した。
 これは、フランス国立海外文書館(ANOM)に保管されているフランス軍の公式資料で、日本軍がハイフォン市(紅河デルタ地方)、バクニン省(同)、ハノイ市に慰安所を設置していたことが記されていた。
 ベトナムにおける日本軍の慰安所の設置は、これまで口頭などで部分的に伝えられてきたが、公式の文書を介して確認されたのはこれが初めて
 
 1940年9月、日本軍はヴィシー政権(第二次世界大戦中のフランス政権)と手を結び、フランス領インドシナ北部(現在のベトナム北部)に進駐を開始。翌年、フランス領インドシナ全域に進駐し、ハイフォン市やバクニン省、ハノイ市への侵略も拡大した。
 今回確認されたフランス軍の報告書は、1940年10月7日から10日にかけて書かれたもので、報告書によると日本軍は陸軍と海軍の兵士のためにハイフォン市に2か所の慰安所を設置したという。
 また、バクニン省の日本軍配置図に、慰安所の所在を示す印があることが確認された。慰安所は日本軍の基地のすぐそばに置かれており、日本軍が主体として慰安所を直接管理・統制していたことがわかった。
 ハノイ市の日本軍配置図にも、市中心部に日本軍の他の主要施設とともに慰安所が置かれていたことが示されている。
 
 これとは別のフランス軍の報告書には、1941年2月に看護婦70人と身元不明の女性25人がハイフォン港からベトナムに入ったことが記されている。国史編纂委員会はこの女性たちについて、日本軍の関係者であることは間違いないとし、慰安婦としてベトナムに送られた可能性が高いとしている。
 なお、国史編纂委員会は2016年から、日本軍の慰安婦および戦争犯罪資料の収集・編纂事業を進めている。
 
 
強制示す記録 外務省も入手 日本軍「慰安婦」赤嶺氏が指摘
河野談話の発表前年に
しんぶん赤旗 2014年4月24日
 日本軍「慰安婦」問題で、軍による強制連行を裏付けるオランダの戦犯法廷「バタビア臨時軍法会議」の裁判記録を、外務省が河野官房長官談話発表(1993年)の前年に公式に入手していたことが23日、日本共産党の赤嶺政賢衆院議員の国会質問で初めて明らかになりました。同日の衆院内閣委員会で赤嶺氏が指摘し、外務省が認めました。
 
 安倍晋三首相は、河野談話発表までに政府が入手した資料について「強制連行を示す証拠はなかった」(13年2月7日、衆院予算委員会)と発言し、現在まで訂正していません。
 赤嶺氏はこれまで、談話発表と同時に政府が発表した資料一覧のなかに、法務省がまとめたバタビア裁判記録の要約があると明らかにしています。今回は新たに、裁判記録自体を入手していたことを突き止めました。
 赤嶺氏は市民団体が情報公開させた、外務省の西欧第一課が作成した「対外応答要領」(92年7月23日付)と、「オランダ人従軍慰安婦問題」(同28日付)という二つの文書を入手しました。
 文書はそれぞれ、「ハーグ公文書館保存の裁判記録については、我が方在蘭大使館を通じて入手する予定」(23日付文書)、「蘭国立公文書館よりバタビア軍事裁判記録を入手した」(28日付文書)としています。
 
 同日の委員会で赤嶺氏は二つの文書を示して追及。外務省の長谷川浩一大臣官房審議官は「入手したとの記録が残されている」「何らかの形で(当時、『慰安婦』問題を調査した)内閣外政審議室に情報提供したと考えられる」と認めました。
 バタビア臨時軍法会議 戦後のオランダによるBC級戦犯裁判。日本軍がインドネシアで、抑留所に収容されていたオランダ人女性を強制的に連行し「慰安婦」とした「スマラン事件」では、日本の軍人7人と軍慰安所経営者4人が死刑や禁錮15年を含む有罪判決を受けました。