2019年8月23日金曜日

23- 昭和天皇「拝謁記」 戦争責任 国民的議論を

 NHKがこのほど一部公表した田島道治初代宮内庁長官昭和天皇とのやりとりを記録した手記:「拝謁記」を、しんぶん赤旗が21日と22日に取り上げました。
 
 天皇の戦争責任に関して私たちの記憶に残っているのは、1975年10月31日、NHKで昭和天皇の記者会見が報じられ、戦争責任を問われた際に、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」というものでした。
 手記によれば、昭和天皇は「私どうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(52111日)などと強く希望したものの、吉田首相が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」などと反対し、「反省」を述べた一節が削除されたとされます
 終戦から随分と日が経っているので、「反省」に触れる以上は完璧なものでなければならないと吉田首相は考えたのかもしれません。
 
 これについて、日米開戦(1941年)をめぐって、天皇は自らが出席した「御前会議」で開戦が決定されたにもかかわらず、「平和を念じながら止められなかった」「東條内閣の時既に病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」(511214日)と述べているほか、「太平洋戦争近衛が始めたといつてよいよ」(5245日)と近衛文麿元首相に責任を全面転嫁しています。
 しんぶん赤旗は「拝謁記」には、侵略戦争の責任をめぐる昭和天皇の極めて矛盾した心情がつづられてる としています
 
 また昭和天皇がたびたび改憲と再軍備に言及し、「吉田には再軍備の事憲法を改正するべきだといふ事を質問するやうに でもいはん方がいゝだらうネー」(52218日)などと述べ、田島氏から「憲法の手前そんな事いへませぬ」などといさめられたことに触れ、しんぶん赤旗は、天皇の地位が新憲法下で「象徴」へと変わり、「国政に関する権能を有しない」ことになったことを昭和天皇が理解せず、戦前の元首意識を多分に残していたことをうかがわせる としています
 
 しんぶん赤旗の記事を紹介します。
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侵略戦争 昭和天皇 自己弁護と「反省」 初代宮内庁長官の手記 公開
首相の反対で「封印」
しんぶん赤旗 2019年8月21日
 戦後約5年半にわたり初代宮内庁長官などを務めた田島道治氏が、昭和天皇とのやりとりを記録した手記が公開されました。計18冊の手帳やノートに書き込まれた文書の中には、昭和天皇が戦争への「反省」の気持ちを表明したいとの意向を明らかにしていたことや、再軍備の必要性を繰り返し発言していたことなどがつづられています
 
 田島氏は1948年から宮内庁の前身の宮内府や同庁のトップを務め、在任中、600回を超える昭和天皇との対話を詳細に記録。手帳には「拝謁記」と記されており、遺族から提供を受けたNHKが一部を公開しました。
 手記には、昭和天皇が1952年5月、サンフランシスコ講和条約を受けた日本の独立回復を祝う式典での「おことば」で「反省」の気持ちを表明したいと田島氏に伝えたものの、当時の吉田茂首相の反対で削除されたとのやりとりが記録されています。昭和天皇は「どうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(同年1月11日)、「私ハ反省といふのは私ニも沢山(たくさん)あるといへばある」(同2月20日)などと強く希望したとされます。昭和天皇が戦争への「反省」を述べようとしたこと、それが首相の反対で「封印」されたことを示す史料です。
 
 一方で、戦争の開始については「平和を念じながら止められなかった」「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」(51年12月14日)などと繰り返し自己弁護を展開陸海軍の統帥者として侵略戦争に直接の責任を負っていたことへの自覚はまったくみられません
 また、南京虐殺事件(1937年)について「支那事変で南京でひどい事が行ハれてるといふ事をひくい其筋(そのすじ)でないものからウスウス聞いてはゐたが別ニ表だつて誰れもいはず従つて私は此事(このこと)を注意もしなかつた」と述べるなど、日本軍の蛮行を当初から知っていたことが記されています。
 
 さらに、終戦にかんして「私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其(その)時を見付けたいといふ念もあつた」(52年3月14日)という記述もあります。1945年2月に近衛文麿元首相が早期終戦を上奏した際、「もう一度戦果をあげてから」と退けたことは知られていますが、天皇の肉声として「一撃講和論」が明らかになったのは初めてです。ここには、体制維持(天皇制護持)を優先し、東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下など筆舌に尽くし難い惨禍を招いたことへの反省はみじんもみられません
 
 昭和天皇は生涯、公には戦争への「反省」を口にしませんでした。しかし、今回、きわめて不十分であっても自ら「反省」をのべていたことが明らかになった以上、侵略戦争の責任がどこにあったのか、天皇の役割と責任はどうだったのか、国民的な検討と議論が求められます。
 
 
昭和天皇「拝謁記」公開 戦争責任 国民的議論を
しんぶん赤旗 2019年8月22日
 NHKがこのほど一部公表した田島道治初代宮内庁長官が昭和天皇とのやりとりを記録した手記(「拝謁記」)には、侵略戦争の責任をめぐる昭和天皇の極めて矛盾した心情がつづられています。
 
「反省」表明望む
 田島氏の手記で注目されたのは、昭和天皇がサンフランシスコ平和条約発効後の日本の独立を祝う式典で戦争への「反省」の気持ちを表明したいと田島氏に伝えたものの、当時の吉田茂首相の反対で削除されたとされる部分です。
 昭和天皇は生前、公には戦争への反省を表明したことは一度もありませんでした。記者会見で戦争責任を問われても、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」(1975年10月31日)と回答を拒否していました
 
 手記によれば、昭和天皇は「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)などと強く希望しながら、吉田首相が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」などと反対し、昭和天皇が戦争への「反省」を述べた一節が削除されたとされます。
 もし昭和天皇が戦争への「反省」を当時、曲がりなりにでも表明していれば、日本の行った戦争が「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」だったなどの誤った歴史認識がいまだに「靖国派」などを中心に主張されている今日の状況が大きく変わっていた可能性があります。昭和天皇の開戦責任を回避するため、吉田首相が昭和天皇の「反省」を封印した事実は重大です。
 
責任を全面転嫁
 同時に、手記は、戦争への「反省」を述べながらも、自己弁護を繰り返し、陸海軍の統帥者として侵略戦争に直接の責任を負っていたことへの自覚がまったく見られない昭和天皇の姿を示すものとなっています。
 例えば日本軍による南京虐殺事件(1937年)について昭和天皇は「ウスウス聞いてはゐ(い)た」が、「此事(このこと)を注意もしなかつた」と、日本軍の蛮行を当初から知っていながら問題を放置していたことを語っています。
 日米開戦(1941年)をめぐっても、自らが出席した「御前会議」で開戦が決定されたにもかかわらず、「平和を念じながら止められなかった」「東條内閣の時ハ既に病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」(51年12月14日)と述べているばかりか、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」(52年4月5日)と近衛文麿元首相に責任を全面転嫁しています。
 
 さらに、戦局が絶望的になりながら無謀な戦争を継続したことについて「私ハ実ハ無条件降伏は矢張(やは)りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたやうな時ニ其(その)時を見付けたいといふ念もあつた」(52年3月14日)と告白していますが、その結果、東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下など筆舌に尽くしがたい惨禍を招いたことへの反省はうかがえません。
 それどころか、終戦をもっと早くできなかったのかという疑問に対し、「事の実際としてハ下剋上(げこくじょう)でとても出来るものではなかつた」(51年12月17日)と述べて、自己の責任をあくまで否定しています。
 今回の手記の公開を機に、侵略戦争の責任がどこにあったのか、昭和天皇の役割と責任はどうだったのか、改めて国民的な検討と議論が求められます。
 
再軍備など求め
 手記にはさらに、昭和天皇がたびたび改憲と再軍備に言及し、「吉田ニハ再軍備の事ハ憲法を改正するべきだといふ事を質問するやうに でもいはん方がいゝだらうネー」(52年2月18日)などと述べ、田島氏から「憲法の手前そんな事ハいへませぬ」などといさめられたことも記録されています。
 天皇の地位が戦前の「統治権の総攬(そうらん)者」から新憲法の下で「象徴」へと変わり、「国政に関する権能を有しない」ことになったことを昭和天皇が理解せず、戦前の元首意識を多分に残していたことをうかがわせる内容です。
 
 今回、NHKが公開したのは、田島氏の計18冊の手帳・ノートの内容の一部にすぎません。研究者や市民が触れることができるよう、内容を全面的に公開することが望まれます。(入沢隆文)